1.きみを一番に
あの始まりの日から五年。
スカイアンドグレードは息を引き取った。骨折と翼の欠損により、大空へ羽ばたくことができなくなってしまい、安楽死の処置が行われたのだ。
スカイアンドグレードが息を引き取ったその日、私は泣かなかった。
いや、泣かなかったではなく、泣けなかったのかもしれない。
私の心の中には、何処か虚無感というものがあった。
雨。
私の瞳から、流れ落ちるのは、雨。
これは、決して、涙なんかではない。
雨、雨、雨。ただ、塵と埃が混じった、汚い雨にすぎない。
左を見る。お姉ちゃんが泣いていた。
スカイアンドグレードは、私たちを救った存在だ。私たちの、英雄だ。
お姉ちゃんはその英雄の死に、涙している。泣き崩れている。
一方の私は、立ち尽くしたまま、スカイアンドグレードの屍をただぼんやりとした顔で見ているだけ。
悲しいとか、寂しいとか、そんな感情は抱かない。
私は、笑わず、泣かず、怒らず、スカイアンドグレードのもとに花を添えてやった。
「クレナイ」
「……どうした、シャレア」
「スカイアンドグレードは幸せだったのかな」
「……わからん。それを知っていたのは、スカイアンドグレードだけだ」
クレナイは煙草を吹かし始めた。
クレナイのこの行動は、気まずいときや気分が塞がれたときについしてしまうクセの一種だ。
なるほど。
お姉ちゃんもクレナイも、スカイアンドグレードの死を悲しんでいる。
それほど、想いがあったのだろう。
対して、私はスカイアンドグレードの死を悲しんでいない。
私は、スカイアンドグレードのことをそれほど想っていなかったのかもしれない。
……それほど、想っていなかった? 私が?
それは、おかしい。
私を変えてくれたのは、スカイアンドグレードだったはずだ。私の英雄は、スカイアンドグレードだったはずだ。大空を駆け回って、いつか恩を返すって、決めたはずだ。
それなのに私は今、ぼうっと屍を見下ろして、脳裏の片隅でこれからの自分の進むべき道を考えようとしてしまっている。
「……ごめん。伝説の天馬にしてあげられなくて、ごめん」
やっと出てきた感情は、後悔だった。
それも、この後悔という感情はお姉ちゃんやクレナイが向けているものとはちがう感情だ。
お姉ちゃんやクレナイの感情は、もっといっしょにいてあげたかった、もっとしてあげられたことはなかったのか、といったスカイアンドグレードのことを想うが故に出た後悔。
だが、私が今、スカイアンドグレードに向けている後悔は、私のための後悔で、スカイアンドグレードを直視していない。
歪な感情だ。
ヒヤッとした。
ぞわりぞわりと、心の奥底から闇が生まれてくる。自分では抑えることができないほどの、暗い、暗い、闇が、私の心を埋め尽くしていく。
「……終わってなんか、いないからね。スカイアンドグレードの伝説は、これからなんだから」
スカイアンドグレードの屍に、笑顔を向ける。
私は、何処か狂ってしまったのだろうか。
みんなが悲しそうにしているというのに、私はぞわぞわと、何処か興奮した気持ちで、空を眺め始めている。
気持ちを、感情を、やっと出せたと思ったら、おかしな感情だった。
気がつけば、お姉ちゃんが不安そうな顔で私の顔を覗いていた。
おっと、いけないいけない。今は、しめやかな気持ちでいなければならない。
決して、高揚した気持ちを表に出すようなことはしてはいけない。
私は、狂ってしまっているとはいえ、それは守らなければならない。
だから私は、涙を流すことにしよう。
と、思うのだけれど、私の瞳からはやはり涙が流れてくれなかった。
「シャレア……?」
「……私は、どうすれば良いと思う?」
俯き、お姉ちゃんに疑問を投げ掛ける。
何を言っているのだろう、と自分で思ってしまった。
気持ちは全然参っていないと思っていたけれど、もしかしたら、私は相当に参っているのかもしれない。
ああ――そうか――。
私は気づいてしまった。
狂った感情をぶつけたのも、狂った行動をしてしまったのも。
これらは、私がスカイアンドグレードのことを想っていなかった故のものではなかったのだ。
むしろ、その逆。想いすぎていたのだ。
私はあの日、あのとき、あの出会いから、スカイアンドグレードのことを一番に考えてきた。
私の一番だから、一番に考えてきたのだ。
だから、私はスカイアンドグレードの死という現実を直視することができなくて、狂ってしまっているのだろう。
どうやら、私のメンタルは、相当深刻な状態らしい。
そのとき、私は漸く身体の異変に気づいた。
ゼェゼェ、ハァハァ、と苦しい息を吐いている。心臓や肺や胃のあたりなんかが、締めつけられているような感じがして、気持ちが悪い。
私も、死ぬのだろうか。
なんて、思ってみる。
思ってみるだけ。思ってみるだけだ。
まだ、私は死ねない。だから、倒れるわけにはいかない。
けれど、私は地面にドサッと倒れ込んでしまう。
……重症だ。
「わ……たしは……ま……だ……」
意識の混濁の始まり。
相当なショックだったらしい。私の口から吐瀉物がばら蒔かれ、雨とともに、地面を濡らす。
「シャレア⁉ シャレア! シャレア!」
お姉ちゃんが蒼白した顔で、必死に私の名前を呼ぶ。
しかし、私の意識が消え去っていくのを止めることはできない。
何をしているのだろう、私。
心の中で嘲笑する。
惨めだ。無様だ。
酷く、滑稽だった。
光を掴もうとした。光を掴みたかった。
けれど、その光は、厚い雲に遮られてしまっている。
翼を捥がれてしまったような感覚だ。
あはは。ははは。
これが、スカイアンドグレードの味わった最期なのだろうか。
暗い、暗い、土の中。大空を駆け回る天馬とは真逆の世界。
悔しいだろうな。寂しいだろうな。
と、私は思うのだけれど、実際にスカイアンドグレードがどう思っていたかなんてわからない。これを知る術は、ない。
私は私で、きみはきみ。私がちっぽけな人間で、きみは私の英雄。
それはいつまでも変わらないのだけれど。
「ぁ……うぅ……」
声が出る。
枯れた声。もう、限界なのだろう。
視界が霞んでいる。すくそばにお姉ちゃんがいるのはわかっているのに、お姉ちゃんの姿が見えない。
何処。何処に、いるの。
なんとかお姉ちゃんの気配を感じ取ろうとするのだが、気配すら感じ取ることが厳しいらしい。
もうまもなく、か。
死に対して抗おうとしたのだが、無謀だと悟り、死を受け入れることにする。
仕方がない。仕方がない。
仕方がなかった、と思うようにすれば、多少は報われたような気持ちになれる。
スカイアンドグレードが死んだのは事故だった。仕方がない。
私が今、地面に倒れているのもそういう運命だった。だから、仕方がない。
仕方がない、仕方がない、仕方がない……? 本当に……?
自分の思っていることを疑ってみる。
仕方がないって、ことにしたくない。
仕方がないって、なんだ? 呪文か何かなのか?
と、思うのだけれど、仕方がないことは仕方がないことで、私が何をしようがスカイアンドグレードの死を変えることはできない。
実に無力だ。誰かを死から退ける呪文が使えれば良いのに。
自分の無力さを痛感する。
弱い、弱い、弱い、弱い、弱い弱い弱い弱い弱い弱い弱い弱い弱い弱い。私は、弱い。
……だから、強くならなくてはいけない。
「ぉ……ぁ……?」
力尽きる間際の私は、そのとき、幻を見てしまった。
白い翼。麗しい姿。
見た者、全員を魅了するような、何か。
これは。これの正体は。
「ぇあ……スカイ、アンドグレード……?」
一頭の天馬。それが、私の方に近寄ってきていた。
さっきまで、地面に倒れていた私は、がばりと起き上がることができてしまう。
あれ……どうして……?
意味がわからない。
不思議な力がはたらいているのか。
いや、これは、幻覚。きっと、これは走馬灯か何かなのだろう。でなければおかしい。
「……無事か」
隣にクレナイがいた。腰を落として、クールな目で私を見つめている。
クレナイがごく自然にそこにいた。
ということは、これは、幻覚でも夢でも、なんでもない。
では、この天馬はいったい……?
「お前にとって、スカイアンドグレードが特別な存在だというのは、見ていればわかる」
「えっと……」
「ここでお前に死なれたら困る。お前はウチ専属の騎手なのだから」
淡々と言われる。
私は来期から騎手になることが決まっている。
騎手とはいっても、競馬の騎手ではない。
【天馬競争】の騎手だ。
【天馬競争】は簡単に言ってしまえば、馬が空を駆ける天馬になった競馬だ。
馬に賭けるのではなく、天馬に賭ける。馬が駆けるのではなく、天馬が駆ける。
それが、【天馬競争】だ。
クレナイの言う『お前が死なれたら困る』というのは、いろいろな意味を含んでいる。
従業員に死なれると業務が滞ってしまうので困るという意味もあるし、この場所で死なれると単純に死体の処理が困るという冷酷な意味もある。
そして、貴重な騎手を失ってしまうのが困る、という意味もあるだろう。
おそらく、クレナイが最も困ると感じているのは、私という騎手を失うことだ。
まず、天馬という生き物はペガサスとユニコーンの二種類にわけられ、ユニコーンは人間の男性に対して拒否反応を示す場合がある。
さらに、騎手は高度なテクニックや激しい動きをもろともしない忍耐力、運動能力などが求められる。
そして、天馬を上手く操るために、小柄な者が良いとされている。
だから、騎手になれる者がなかなかおらず、騎手というものは貴重なのだ。
「そうか。お前はしばらくここを離れて、騎手になろうとしていたから、知らなかったか」
クレナイがその真っ白な天馬の頭を撫でる。
「紹介しよう。こいつは――スカイアンドホワイト。スカイアンドグレードの子どもだ。……そして、お前の相棒となる天馬だ」
私の身体の中に衝撃が走った。
「スカイアンドグレードの……子ども……?」
「ああ。あとは、お前が面倒を見ろ」
それだけ言って、クレナイは風のように去っていった。
私とお姉ちゃんとスカイアンドホワイトの二人と一頭だけがその場に残る。
スカイアンドグレードは、伝説を残す前に命を落とし、冷たい地面の感触を永遠に味わうことになってしまった。
私とスカイアンドグレードの伝説は、潰えてしまった……?
いや。まだ、潰えちゃいない。まだ、終わっちゃいない。
スカイアンドホワイト。きみには、せめて、希望ある空で暗闇を照らしてほしい。
「スカイアンドホワイト。私がきみを――一番にしてあげる」
白き輝きを放つ一頭の天馬の前で、そう決意した。
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