外伝2 「橋を渡るミント 2/2」
外伝2 「橋を渡るミント 2/2」
義弘と美空は娘を捨てた半年後に離婚した。義弘はアルコールの影響で体を壊し、実家の新潟に帰った。美空は実家に帰らず、墨田区のアパートに引っ越し、パートや派遣社員として働いた。
2010年、義弘は新潟の精神病院の閉鎖病棟で病死していた。実家に帰っても働く事をせず、酒浸りだった義弘を、両親は精神病人に入院させたが、既に末期のアルコール依存症だった義弘は肝硬変を患い、脳萎縮も進み、廃人同然のままこの世を去った。同じころ、26歳の美里は派遣社員として勤めていた『ウソクサコンサルティング』という会社で35歳の営業マンの『笠原俊』と出会い、2年後の2012に28歳で再婚した。結婚生活は順調で、中央区の水天宮の賃貸マンションに居を構えた。4年後の2016年に美空は32歳で女の子の生んだ。女の子は『ひかり』と名付けられた。しばらくは親子3人の幸せな生活が続いた。しかし2019年に夫の笠原俊が交通事故で死亡した。居眠り運転だった。首都高の料金所で前に停車するトラックに時速80Kmで追突したのだ。居眠りの原因は、月に140時間を超える残業が続いたことによる過労であったが、労災扱いにはならなかった。この時、美空は35歳、光は3歳だった。美空とひかりは悲しみに暮れながらも笠原俊の生命保険2000万円を受け取り、江東区のアパートに引っ越し、母子家庭としての生活がスタートした。
現在美空は昼に江東区の個人経営の弁当屋『お日様弁当』で働き、夜は週に3回、ビルや店舗の夜間清掃の仕事をしていた。名前は『笠原美空』のままで41歳だった。ひかりは小学校3年生で近所の区立小学校に通学していた。ミントは冊子を閉じた。父親の一生と、母親の半生がたった数枚のA4用紙に書かれていた。そして妹の存在を知った。登場人物はまったく無関係の人間に思えたが、間違いなく自分の血の繋がった家族だった。ミントはすっかり冷めたコーヒーを口に運んだ。冷めたコーヒーは苦く感じられた。
ミントはテーブルの上のノートパソコンを起動すると『お日様弁当』を検索した。弁当屋は江東区の深川資料館通りの近くにあった。最寄り駅は半蔵門線の『清州白河』だった。店のレビューを読むと、全てが店内での手作りで、安くて美味しいという評価だった。特に海苔弁当と幕の内弁当が人気のようだ。営業時間は朝9:00~夜20:00。ミントは胸が高鳴った。自分を生み、捨てた母親が働いている。何よりも母親が現実に存在する事が不思議だった。恨んだ事もあり、記憶から追い出した存在であった。見た事もない母親がそこにいる。ミントは母の作った弁当を食べた事が無かった。遠足ではいつも施設の職員から貰ったお金でコンビニ弁当を買って持って行った。恥ずかしいから一人で食べたかったが、馬鹿にされながらもみんなの輪に入って食べた。
16:00、ミントは学校帰りに半蔵門線に乗って清州白河の駅に降りた。初めて来る場所だった。学校の制服姿だった。『お日様弁当』は古いコンクリート作りの2階建てだった。店のカウンターの内側に1人の女性が立っていた。可愛らしい顔をした中年女性は白いシャツに店名の入った茶色のエプロンを着け、茶色の三角巾を頭に被っていた。ミントはカウンターに近づいた。他に客は居なかった。
「いらっしゃい」
女性が笑顔で言った。明るく優しい声だった。胸には『かさはら』と平仮名で書かれたネームプレートを着けていた。女性は間違いなく笠原美空だ。ミントは緊張した。
「あの、お弁当ください」
ミントは小さな声で言いながら女性の顔を見つめた。自然と、自分に似たところはないか、目、鼻、口を観察するよう見ていた。
「何のお弁当にしますか?」
笠原美空が言った。
「海苔弁当、海苔弁当をお願いします」
ミントはちょこんと頭を下げて言った。何か話したいと思ったが言葉が出てこなかった。
「海苔弁当ね。高校生?」
笠原美空が訊いた。
「はい、3年生です」
「そう、学校は楽しい?」
「はい、楽しいです」
「そう、いいわね。此処の海苔弁当美味しいわよ」
笠原美空はカウンターの中のドアを開けて厨房に入って行った。厨房には他に1人の女性が居た。笠原美空は厨房で料理を始めた。いい匂いが漂ってくる。ミントはその光景をじっと見ていた。しばらくすると笠原美空が弁当を持ってカウンターに戻って来た。
「お待ちどう様。海苔弁当、380円です」
笠原美空がカウンターを挟んで茶色いレジ袋に入った弁当を差し出す。ミントは慌てて財布を取り出すと千円札を抜いてカウンターの上に置いた。
「卵焼きは私が作ったの。焼きたてよ。ご飯も今日は私が炊いたのよ」
笠原美空は釣銭をカウンターに置きながら言った。ミントは黙って笠原美空を見つめていた。笠原美空が怪訝な顔をした。
「あっ、ありがとうございます」
ミントは言いながらレジ袋をひったくるようにして取ると速足で歩き出した。心臓がドキドキしていた。景色が目に入らなかった。無意識に清州白河の駅を超えて歩き続けた。冷たい風を感じて我に返った。気が付くと隅田川に架る『清州橋』の上だった。ふと、右を見ると群青色の空を背景にブルーの明かりが纏ったスカイツリーが輝いていた。清州橋を渡り、水天宮の駅で半蔵門線に乗り、大手町で丸ノ内線に乗り換え、茗荷谷で降りた。地下鉄の中では海苔弁当の入ったレジ袋を抱くようにして持っていた。
ミントは部屋に入ると部屋着に着替える事もせず、制服のままテーブルの前に座り、レジ袋から海苔弁当を取り出してフタを開けて弁当を眺めた。黄色い卵焼きが目に入った。ミントは卵焼きを指で摘まむと口に入れた。いかにも手作りといった、焼き目のついた甘めの卵焼きだった。初めて食べる母親の作った手料理だった。美味しかった。目の奥がジーンとなった。箸を取り出すと、海苔とおかかの載ったご飯を口に運んだ。弁当が滲んで見えた。目からポロポロと涙がこぼれた。感動が先に立って味はあまり感じなかったが、舌よりも心が喜んだ。不思議な喜びだった。笠原美空の優しそうな顔が目に浮かんだ。ミントはひたすら海苔弁当を食べた。涙が止まらなかった。物心がついた時から、一度でいいから母親に甘えてみたいと思っていた。ミントは「お母さん」と一言呟いた。
ミントはそれからも3回ほど、学校の帰りに『お日様弁当』に行った。注文するのはいつも海苔弁当だった。常にカウンターと厨房を行き来する笠原美空の姿を目で追っていた。4回目の事だった。ピンク色のランドセルを背負った小学生の女の子が店のカウンターを挟んで笠原美空と会話をしていた。
「今日はひかりが大好きなエビフライ弁当よ。特別にエビが3つ!」
笠原美空が笑顔で指を3本立てた。
「わあ、楽しみ。ママ、早く帰って来てね」
「今日はお掃除の仕事がないから、9時には帰るわよ。先に食べてなさい」
「わかった。お味噌汁作っておくね」
「火に気を付けるのよ」
「大丈夫だって」
女の子がレジ袋を持つとこっちを向いた。ミントははっとした。女の子は自分に似ていた。目元と口元が小さい頃の自分にそっくりだった。女の子はミントの顔を見ると、恥ずかしそうにちょこんとお辞儀をして去っていった。ミントは心臓がバクバクした。自分と血の繋がった妹が確かに存在して生きている。
「いらっしゃい」
笠原美空が言った。ミントはカウンターに近づいた。
「今の子、娘さんですか?」
ミントは絞り出すように言った。
「そう、小学校3年生よ」
「かわいいお子さんですね」
ミントは涙を堪えながら言った。
「そう? 明るくていい子だけど、最近生意気なのよね。今日も海苔弁当でいいの?」
「はい。娘さん、一人っ子ですか?」
「ううん。お姉さんがいたの。でも9年前に事故で亡くなったの。生きてれば18歳。ちょうどあなたと同じね。あなたを見てると娘の事を思い出すの。制服、似合っただろうなってね」
笠原美空は涙ぐんでいた。ミントは嬉しかった。美空は自分の事を忘れていなかった。そして探していたのだ。もし自分が生きていると知ったら、どうするつもりだったのだろうか。ミントは胸がいっぱいになって涙が溢れそうなった。心が激しく震えた。自分が娘である事を口にしたかった。娘が、『樫村あかり』が生きている事を伝えたかった。それは許されない事だと思ったが、どうにも出来なかった。
「おかあさん、生んでくれてありがとう・・・・・・」
ミントの口から本心が言葉となって飛び出した。笠原美空の表情が固まった。
「もしかして、あかりなの?」
笠原美空が震える小さな声で言った。ミントは慌てて体を反転させると走り出していた。振り返る事はしなかった。冬の夕暮れの冷たい空気の中を全力で走った。涙に滲んだ景色が流れていった。冷たい風に涙が散った。黒いローファーの靴底が乾いたアルファルトを蹴る音だけが響いていた。気が付くと清州橋だった。ミントは走るのを止めて歩き出した。何故か橋を渡る事が儀式の様に思えた。これからの人生、幾つも橋を渡っていくのだろうと思った。どんな事にも負けずに明るく渡って行こうと思った。
ミントは1週間ぶりに西新宿の事務所に顔を出した。体調不良という事で事務所に顔を出していなかったのだ。木崎がミントの席に近寄って来た。
「詳細の報告書は読んだのか?」
木崎が言った。
「読んだよ。私に妹がいたよ。でもお母さんはなんで私を探してたんだろう?」
ミントの声は落ち着いていた。
「生活が落ち着いたから、お前を見つけて、全てを話して、許されるなら一緒に暮らすつもりだったんだろう。だからお前が死んだと聞いてショックだったはずだ。実家に帰らずに東京に住んでたのはお前を見つけるためだったんだろう」
「もし本当の事を知って、娘がアサシンになってたなんて知ったらもっとショックを受けたはずだよ」
「そうかもしれないな。でもお前の母親も苦労したんだ。恨むのは止めたらどうだ?」
「恨んでないよ。だって生んでくれたからこうして私は存在するんだよ。仲間がいて、美味しいものを食べて、未来があるんだよ。『あかり』としての未来じゃなくて、ミントとしての未来だよ」
「そうか。ミントは強いな」
「違うよ、人はいろんな事があって強くなっていくんだよ。この一週間、死ぬほど悩んだよ。私は『樫村あかり』じゃなくて、高梨ミントだよ」
「苦労して挫折して腐っていく人間もいる。だがお前は違うようだな」
木崎が優しく言った。
「ミントは強いんだよ。腐ったりしないんだよ。一度芽を出すと駆除するのが難しいくらい生命力が強い植物なんだよ。この名前を付けてくれた人の事は知らないけど、その人に感謝してるよ」
ミントの名付け親は港区の職員だった。ミントが捨てられていた東京タワーは港区だった。捨て子の名前は戸籍法57条に従って保護された区の区長が付ける事になっているが、実際は区の女性職員が付けたのだ。その女性職員の初恋の相手の苗字からとって苗字は『高梨』になった。名前の『ミント』はその女性職員がミントティーなどのミント味の物が好きだった事と、植物のミントは環境への対応力が高く、生命力が強いので、何処でも生きて行けるようにと願いを込めたものだった。こうしてミントの戸籍上の名前は『高梨ミント』になったのだ。
「米子、焼肉食べ放題に行こうよ! 私が奢るよ」
ミントが米子に言った。
「うん、行こう。ミントちゃん元気になったんだね。なんか元気無かったよね」
勘のいい米子は、漏れ聞こえる会話からミントに起きた事に気付いていた。
「私だって悩む事はあるんだよ。でももう解決したよ。橋を渡ったんだよ」
「そうなんだ。橋かぁ」
「米子はどこの大学に行くの? 米子の偏差値ならどこでも行けるよね。まさか東大?」
ミントが唐突に訊いた。
「慶優大学の宇宙物理学科に行きたいんだよね」
米子が言った。
「たしか慶優大学って政治経済学部もあったよね?」
「うん、総合大学で12学部あるよ。1、2年次のキャンパスは神奈川県だけど、3、4年次は東京の代々木だよ」
「だよねー、超有名な大学だよ。駅伝も強いし、ラグビーも強いよね。有名人もいっぱい出てる大学だよ」
「うん。日本で一番宇宙物理学が進んでる大学なんだよ」
「私も慶優の政治経済学部を狙おうかな。米子と同じ大学に行きたいよ」
「そうしなよ。一緒にキャンパスライフを楽しもうよ。学費と家賃は組織が出してくれるし」
「でもあそこ偏差値が68なんだよね。受験勉強の時間を増やすよ」
「焼肉食べて頑張ろうよ」
米子が言った。
ミントは受験勉強の時間を増やした。任務が無い時の平日は5時間。休日は12時間勉強をした。なんとしても米子と同じ大学に行きたかった。米子はミントにとって家族のような存在だった。米子のおかげで何度も命を拾った。米子の立てる作戦はいつも完璧だった。それでいて米子は偉ぶる事が無かった。常にフラットな関係だった。ミントは米子が心に闇を抱えている事に気付いていた。いつかその闇を晴らしたいとも思っていた。今回の出来事で自分が過去のトラウマを振り払ったように。
ミントは1ヶ月後の土曜日の昼、『お日様弁当』を訪ねた。普通に弁当を買うつもりだった。時々店を訪ねて美空とひかりの状況を確かめて静かに見守りたいと思っていた。それがお互いにとって一番良い方法だと思った。カウンターには茶色いエプロンを着た太った中年女性が立っていた。笠原美空の姿は見えない。
「あの、笠原さんは?」
ミントは太った店員に訊ねた。
「ああ、笠原さんね、辞めちゃったのよ。引っ越したみたいなの。娘さんと実家に帰ったみたいよ。長野県の安曇野だったかな? 実家の家業を手伝うんだって。北アルプスが見渡せるいい所だって言ってたわよ」
太った店員が言った。ミントは少しショックを受けたが、何故か納得した気分になった。母親の笠原美空と妹のひかりは長野の美空の実家に帰って落ちついた暮らしをするのだろう。波乱万丈だった母には落ち着いた暮らしをして欲しいと思った。また、いつか安曇野に行ってみたいとも思った。きっといい所なのだろうと思った。ミントは今日は清州白河の駅から地下鉄に乗って帰ろうと思った。もう橋を渡る必要はないと思ったのだ。街には小春日和の日差しが降り、季節外れの暖かい風が吹いていた。
「やっぱ水天宮まで歩いてお参りしていくかな」
ミントの心は不思議と小春日和の風のように軽かった。
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