残火の魔王
キロール
第1話 戸田仲治の人生
あれだけ拘泥した勝負への熱がこの胸中から霧散していることに先日気付いたのだ。あるいは、まだ残火としてこの胸中に
勝負、今の日本では精々が賭け事だったが、仲治が求めたのはより生き死にを掛けた裏社会の博打だった。その勝負に勝ちを積み上げてきた仲治は名うての勝負師であった。勝負で得た金はどぶに捨てるように使いきり、一勝負師としての人生に徹してきたが、今では虚しいだけだった。
これは家族と言う物を作らなかった故ではない。仲治は今まで家族を必要としてこなかったし、これからも必要としないだろう。死ぬときはどこかの路傍で行き倒れるのが本望だ。ただ、結局どれ程勝とうと命の危険を味わおうと、生き残ったその意味を知る事はなかった。勝負に拘泥してきたその訳が実は何故に生き残ったのかを問いかける行為でしかなかったのだと今では分かる。
一つ息を吐き出して懐から煙草を取り出すと縁側に出て胡坐をかいた。空を見上げればスモッグで淀んだ空ではあったが晴れ渡っている。遠方からはでかいビルを建てている工事の音が響いていた。煙草をくわえ、仲治は過去へと思いをはせた。どいつもこいつも死んでいったノモンハンを、そして食糧難と劣勢のみが記憶に残るルソンを。
「何で俺が生き残っちまったのかね」
終戦を迎えて三十年は経とうと言うのに未だにその答えが出ない。生き残った所で特に何も持たない仲治だけが死なずに内地に帰還した。仲治よりも生きたいと願っていた者達、必要とされていた者達はノモンハンで、ルソンで、それ以外の数多の戦場で消えていったと言うのに。
戦場での日々は昨日のことのように今でも思い返せる。ルソンの食糧難も酷かったがノモンハンでの喪失の体験こそが仲治に今を生きる理由を問いかける。
瞼の裏に映るのはあの日の事だ。思い返すだけで耳に蘇るソ連軍の重砲が火を噴く音がけたたましい。すぐそばで激しい衝撃と爆発音が生じて体がぐらついた事も鮮明に思い出す。若かった仲治は倒れたら死ぬとばかりに四肢に力を込め、瀕死の友を背負いながら懸命に走っていた。
無我夢中で敵陣地に突撃を行った日の事だ。仲治と師団長以下数百名はソ連軍の陣地に突撃を行っていた。これは玉砕の為の突撃ではない、生きて撤退するための物だ。救援は出さず突破帰還すべしと言う電文だけを寄越した司令部の命令を遂行するためだけに敵陣地を突破する、その為の突撃は玉砕とどれ程の差があったか。
横目でちらりと見えた参謀長は手りゅう弾で片足を吹き飛ばされ担がれていたが、まだ生きている様だった。だったら、と仲治は思っていた。だったら背中の友も生きている筈。そう信じて仲治はひた走ったのだ。
夜が白み始めるころに、漸くどこまでも広がりを見せるノモンハンの平野が視界に広がった。日に照らされ始めた平野に向かって仲治は吼えた。どこまでも続く平野にはソ連軍の陣地は既に見当たらなかったからだ。
生き残った。しかし、その吼え声は生き残った喜びから迸った訳ではなかった。どこまでも広がりを見せるノモンハンの平野は、半年前、初めて見た時と変わらぬ広がりを仲治に示し続けている事が意味もなくに腹立たしかった。背負う友の冷たさを感じて、そうせねば気が狂いそうだった。
友、
孤立しがちな仲治にも声を掛けてくれて、気さくに対応してくれた。快男児とは享吉の事を言うのだろうと仲治は秘かに思ったものだ。享吉とのやり取りで今でも思い出すのは威風堂々とした男を自陣で見つけた時の事だ。享吉は仲治に声を掛けた。
「見ろよ。ナラン・バクシだ」
「あ? ……ありゃ
「ナラン・バクシ、モンゴルの言葉で太陽の先生って意味らしいぜ、モンゴルでも名の知れた方だからな」
敵にも慕われるって言うのは凄い事だと享吉は語り、仲治もそうだなと頷きを返す。
「だが、慕われている相手とでも殺し合いをせにゃならないってのは辛いもんだな」
「それはお互いにな。あっちも大粛清で日本に友好的な奴はやられたって言うしな」
ソ連はおっかねぇやと享吉は肩を竦める。その間にも東中佐は部下に何事かを指示しながら二人の傍を離れていった。それから二カ月も経たずにその東が戦死するとは、仲治も享吉も考えていなかった。そしてその戦いですらノモンハンにおいては、まだ序の口に過ぎないと言う事も。
追憶の場面は切り替わり、あの日の前後を思い出させる。時は流れ八月も終わりが近づいたころ。その間に多くの兵士が死傷していたが、運良くか悪くか仲治も享吉も死んではいなかった。それでも戦友は何人かこの世を去っていた。
ソ連軍と戦う事に嫌気がさしていたマルクス主義者の
「
「そうだな」
「今度は俺たちか。バルシャガルに救援に来て見りゃ、味方は既にもぬけの殻。周りは
仲治はその時はいつになく饒舌に喋った。最早、死は間近に迫っている事に気付かされたからだ。生きて帰った所で父と折り合いの悪い仲治に帰るような家も無いのに。それでも生きていたかった。死にたくはなかった。
だが、師団長は玉砕を覚悟し最後の突撃を行うと宣言した。逃げようにも周囲は敵に囲まれている。いつの間にか仲治の体はガタガタと震えていた。
「大丈夫だ、仲治。お前はこんな所じゃ死なないさ」
この様な状況でも享吉は仲治の肩を軽く叩き励ました。そして、その言葉を聞くと仲治は少し落ち着けたことを思い返す。結局、享吉の言葉は予言であったか事態は一変する。
軍上層部が敵陣を突破帰還すべしと言う命令を出したことで玉砕はなくなった。師団長は軍刀を振りかざして先頭に立ち、仲治ら第二十三師団の生き残り四百名は計五回の敵陣を突破して生きて帰った。そこに至るまでにも多くの戦友を失ったが。
その中には片足を吹き飛ばされ仲治の背で生き絶えた享吉も含まれていた。
友、享吉の骸を担いで生き残った仲治はそれから自問するようになる。なぜ自分が生き残ったのか? 享吉ではなく自分が何故? その問いかけこそが仲治の人生である。僅かな休養の後に満州に残り国境警備を続けていたが、問いかけの答えが出ることは無く、フィリピンのルソン島への配属が決まり敵がアメリカ軍に変わっても、何一つ答えらしき物すら知ることは無かった。
「……ルソンも地獄だったがな」
それでも生き残ったと呟いてから長い追憶を止め、漸く煙草に火をつける。ルソンでも死ぬような思いを何度となく繰り返し、それでも生き残った。
結局、生き残った仲治は答えを求めるあまりいつしか勝負に拘泥し、今に至る訳だ。勝負師としての人生は概ね勝ちを得てきた。無論、全勝など出来るはずはなく負ける事はあったし、命の危険も何度もあった。だが、今こうして生きて煙草をのんでいる事が全て。勝って生き残って来た、それが全てだ。
その筈だと
<つづく>
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます