第2話 春風に揺れる放課後
春の陽射しが、ゆるやかに教室を包んでいた。
窓から差し込む光は、机の上に淡く影を落とし、どこか眠気を誘うようなあたたかさを帯びている。
昼休みを過ぎた午後の授業。生徒たちの集中力が切れかける頃合いだ。
柊蒼真は、自分の席で教科書をぼんやりと眺めていた。
ページを開いたまま視線は黒板の方へと向かっているが、内容が頭に入っているかというと、そうでもない。
カーテンが風に揺れ、淡い緑色の光が壁にゆらゆらと映る。
窓の外では、桜の花びらが風に乗ってふわふわと舞っていた。
そのひとつが、教室の窓際の机にひらりと落ちる。
(……今日もいい天気だ)
そんなことを思いながら、柊は小さくあくびをかみ殺す。
目を閉じてしまいそうになる自分をなんとか叱咤し、ペンを持ち直す。
先生の声が前方から響くが、それもどこか遠くに感じた。
教室の空気はまったりとしていて、誰もが眠気と戦っているようだった。
それでも、柊にとっては嫌いじゃない空気だった。
──この、なんでもない日常。
にぎやかすぎず、静かすぎず。誰かが笑っていて、誰かが愚痴をこぼしていて、でも全体としては穏やかに流れていく。
柊はそんな日々を、けっこう気に入っていた。
授業が終わると同時に、教室内に一斉に立ち上がる椅子の音が響く。
柊はゆっくりと立ち上がり、机の上の教科書をそろえた。
「おーい、柊ー。体育だぞー、走る準備はいいか?」
後ろの席の男子が、体操服の袋をぶんぶん振りながら声をかけてきた。
「うん、あとで追いかける」
「置いてくからなー!」
軽口を叩きながら、男子は友達数人と一緒に教室を出ていった。
柊は鞄の中から体操服の袋を取り出した。
制服のボタンを外しながら立ち上がる。
何気ない、いつもの放課後前。
隣の席の男子が「体育、サッカーかなー。走るの嫌なんだよな」とぼやいている。
窓際のグループはもう盛り上がり始めていて、早口で何かを喋りながら教室を出て行った。
柊はそんな空気の中で、ほんの少し遅れて教室を出る。
廊下は夕焼けの光に染まり始めていた。
窓の外には茜色に染まる空が広がり、風に乗って桜の花びらが一枚、廊下の床に舞い込んできた。
その様子を何気なく目で追いながら、柊は歩く。
校舎の端にある更衣室に向かいながら、すれ違う生徒たちに軽く会釈を返す。
特に目立つわけではないが、柊はどこか人の気配を柔らかく受け止める雰囲気を持っていて、自然と周囲の人間と距離を取らない。
それが彼のさりげない人気の理由でもあった。
「柊、おつかれ」
「蒼真、次は体育だっけ?」
何人かの生徒が声をかけていく。
柊はそのひとつひとつに、にこっと笑って返事を返した。
更衣室で着替えを終え、グラウンドへと出る。
春風が吹き抜け、体操服の裾がふわりと舞う。
目を細めて空を見上げると、雲が少しずつ西へ流れていた。
体育はサッカーだった。
そこまで得意なわけではないけれど、柊はボールを追いながらも、どこか楽しそうだった。
誰かにパスを出し、声をかけられたら自然と笑って返す。
試合が白熱していく中で、柊の動きは目立つわけではないが、常に周囲を見て動いていた。
(……やっぱり、身体を動かすのは嫌いじゃない)
風が汗を冷まし、額に貼りついた髪をそっと撫でていく。
試合が終わる頃には、空はすっかりオレンジに染まっていた。
校舎の影がグラウンドを長く伸び、ひときわ高いところにあった校舎の窓が、茜色の光を反射してきらりと光る。
着替えを終えた柊が校舎の裏手に回ると、そこは人があまり通らない静かな場所だった。
夕焼けの空と、遠くで響く部活動の掛け声。
風の音と、微かな鳥のさえずり。
柊はベンチに腰を下ろし、空を見上げた。
まるで溶けるように色を変えていく空を、何も考えずに眺めていた。
(……なんか、落ち着くな)
風の中に、ほんのりと春の香りが混じる。
どこかで咲いている花の匂いか、それとも誰かの洗剤の匂いか。
そこに──足音が近づいてきた。
「いたいた。蒼、置いてくなよ」
聞き慣れた声に顔を向けると、煉が手をひらひらと振りながら歩いてくる。
夕焼けに照らされた彼の黒髪が、どこか赤く輝いて見えた。
「悪い。ちょっとだけ、ぼーっとしてた」
「そっか。……いい時間だよな」
隣に腰を下ろした煉が、同じように空を見上げた。
何気ない、ただの放課後。
けれど、それがとても心地よくて──。
ふたりは、しばらく黙って空を眺めていた。
◆ ◆ ◆
放課後のチャイムが鳴り響いた瞬間、教室の空気がふっと緩んだ。
椅子を引く音、鞄をまとめる音、おしゃべりの声が交錯しながら、夕暮れの気配がじわじわと教室へ流れ込んでくる。
柊蒼真は制服の第二ボタンに手をかけたまま、ぼんやりと廊下の方を見やった。
窓越しに差し込む光が扉の縁を照らし、誰かの影がゆらりと映る。
「あ、いたいた!」
にぎやかな声とともに、隣のクラスの女子たちが教室に飛び込んできた。
「やっぱりカッコいいよね〜! 篠宮煉くん!」
「ほんとほんと! 声も優しいし、笑顔がやばい……!」
教室の後ろで読書をしていた女子たちが「え、また?」とぼやき、男子たちは「また騒がれてるのかよ」と小声で呟く。
それでも誰も本気で苛立ってはいない。慣れた光景だった。
柊は制服の前が中途半端に開いたまま、ぽけーっと立っていた。
自分とは関係ない熱気に巻き込まれる気もなく、体操服の袋に目を落とす。
「よ、蒼」
聞き慣れた声に顔を上げると、整った顔立ちにさらりとした黒髪の少年──篠宮煉がにこっと微笑んでいた。
「……煉」
「……ボタン、途中だぞ」
言われてようやく、自分の制服の前が開いていたことに気づく。
「ああ……ありがと」
のんびりとボタンを留めながら、柊は煉の顔をじっと見た。
その背後では、名残惜しそうに立ち尽くす女子たちの姿。
「また騒がれてたね」
「うん。まあ、慣れた」
煉は少し気まずそうに笑って、肩をすくめた。
柊はそんな彼の態度に特別な感情を抱いてはいなかったが、「大変そうだな」とは思っていた。
ふと、教室のドアの前に立っていた男子のひとりが声をかける。
「おーい、煉ー! 先行ってるぞ!」
「うん、あとで行く」
声をかけた男子は、友人たちと笑いながら教室を出て行く。
その背中を見送りつつ、柊は窓の外に目をやった。
茜色に染まりかけた空。
春の光が窓のガラスを通して淡く差し込み、教室の空気をやわらかく包んでいた。
「今日は、一緒に帰る?」
「うん。いいよ」
煉と並んで歩きながら、教室を後にする。
廊下にはまだ生徒の姿がちらほらと残っていて、靴を履き替える音や部活へ向かう足音が響いていた。
下駄箱へ向かう途中、柊はふと足を止める。
特別棟の屋上へと続く階段。その影の中に、運動着姿の生徒たちが立っていた。
動きに無駄がなく、自然と目を引かれる存在感。
「あれ、また助っ人かな」
煉がぽつりと呟く。
「助っ人?」
「うん。いろんな部活に呼ばれてる人たちなんだ。運動神経すごいからさ」
「ふーん……」
柊は興味なさげに目を逸らしたが、その横顔を見た煉は小さく笑う。
「……実は、ちょっと知り合いなんだよね」
「知り合い?」
「まあ、詳しくはナイショ」
冗談っぽくはぐらかす煉に、柊は「ふーん」とだけ返す。
靴を履き替えて、校門を抜けると、夕日が町を優しく照らしていた。
春風が心地よく吹き抜け、制服の裾がふわりと揺れる。
「桜、そろそろ散りそうだな」
「うん。今年は咲くの、早かったし」
通学路に沿って並ぶ桜の木々が、茜の光に包まれて淡く揺れている。
舞い落ちる花びらが、ふたりの足元を柔らかく彩った。
しばらく無言で歩いたあと、煉がふと思い出したように口を開いた。
「そういやさ、昨日の休みってどこ行ってたんだ?」
「ん? 神社。じいちゃんとこ、祭りの手伝い」
「……あー、そっか。もうそんな時期か」
煉は納得したように頷いた。
「前、一度だけ連れてってもらったことあるよな? 蒼のじいちゃんの剣舞、見たやつ」
「うん。あのときはまだ小さかったけど……」
「でも、今でも覚えてるよ。なんつーか、カッコよかった。動きが綺麗で、迫力あってさ」
そう言って、煉はどこか懐かしそうに笑った。
「……オレも、あのとき思ったんだ。あんなふうに舞えたら、って」
柊はその言葉に、ほんの少し驚いたように目を見開いた。
だがすぐに、目を細めて笑った。
「僕も、そう思った。じいちゃんの剣舞、カッコいいって。だから……真似してるだけなんだ」
「それでも、十分すごいよ。ちゃんと蒼の中に残ってるんだな、じいちゃんの舞」
ふたりの足音が、夕暮れの道に静かに響いていた。
信号を渡るとき、煉がぽつりと呟いた。
「……ううん、なんでもない」
それきり、煉は黙り込んだ。
柊はその意味を深く追求することなく、目の前に広がる空を見上げた。
夕焼けの色が、ゆっくりと夜の気配に溶けていく。
ふたりの影が、地面に重なり、そして伸びる。
そのときだった。
「誰かっ、助けてぇぇぇ!!」
路地の方から少女の叫び声が響いた。
喉を振り絞るような悲鳴。
柊と煉は目を見合わせる。
「……行こう!」
「うん!」
ふたりは駆け出した。
夕焼けに染まった街並みに、影が音もなく溶け込んでいった。
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