罪と罰と、黄金色の蜜と其の双極性──Zweipoligkeitと……

加賀倉 創作【FÅ¢(¡<i)TΛ§】

黄金の精神

⚠️本稿は当然のように『罪と罰』のネタバレを含みます⚠️






 ──金が人間を操り狂乱へと導く。




 主人公の青年ラスコーリニコフが質屋の婆さんを斧で頭をかち割ってぶち殺したのも父親の形見の銀時計や妹からもらった大事な指輪を質屋に入れたのも、未成年のソーニャが父マルメラードフが家に金も入れず仕事もせず飲んだくれて家計を揺るがせたせいで水商売に身を向け心身の犠牲をもって肺炎の母に代わって一家を支えるのも、ルージン──彼は度重なる金による他人の制御に耽りそこに依存している──が金に物を言わせてラスコーリニコフの妹ドージャとの婚約を取り付けたり偽善的に経済的困窮の人間に経済支援の手を差し伸べては人々の尊厳を失わせ服従させ不快にさせるのも、不慮の死を遂げたマルメラードフの妻カテリーナが大事な金──ラスコーリニコフが友の死を受けて衝動的に置いて二十数ルーブリ(その金はラスコーリニコフ自身で稼いだものではなく彼の母がどうにか工面して送金してやったものである)を盛大な葬式と明日のパンの心配を顧みない散財とに費してまで自身の過去の貴族としての矜持を示すのも、身を削りながら家族を支えるソーニャ(その事実は盗みを正当化しないがラスコーリニコフの大論文によれば自然な行いであると思われる)がルージンの部屋から百ルーブリ紙幣を盗むのも……というのはルージンが自身の株を上げるための工作で実はルージン自身がこっそりとソーニャの服の中へ金を忍ばせて後にそれを指摘して且つルージンの同居人にして被後見人のレベジャートニコフがルージンの工作を見抜きソーニャの潔白を証言しルージンをろくでなしとして糾弾するのも、すべて金というものを基軸としている。

 金が絶対悪とは言わない。

 だが本来人間が各人持てるだけの財産を持って人間のコミュニティが成り立っていたところに、金という体積をさほどともわずして虚構的価値を過度に蓄えることを可能にする代物が出現したことによって、富の異常極まりない偏りが生まれて貧富の差が拡大し、動物として不必要の巨大な苦悩を抱えるようになったことは、自明である。社会主義や共産主義という机上の空論的絵空事的思想が発生するのも、一定の理解ができるというものである。だが富を均そうという試みはそれ自体はわかるとして、しかし対症療法的であることは変わらず、人間の不必要の不幸せをもっと根本的に解決しうる何かに目を向けないのは、視野狭窄という他ない。言い換えるならば、文明的人間社会の過剰拡大──現代ではそれをグローバリズムとも呼べる──という巨視的問題が解決すべき最優先事項なのであって、金の流動性に工夫を加えるだとか金の再分配を侃侃諤諤としてその場しのぎ的規範を設けるだとかいう微視的処方箋は、悪魔の種とも呼ぶべき宿痾を根治しないのである。


 私が金を絶対悪としないのには、『罪と罰』という世界の中においてという限りではあるが、理由がある。

 ラスコーリニコフは、己の質屋の婆さん殺しの罪をソーニャに告白する際、カテリーナとソーニャにくれてやった二十五ルーブリは、質屋の婆さんを殺して盗んで得た汚れた金ではなく、彼の母が苦心して集めた尊い金であると区別することで、金にも汚れた金と清い金があるという含蓄ある言い訳をしている。

 つまりはときに金というのは、良くも悪くも、人間の善性あるいは悪性の属性を付加されうる流水のような媒介物として、働くものなのである。

 腐った金──例えばそれはゴールドというのはいつも、己があらゆる金属の中で最低のイオン化傾向であるすなわち決して錆びず光沢を失わないことを見せつけるかのように、醜いほどに美しく、輝いている──もあれば、純真と無垢を帯びた金もある。後者は紛れもなく……



 単なる金ではなく

 


 黄金の精神


 

 そのものである。

 

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罪と罰と、黄金色の蜜と其の双極性──Zweipoligkeitと…… 加賀倉 創作【FÅ¢(¡<i)TΛ§】 @sousakukagakura

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