第2話 怪獣の卵
思えば勘の良さだけでなんとかしてきたような人生だった。二択の問題はニュアンスで選んでもそれなりの確率で正答を選べる。眠りかけた授業で急に当てられてもふわっとした返答でやり過ごせる。なんとなく的の中心がわかるからだ。真面目に勉強はするが、どうしようもない時はそういう勘に頼ると案外うまくいった。
だからだろうか。
「……これって」
裏路地を少し進んだところにそれはあった。
白いバスケットボール大の球体。切れかけの白熱灯のように、内部で何かがゆらゆらと光っている。
さっきの物音の正体はこれだ。恐る恐る手に取ってみると暖かくて硬い。わざと落とすのは気が引けるが、落としたら良い音がしそうだ。
ということは、これは上から落下したのだ。なぜ? 灯里は頭上を見上げる。うっかり落っことしたのか、誰かが放り投げたのか、はたまた。
建物の隙間から見える星空に、きらりと光るものがあった。
「あ、流れ星」
結果から言うと見当違いもいいところだった。
きらりと光ったのは月明かりの反射か何かで、それは夜空を遮って落ちてくる黒い影だった。
「……流れ、ぼし?」
「────ぁああああ────っ!?」
ビルの隙間を飛ぶそれは案の定、重力に従って直下していく。
十数メートルの高さは落ちるには一瞬だった。
「ぎゃああああああっ!?」
「え、ちょっ、何……きゃっ!?」
丁度、灯里の鼻先を掠めるようなかたちでそれは落っこちてきた。
流れ星というには悲鳴が汚すぎる。
「っ、なに、というか人!?」
砂埃が辺りを舞ってしばらくすると、落ちてきたものの全貌が明らかになる。
というか、明らかに人だった。声からして女性。紺色のジャンパーを羽織った人影は明かりのない路地でゆっくりと起き上がる。
「……いってえなクソが……」
「あの、大丈夫ですか!?」
「あー……うん、大丈夫。慣れてるから」
「慣れてるって何!?」
混乱する灯里を尻目にむくりと起き上がったのは、長い黒髪を後ろでまとめた綺麗な女性だった。すっと立ち上がると灯里より随分と背が高い。一七〇センチはあるだろうか、すらりと手足が長いが、顔にはまだどこか幼さが残っている。灯里より二つ三つくらいは歳上なのだろうか。肩まで垂れる長くて黒い髪を耳の後ろで束ねたポニーテールで、大きくて切長の目をこちらに向けられると思わず灯里はどきりとしてしまう。二重の意味で。
「それより怪我はない? 大丈夫?」
「私は大丈夫ですから、それより血が……」
「血?」
落下した時にどこかに引っかかったのか、綺麗なチャコールの瞳の上には大きな切り傷ができていた。ぱっくりと開いて流血し、瞼の上を這って頬を伝っている。
「ああ、ほんとだ」
見ていて痛々しいが、黒髪の女性はまるで意にも介していないようだった。
「なあ、それよりさ。これくらいの
黒髪の女性は低く澄んだ声でそう尋ねると、手でバスケットボールくらいの大きさを示した。
間違なくあの白い球体のことだ。
ということは、この人はあれを追いかける最中にうっかりビルから落ちたわけになる。流れからそう考えるしかないが、思考が全然追いついていない。灯里は軽く目眩がしてこめかみを抑えた。
「……え、たまご?」
「そう、卵」
「卵かはわからないですけど、さっきまでそこに」
指差した場所にはもう何もなかった。暗い夜の道が広がっているだけだ。
「……あれ?」
「マジかよふっざけんな、もうどっか消えやがったあのクソ!」
黒髪の女性は悪態を吐けるだけ吐くと、「怪我なくてよかった、じゃああたし急いでるから! なるべく人通りのある場所通るんだぞ!」と一息に言ってさっさと背を向けてしまう。
「ま、待ってください!」
灯里は反射的にその紺色のジャンパーの袖を引っ掴んで止めた。
「……あ? どうした」
「目、血だらけでほとんど見えてないですよね? 手当するから屈んでください」
黒髪の女性は面倒そうに顔をしかめる。
「別にこれくらい」
「よくわからないですけど、何か探してるんですよね? 見えないままどうやって探すつもりですか」
「いいってば」
「防衛隊の人なんですよね?」
黒髪の女性の顔にわずかに動揺の色が見えた。
さっきまでは暗がりでよく見えなかったが、彼女の着ている紺色のジャンパーには見覚えのあるロゴが印字されていた。
DMA。怪獣災害を専門とする減災庁の略称。そしてそのロゴが入った上着を着用できるのは職員と、減災庁の下部組織である防衛隊の人間に限られる。
「なんでそう思った?」
「テレビで見たことあります。住民を威圧しないように装備の上から減災庁の制服を着る隊員もいるって」
「だからって言い切れるか? せいぜい二択だろ、隊員がただの職員か」
「そこまで絞れたら十分なんですよ、私にとっては」
「……?」
八年前の大災害を機に、消防や自衛隊では怪獣災害に対応しきれないと世論が大きく変わった。怪獣災害を専門とする減災庁が立ち上げられ、怪獣退治の専門家として防衛隊が組織されたのがほんの五年前。父を怪獣災害で亡くして以来、それ関連のニュースを避けていたが、それでも防衛隊設立については灯里もよく知っていた。
──そして、彼らがまだ社会的信用を得られていないことも。
「……知ってるなら話は早い。危ないからこれ以上関わらないでって言ってんの」
「手当てしたらすぐに帰ります。だったらいいでしょ?」
灯里がそう言うと、表情で抗議こそすれど、黒髪の女性はすんなり腰を下ろした。灯里は安堵してスクールバッグを開き、半透明の薬箱を取り出した。
「ずいぶん用意がいいんだな。看護学校の子?」
「そういうわけじゃないですけど、母が看護師なんです。怪我したときとか、困ってる人がいたら使ってあげなさいって」
「ふーん」
新品の水を開けて額の傷口を洗い、ガーゼとテープで簡単に止血する。これだけの作業にたどり着くのにずいぶん時間をかけた。
「はい、これでひとまず大丈夫です」
「……ありがとう」
「気にしないでください」
それより早く病院で縫ってもらってくださいね、と釘を刺すと「それは嫌だ面倒くさい」と即座に返された。
ピリリと聞き慣れない着信音が鳴る。黒髪の女性は「うわ来た」と漏らし、ジャンパーのポケットをまさぐって無線機のようなものを取り出した。
「はい、
「……あいつ?」
アイツとはなんだろう。状況的にあの白い球のことだろうか。いや、あれが何なのかわからないが、少なくとも物であって、せめて「あれ」と言うべき代物だ。
「うーわ、説教は後にしましょうよ。怪我? ああ、民間人の子が手当てしてくれました。暗いし家まで送ってから戻り……え? そうですけど。はい? ……了解」
志条と名乗っていた女性は無線を切ると、身支度をしていた灯里に「悪いんだけどさ、ちょっと帰るの待ってくれない?」と切り出した。
「なにかあったんですか?」
「目撃証言を記録しないといけなくなった。あー報告するんじゃなかった、これだから本部は固いんだから」
志条はぶつくさ文句を言いながら続ける。
「どこから説明しようか……まずはきみが見たアイツのことから話さなきゃだな」
「あの、あれですよね? 白いボールみたいなの」
「そう」
志条は端的に告げた。
「あれは怪獣の卵なんだ」
「か、怪獣?」
灯里が困惑するのを見て不思議そうな顔をする志条。
「そう。なに、怪獣見たことないの? 都心の方の出身?」
「そういうわけじゃないですけど、東京ってもう殆ど怪獣出ないんじゃないんですか」
東京で生まれ育った灯里が最後に怪獣災害に遭ったのは八年前のことだった。
「管理が徹底された二十三区や観光地ではね。蜂名とか奥多摩とか、怪獣の生息地が近い場所はその限りじゃない。別に東京だけ怪獣が出ないなんてルールもないんだけど」
「……怪獣」
八年間、あの日から極力避けていたものに出くわしてしまったわけだ。
どこか躊躇う様子の灯里に志条は何かを察したのか、「ただの事務的な手続きだから適当に流して。なるべく早く帰れるようにするから」耳打ちした。
「とにかくあれは怪獣の卵で、意思を持ってどこかに移動を続けてる。その調査を任されたのがあたし。そういうわけで、何か気になることはなかった? どこに向かって逃げたとか、危害を加えられたとか」
「いえ、別にそんなことは……危害なんて」
「何もしてこなかった? まさか」
志条は怪訝そうな顔をする。
「はい」
「向こうが気がつかなかったとか……? いや、あり得ない。アイツに限ってそんなことは」
「あの、ほんとに同じものなんでしょうか。志条さんが追ってる卵と、私が持ってたの」
印象が違いすぎるというのが灯里の本音だった。灯里が見たのは触ったら暖かくて重みのある、卵と言われれば卵らしいが暴れたり逃げたりなんて想像もできない代物だ。
「……持った?」
志条の顔つきが変わる。
「『見た』とか『触った』じゃなくて?」
「え、はい。普通に両手でこう持ったりしてました」
灯里はボウリングの球を両手で抱えるようなジェスチャーを見せた。
「志条さんが落ちてきたときにびっくりして落としちゃって、それきりでしたけど」
志条の表情が悪くなる。申し訳なさと私欲が入り混じって絶妙な表情。
「志条さん?」
「よりによって『適正あり』かよ……。ラッキーだったと受け取るべきか?」
「あの、何か変なことしちゃったんでしょうか」
「……ねえ君さ、名前は?」
「え、あ、灯里です。久神灯里」
「灯里」
志条は血のついた手をジャンパーで拭って綺麗にしてから灯里の手に触れた。
「な、なんですか急に」
「本当悪いんだけどさ、人助けだと思って」
灯里にとって年上の女性から何かを頼み込まれるのは初体験だった。
「怪獣の卵探し、付き合ってくれない?」
「……はい?」
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