Chapter12 「蘇る記憶」
Chapter12 「蘇る記憶」
「どうだ、沢村米子のファイルは読んだか?」
吉村が訊いた。会話は朝鮮語だ。
「はい。正直驚きました。もし書いてある経歴が本当ならかなりの腕前1の工作員です。しかしにわかには信じられません。日本にこんな優秀な工作員いるとは思えません。しかも高校生です。ブラフか大袈裟に書いてあるのではないでしょうか?」
「我々も沢村米子の本当の強さについては書類でしか知ることができない。だが君はこれから沢村米子と行動を共にするのだ。沢村米子はある組織を襲撃し、2人の男を暗殺するようだ。それの手助けをするのだ」
「しかしなんで私が手助けをしなければいけないのですか? ある組織とは何ですか?」
「沢村米子は日本の内閣直下の内閣情報統括室に所属する工作員だ。内閣情報統括室は今のところ我々の敵対勢力だが、沢村米子を我々の勢力に取り込む事が目的だ。沢村米子が狙っている組織は『真革派の実働部隊の赤い連隊だ』。日本の極左グループだ。沢村米子がそのグループを狙うのは任務ではない。個人的な復讐だ。彼女は9年前に家族を赤い連隊に殺された。その報復を個人的に行うはずだ。君はそれに協力して沢村米子に近づくんだ。だが協力するのは本来の目的ではない。沢村米子を知り、取り込むきっかけを作るためだ」
「具体的にどうすればよいのですか?」
「詳しい事は作戦指示書に記載してある。それから君にマンションを用意した。必要な生活用品も揃えている。これからはそこに住み、日本に溶け込むのだ」
吉村は如月カンナに必要書類が入ったクリアアイル数冊と部屋の鍵を渡した。
「はっ、了解しました」
「これは工作資金とスマートフォンと身分証明証だ。返還する必要は無い。金が足りなくなったら言ってくれ。今回の任務の資金は祖国ではなく赤い狐が出しているので、いつもに比べたらかなり豊富だ。何度も言うが君の使命は沢村米子を取り込む事だ!」
吉村は封筒に入った現金150万円とスマートフォンと偽装運転免許証とマイナンバーカードをテーブルの上に置いた。如月カンナはテーブルの上の運転免許証を手に取った。氏名は如月カンナ、年齢23歳、住所は東京都新宿区大久保だった。
木曜日18:00。米子は警視庁本部庁舎の受付で川島と待ち合わせをして2Fの会議室に入った。会議室には原田と見知らぬ男が座っていた。米子は2人の男が座る机の前に立った。桜山学園の制服姿だった。
「君が沢村米子君か。噂通りの美少女だな。私は神崎だ」
「あなたが課長の神崎さんですか。人の事をコソコソ嗅ぎ回る鼠の親玉ですね」
「ははは、手厳しいな。だがその通りだ。嗅ぎ回るのが我々の仕事だ。そのおかげで君の家族を殺害した犯人も特定できたんだ。原田君、続けてくれ」
神崎は原田に話を振った。
「この前はどうも。少しは9年前の事件の事を思い出したかな」
原田が言った。
「いえ、思い出せません」
「そうか。それは困ったな」
「どうしてですか?」
「君の家族を襲った男達の調べがついた。100%間違いないと確信できるようになったんだ」
「誰ですか? 教えて下さい!」
「ここに事件の詳細が書かれたファイルがある。読んで事件の事を思い出し欲しい」
原田が指先で頬を搔きながら言った。米子は自分の心臓の鼓動が速くなるのがわかった。
「分かりました。そのファイルをください」
「沢村君、ファイルを渡すのは構わないが、我々にも手を貸して欲しい」
神崎が言った。今日の神崎はフレームレスの眼鏡を掛けていた。
「どういう事ですか?」
「君の力を借りたいんだ。我々は新しい力にも古い力にも属していない。新しい力の配下という事になっているが、それは本意では無い。この国をもっと良くするために組織を作っているところだ。それには君の力が必要なんだ」
「良くするための組織とは何ですか?」
「この際だから教えておこう。赤い狐と連携した組織だ」
「レッドフォックスですか!? レッドフォックスはこの国を脅かす存在のはずです。公安と内閣情報統括室の共通の敵のはずです! スパロー8(エイト)の護衛任務で戦いました。夜桜の護衛チームは殲滅されました。あなた達にとっても敵ですよね?」
米子は動揺した。まさか公安課長の神崎がレッドフォックスと絡んでいるとは思っていなかったのだ。
「赤い狐は日本にとって脅威ではない。むしろ歪んで硬直した今の日本を変える手段となりえるのだ。詳しい事ははいずれ分かるだろう」
神崎が右手でフレームレス眼鏡の位置を直しながら言った。
「私は何をすればいいんですか?」
「具体的な指示は今後出すことになる」
「私に内閣情報統括室を辞めろということですか?」
「いずれはそうなるかも知れないが、今は復讐をきっちり果たすのだ。もし我々の力になるつもりがあるのならファイルを渡そう」
「もらいます」
米子は、とにかく今は相手の言いなりになってファイルを手に入れようと思った。
「ファイルを読んで我々に協力する気になったら5日後の土曜日の同じ時間にまたここに来て欲しい。君はきっと来るだろう」
神崎は興味深そうに米子を見ていた。
米子は自分の部屋で原田から受け取ったファイルを開いた。そこには9年前の事件が克明に記載されていた。犯行グループは真革派の実行部隊の赤い連隊。その中でも特に過激なZ分隊が実行犯だった。犯行時の人数は4人。その内2人は犯行現場で米子の父親である沢村栄一に殺害されていた。犯行グループの目的は赤い連隊に潜り込んで潜入捜査を行っていた沢村栄一の殺害だった。沢村栄一は警視庁公安部の刑事で真革派の赤い連隊に潜り込んで潜入捜査を行ってた。真革派は資本主義と日本政府を倒す事を目標に活動を行っており、主な活動は抗議デモや政治活動であったが赤い連隊は爆破テロや暗殺などを行う実行部隊であった。赤い連隊は当時60人程度のメンバーがおり、活動家及び専任メンバー20人ほどで、他の40人は仕事を持った労働者や学生だった。沢村栄一は『村野浩一』という工場労働者として赤い連隊に潜り込み、メンバーの2人を懐柔し、『エス』と呼ばれるスパイに仕立てあげていた。最初は悩みを持ったメンバーの相談にのり、食事や酒を奢り、時には金を渡してエスに仕立てあげていった。すっかり栄一を信用しきった段階で身分を明かし、もし裏切れば赤い連隊にエスである事を密告する事と公安からも命を狙われると事を伝えて脅し、完全なスパイに仕立て上げたのである。しかしエスの1人が任務で重大なミスを犯して激しい拷問を受け、沢村栄一の存在を赤い連隊に密告したのである。密告したエスは大勢のメンバーの前で当然の如く処刑された。赤い連隊の上層部は沢村栄一の情報を調べあげ、殺害する事を決定した。
犯行グループは夕方に庭から沢村宅のリビングに侵入した。犯行グループに最初に気付いたのは弟の秀斗だった。秀斗はかくれんぼをしていて、リビングで姉の米子を探していた。リビングに上がり込んだ犯行グループの男が声を上げようとした秀斗の腹部をナイフで刺した。腹部を刺された秀斗は痛みを感じながらも恐怖に駆られ、隣の和室に駆け込んだ。ダイニングで夕食の準備をしていた母親の晴海が異変に気がついた。腹部を押さえて和室に駆け込もうとする秀斗。真っ赤な血がリビングの床に点々とシミを作っている。晴美は驚き、立ち上ってリビングに入ったところで犯行グループの男達と鉢合わせになった。晴美は男達を突き飛ばすように両腕で押すと秀斗を追いかけたが、首の右後ろをナイフで刺された。晴美は叫びながら惰性で和室に入ると、仰向けに横たわる秀斗の上に倒れ込んだ。その直後に風呂から上がった栄一が犯行グループと格闘になり、犯行グループの2人を奪ったナイフで殺害したが、栄一も2カ所を刺され、右胸を改造拳銃で撃たれて死亡した。
米子はファイルの文書を読んでしばらく呆然としていた。フラッシュバックするように記憶が断片的に蘇った。父の好物のすき焼きの準備をしていた母。一緒にかくれんぼをしていた弟。漫画本と懐中電灯を持って押入れに隠れた自分。漫画の絵も思い出した。ゲームとコラボした小学生に大人気の冒険漫画だった。主人公達のグループが世界に平和をもたらす幸運石を探して旅をするストーリーだった。ギャグ要素の多い漫画で、主人公がズボンを下ろしてお尻を突き出して『カイケツ(解決のダジャレ)だっち』という決めゼリフを言うシーンがお約束だった。そのシーンを思い出した。
弟の足音。母の叫び声。父の怒鳴り声と男達の怒号。畳に広がる秀斗の赤い血。晴美の首から噴き出す赤い血。栄一の腰に巻いたバスタオルを染める赤い血の色。米子は360度スクリーンの真ん中にいるように映像に圧倒されそうになった。その映像の全体は粗いモザイクが掛かっていたが、断片的な映像が一瞬クリアに浮かび上がってはまたモザイクが掛かった。米子は自分の家族が複数の男達に殺害された事を確信した。また、赤い連隊の名前を聞いた事を思い出した。1年半前に青山通りでC4爆弾を使って暗殺した武器商人の鹿島がアサルトライフルを売ろうとしていた相手だった。木崎のターゲットに関する説明で聞いた情報だった。やっかいな連中だと木崎が言っていた。
米子の読んだ文書に書かれていない事実が一つあった。真革派は警察が囮捜査を行っている事と協力したスパイを見殺しにした事を怪文書にしてマスコミにバラ撒いたのである。特殊なルートで入手した警視庁上層部の重大な不正についても怪文書に記載されていた。上層部の不正は暴力団との癒着、キャリア警官が立場を利用して少女買春を恒常的に行っていた事、機密費による幹部の豪遊だった。この怪文書にマスコミは飛びついたが警察は全てを否定した。この件によって警察は沢村家への襲撃事件についての発表を控えて秘密裏に処理したのだ。公安の刑事が赤い連隊に襲撃され、家族もろとも死亡したとなれば怪文書の内容を裏付けてしまうと考えたからだ。沢村家襲撃事件は無かった事にされ、沢村栄一、晴美、秀斗の死は食事中のガス漏れによるガス中毒とされたのである。
5日後の土曜日、米子は警視庁本部庁舎2階の会議室にいた。
「沢村君、9年前の事件の事を思い出したかね?」
神崎が言った。今日の神崎は鼈甲フレームの眼鏡を掛けていた。
「はい」
米子は消え入るような小さな声で言った。
「そうか。犯人達に復讐したいと思わないか?」
「はい」
「我々の力になってくれるんだな」
「はい」
米子の返事は自動音声のような無機質な声だった。
「米子ちゃん、どうしたんだ?」
川島が心配するように言った。
「私は赤い連隊に復讐します! 詳しい情報を教えて下さい!」
米子が大きな声で言った。米子の瞳は恐ろしい程に透き通っていた。
「米子ちゃん、無理しなくていいんだぞ。今はゆっくり休んだほうがいい」
原田が慮るように言った。米子が真実を思い出した辛さを想像したのだ。
「黙れ! お前達は出て行け! 沢村君がその気になっているんだ!」
神崎が一喝した。
「神崎さん、赤い連隊の情報を下さい! お願いです! 何でもします!」
「いいだろう。詳しい情報を教えよう。赤い連隊は3週間後に訓練を兼ねた会合を開く。主だったメンバーが集まるようだ。君の家族を襲った実行犯の生き残り2人の詳細についてはいずれ教える。1人は実行犯のリーダーだった。今も赤い連隊のメンバーで、鎌田の工場で働いている。もう1人は君の父親を拳銃で撃ってトドメを刺した男だ。今は新橋のディスカウントショップで働いてるが、赤い連隊からは抜けたようだ」
「その2人の情報を下さい!」
「まずは赤い連隊を潰すんだ。そうしたら2人の詳しい情報を教えよう」
「会合に集まったメンバーを殲滅すればいいんですね!? そうすればその2人の情報を教えてくれるんですね!?」
「そうだ。赤い連隊は君の家族を計画的に襲った集団だ。悔しいだろ、そいつらを潰すんだ。2人は最後にゆっくり殺ればいい」
「わかりました。赤い連隊の会合の詳しい情報はありますか?」
「君にはある人間と組んで赤い連隊を殲滅いてもらいた。赤い連隊は20人だ。いくら君が強くても手強いぞ。だからパートナーを付ける事にした。その人間とは今後も組んでもらう事になるだろう」
「パートナー? どんなに人物ですか?」
「名前は如月カンナ。本名は『金清姫(キムチョンヒ)』。北朝鮮の女性工作員だ」
「北朝鮮? 組まなきゃダメなんですか?」
「君のためでもあるんだ。協力して赤い連隊を潰すんだ。これは外せない条件だ」
「わかりました」
米子は力なく言った。
如月カンナは東京の街をJRや地下鉄を使って巡っていた。まずは大久保のマンションから近い新宿に行ってみた。最初に気が付いてのが自分の存在が浮いている事であった。街を歩く若い女性の服装と自分の服装があまりにも違っていたのだ。如月カンナの服装は北朝鮮のスパイ養成所で支給された厚手のこげ茶色の襟付きシャツに同じ色のズボンだった。周りの女性に比べて余りにも地味だった。地味というより異様だった。生地も所々擦り切れていたので恥ずかしくなった。慌てて事前にインターネットで調べておいた「ヤニクロ』新宿西口店に入った。ネット情報ではヤニクロは安くて品質がいいとの事だった。散々迷ったあげくに選んだのは半袖のブルーの襟付きシャツとベージュのチノパンだった。派手な色やデザインは資本主義的で社会主義的生活様式に反するとされている。サイズは店員がアドバイスしてくれた。デパートのトイレの個室で買った服に着替えた。着替え終わって洗面所の鏡に自分の姿を映すと違和感を感じた。ここ何年も戦闘服と軍の制服しか着た事がない自分にとっては派手な服装に思えた。しかし嬉しかったのも事実だった。店で買った服を着るのは初めての経験だった。明るい色の服を着た自分の姿を始めて見た。鏡に映った如月カンナは典型的な朝鮮美人だった。身長170cmの細見の体に色白の小さい顔にポニーテール。化粧は薄目だが、黒目がちな切れ長の澄んだ目に細めの眉、やや薄く引き締まった唇に高めの頬、控えめな鼻筋の整った鼻がバランスよく並んでいた。鞄も買いたいと思ったが別の機会にする事にした。どの店に入ればいいのか分からず、デーパートの女性服の店で気に入ったカバンを手に取ったが6万9千円の値札を見てびっくりしたのだ。しばらくはスパイ養成所で支給された色のくすんだ革の茶色い肩掛けカバンを使うしかなかった。
如月カンナは新宿で服を買った後、池袋と原宿と渋谷の街を見て回った。どの街も大きく、近代的で洗練されていた。高いビルや色とりどりの看板、動画を映す大きなビジョンスクリーン、どこに行っても流れている音楽、全てが新鮮だった。祖国とのあまりの違いに困惑した。街を歩く人々の服装も多様だった。若い女性の髪型や露出の多い服装には驚きが止まらなかった。北朝鮮では髪を染める事もミニスカートを履く事も社会主義的生活様式も反する犯罪行為として取締り及び逮捕の対象となるのだ。駅や電車の中も驚くほど清潔で近代的だった。
夕暮れになり、街に明かりが灯ると如月カンナは光の洪水に圧倒され、異世界に来た感覚に襲われた。如月カンナは一週間、毎日東京の街を見て回った。大久保のマンションにもたいへん満足した。部屋は専有面積30平方メートルの1DKで3階の部屋だった。築3年の新しいマンションで何よりもバスルームと洗面台に感動した。祖国ではバスルーム付きの部屋に住むことなど考えられなかった。食事はまだ店に入る事ができなかったのでスーパーかコンビニで買った弁当を食べたが、その種類の多さと美味しさにも感動していた。備え付けの電子レンジを使えばいつでも温かい食事が食べられるのだ。西側諸国、特に日本は堕落した国だと教わっていたが、その事に疑問を感じた。街ですれ違う人の多くが穏やかで、笑顔のグループも多かった。その姿は搾取された奴隷には見えなかった。そして何よりもインターネットの存在に驚いた。
北朝鮮では外部の情報にアクセスすることは厳しく制限されていた。日本ではインターネットを介して世界の様々な事を知ることが出来た。自国を非難する情報にもアクセス可能だった。北朝鮮ではインターネットの使用は政府や研究機関の一部の人間に限られていた。もし無断でインターネットに接続すれば重大犯罪で銃殺も免れないのだ。北朝鮮政府は国民が海外の情勢を知る事を極度に恐れていた。外の世界の方が豊かだと知れば政府のプロパンガンが全て嘘である事が国民にバレ、暴動が起き、国家の存立が危うくなるからだ。カンナは貪るようにインターネットを閲覧した。そこには如月カンナと北朝鮮の国民が知らない世界の真実があった。
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