朝紛い【外伝】
緋川ミカゲ
死神の恋慕 ー 篝 榊󠄀 ー
昔。榊󠄀からこんなことを言われたことがある。
「篝さん。おれ、今になって気づいたんです。おれたちって、死神みたいだなって」
それは、まだ梅の咲き残る境内でのこと。
春の訪れに消えゆく淡雪と共に、しんと静かに、けれど確かに、そこに響いた言葉だった。
淡雪と同化して、今にも消えてしまいそうな、そんな朧げな輪郭をした白い彼は、かじかんだ指先で空をなぞる。
「死神とは、これまた滅多なことを言うじゃあないか」
「…そうですね。きっと、昔だったらおれもそう思ったと思うんですけど…」
「何か思うことでもあるのかね」
寒さに赤らんだ手をただ空へ向けて、何かを掴もうとしているかのように動かす彼の目は、虚空を見つめていたように思う。
彼は今、葛藤している。それを私は知っていた。
ただ、死神という言葉があまりにも凄惨で、普段の彼からは想像もつかない陰鬱で暗然な思考の働きによって生み落とされたものではないかという危惧と興味とが私を占めた。
「…おれは、あの子を連れて行けないかもしれない」
その言葉と共に、彼は天へ伸ばした腕をだらんと力なく下ろして、冷え切った掌で顔を覆った。
私はただ彼のその姿を見つめることしかできなかった。
彼には愛する相手がいる。その相手は、数カ月後にはもうこの世にいない存在だ。相手はこの世から排除される。自分たちの、手によって。
あまりにも酷だと思った。酷い話だと思った。
残酷で無慈悲で、どんなに身を裂かれる思いだろうと、私は胸を痛めた。
…しかし、その行為は私にとってはある種の虚に他ならなかった。
私には本当の意味で、榊󠄀に寄り添うことは不可能だった。それは、私がまだ、人を愛したことがなかった故だ。
愛した相手を無慈悲に自分の手で亡くす、そんな辛さが、それを経験していない者に本当の意味で伝わるはずもない。
「おれは自信がないんです。あの子は、ちゃんと覚悟を決めたのに…。おれは、あの子を天へ連れて行ける自信が、どうしても……」
「榊󠄀…」
「どうして、あの子が依り巫女様なんだろう。どうしてあの子は、もっと生きられないんだろう。あんなに、あんなに、優しい人なのに…!」
「そんな風に想ってもらえるとは、アカネ嬢もきっと幸せだろう」
「そうでしょうか…。こんなに、いつまでたっても覚悟の決まらない、駄目駄目なおれが相手なのに…」
「そんなに駄目なことかね」
「え?」
私は榊󠄀自身が言うほど、彼を駄目な男だとは思わなかった。それは世辞でもなんでもない、私の本心からの言葉に違いないものだった。
「愛する相手の終わりを、自らの手でくだす…。その行為に戸惑い、躊躇することは、そんなに駄目なことかね。私はそうは思わないが」
「篝さん…。…でもおれたちは、御霊結びだから。そもそも、巫女様と御霊結びが…その…そういう、関係になるのだって、良くないはずだし…」
「私たちにも心がある。それは情を持つためだ。恋情だけが例外なはずはないだろう。…むしろ、私は覚悟を決めようとしているお前さんを尊敬さえする」
「んへへ、やだなぁ。篝さんがおれを尊敬なんて。……本当は、全然、覚悟なんて決まらないんですよ」
榊󠄀の目線の先には、境内を駆け回る村の子供たちの姿がある。楽しそうに鬼ごっこをする彼らが、もう時期訪れる夕暮れと共に村へ帰っていくとき、恐らく依り巫女も神社へ帰って来るだろう。
現依り巫女であるアカネ嬢は、今日が儀式装束の準備なのだ。
榊󠄀はふらふらと梅の木の傍まで歩いて行ったかと思うと、そこで花開く咲き残りの梅を撫でながら、行く末を憂えた。
「本当は、あの子をどこか遠くに連れ去ってしまいたいんです。許されることなら、誰もおれたちを知らない場所に行って、二人で、ずっと、穏やかに…」
榊󠄀の瞳がその輪郭をぼかす。瞬きを繰り返すその仕草に、どれほどの懊悩が詰まっていることだろう。
「でもそれを、あの子は望まない。この村で神様になるって、自分で決めた。おれはあの子の決意と覚悟を無駄にはしたくない。…あの子の、人としての生の終わりは、おれたちが…」
「……なるほど。お前さんの言った意味が分かった。たしかに、私たちは死神のようだね」
「そうなんです。巫女様の命を天へ運ぶ役目…。それはすなわち、死を与える役目ですから」
「…あぁ」
「……。あ、か、篝さん!このこと、二人には秘密にしてくださいね!特にさっき連れ去りたいとか言っちゃったこと…」
榊󠄀は人差し指を口元に当てて、慌てた様子で懇願した。
「もちろん。他言はしない。…しかしお前さん、知られたくないようなことをどうして私に?お前さんは私よりもサクたちといる時間の方が長いのだから、大事なことは彼らに話すと思っていたが」
「え?あぁ…いや、なんとなく、篝さんになら、話せるかなって思って。麻桜さんはきっとおれの話を聞いたら、どうにかして実現させようと頑張ってくれちゃう気がして…」
麻桜という男は、他人のために精一杯の力を貸してくれようとする。
それがいつの日か空回ったり、ナギに怒られたりして、最終的には何かと人目に触れてしまう結果になるだろう。そういう意味では、話を聞いて理解して、ただただ同情するだけの私が相手の方が都合がいいのかもしれない。
以前、ナギには『親身になって話を聞くくせに一切行動には移さない薄情男』と言われたことがあるが、それが役に立つこともあるものだ。
「ははは、そうだな。サクは色々と案を考えるだろう。元からこの儀式にも良い印象は持ち合わせていなかったはずだからね。…ナギは、まぁ無理だろうなぁ」
「はい…。風柳さんには、こんなこと言えないです…」
彼女は儀式を行うことに重きを置いている。連れ去るなんてもってのほか、論外だろう。たとえ実際にやりはせずとも、そんな願望を抱えているということ自体知られてしまったらどうなるか分かったものではない。
彼女はなかなかに恐ろしい。それはもちろん皆分かっている。ナギについていけるサクのことを、私も榊󠄀もひっそりと尊敬しているほどなのだ。
「理由がどうであれ、私を選んでくれたことは嬉しい。お前さんの気持ちは、しっかりと理解したよ」
「篝さん…!ありがとうございます」
「…何か根回しでもしてやれたらよかったが、生憎それができる状況ではないからなぁ。心苦しいが、私は黙ってお前さんたちを見守ることにしよう」
「それで充分ですよ。…篝さんがいてくれて、よかったなぁ」
柔らかく微笑む彼の後ろに、私は明らかな諦念を見た。
どうすることもできない巫女と神という関係、巫女を捕らえる因習の鎖、迫り来る死の壁…。それらを乗り越える準備を、今しているのだ。
「…まったく、ご立派なことだ」
「あ、依り巫女様ー!!」
境内で遊んでいた子供たちが呼んだその声に振り返れば、山道をお付を連れて登って来る依り巫女の姿があった。
「あれ、皆こんなところで遊んでいたの?ほらほら、もう日が暮れるよ。良い子はおうちにお帰りなさい」
「はーい!!」
「アカネ!おかえり」
「榊󠄀!!ただいま!!」
彼女は子供たちに山を降りさせると、自分たちだけになった境内で榊󠄀に抱きついた。危ないよ、と諭す榊󠄀も、頬を赤く染めている。
彼らの間に芽吹くのは、間違いのない純愛だ。そこが浪漫でもあり、脆い部分でもあった。私は愛し合う若い二人を境内に残し、拝殿にいるサクとナギのところへ戻ろうと気配を消して歩いた。
「あ、篝さん!お話、ありがとうございました」
「何、構わないさ」
「なんの話してたのー?」
「ううん、なんでもないよ」
「ふーん。ま、いいけどー」
「それより、装束はどうだったの?」
「すごい綺麗だった!真っ白なお着物でさぁ…。私、あれを着たら榊󠄀のお嫁さん気分になれるかも」
「……アカネ…」
「ふふ、なーんてね!そんなの着なくたって、貴方の隣は私のものだもんね?」
悪戯をした子供のように、にやりと笑う彼女。
沈みゆく日が二人の視界を緋色に染め、彼女の表情を照らすのとは裏腹に、俯く榊󠄀の顔には影を落とした。
「アカネ…。…へへ、うん。そうだね。おれの隣はずっと、きみのものだよ」
あの頃、境内に咲いたのは梅や沈丁花ばかりでなかった。
二輪の可憐な花。それをたしかに、私は見ていた。
「アカネ…アカネッ…!!!」
桜が散る。風が吹きつける。
儀式を終えた直後、私たちの前に残るのは、いつだって依り巫女の亡骸だ。
神酒を飲んで倒れた巫女の身体から魂を取り出し、天界まで運んだのが数刻前のこと。
今地上に戻ってきて、一番に目に入るのは当然、中身の空になった彼女の身体。その身に纏う純白の儀式装束は、どこか白無垢にも見えた。
今までずっと堪えていた榊󠄀の涙はこの時初めて流れ、石畳を絶え間なく濡らしていく。
冷たくなった彼女の身体を抱きしめながら泣き喚く榊󠄀の姿は、見ている私たちの胸も痛くなるものだった。目の前に広がるこの惨状を、どうすることもできないという事実もまた私たちを苦しめ、サクとナギは榊󠄀から数歩離れたところで立ち尽くしていた。
私は榊󠄀に歩み寄り、彼の背を撫でる。痛いほどに震えるその身体に巣食う底の知れない悲嘆を、今でも鮮明に覚えている。
「神様になんて、ならないでほしかった」
サクにもナギにも聞こえない、小さい声。それは確かに、私の耳に届いた。
榊󠄀の心の真実。本音。悲痛な叫び。
その一言が、彼女へ対する、榊󠄀の最初で最後の本音の吐露だったように思う。
「かがりさん?どこいくの?」
「いいかい松雪嬢。君は今から神隠しに合うんだ」
「かみかくし?」
「そうだ。…大丈夫。君ならきっと生きていける。
幸い、私は日本全国を旅しているからね。頼れる伝手はあるんだ。大丈夫、大丈夫だ…」
「かがりさん…?」
私が、罪を犯したあの日。
幼い身体を抱きかかえて、ただひたすらに森を駆け抜けたあの日。
呼吸は乱れ、胸が張り裂けそうに痛かった。
それでも頭の中は彼女が見つからないように、どうか、どうか、と、そればかり考えていた。そしてそれと同時に、このまま連れ去ってしまえば、もう彼女が十八で殺されることはないのだという安堵感もあった。
これだけの思いを、全て飲み込んで、耐えて。
十八の春に別れを告げた榊󠄀の気持ちを、あの涙の痛みを、私はこのとき初めて理解した。
私には榊󠄀のように、死に耐え得る心がなかった。
巫女に選ばれて喜ぶ彼女に、おめでとうと、笑顔で言ってやることができなかった。
私は喜ぶ彼女の意思に背いたと、そう言っても過言ではない。
榊󠄀の精神力を心底羨ましく思った。彼はどうして、こんな心情に耐えていられたのだろう。どうして心の痛みのままに、連れ去るという罪を犯さずにいられたのだろう。
榊󠄀が乗り越え、受け入れた運命を、私は何一つとして受け入れられなかった。松雪嬢が巫女に選ばれたと聞いたときから、このままではこの生まれたばかりの輝きを失ってしまう、そうだ連れ去ってしまおう、そんな考えしか浮かばなかった。
私は、弱い。惚れた輝きを守るための手段が、罪を犯すことしかないのだから。
「いいかい?今日から君の名は雪だ。松雪の名は捨てて、これからこの土地で生きていくんだよ」
「え?え?ここどこ?かあさまは?とおさまは?」
「…すまない。必ず、必ずまた母君と父君に会わせると約束しよう。だから…決して、村に帰ってきてはいけないよ」
信頼できる伝手…かつて霊力持ち同士で祝言を挙げ、そのまま村を出て行った夫妻の元に、彼女を預けた。彼らはもう年老いていたが、松雪嬢を育てられるだけの環境と力があった。それを見込んでの、私の全てをかけた頼みだった。
「彼女を頼むよ。何か困ったことや足りないものがあったら教えてくれ。必ず用意しよう」
「篝様…。あの子と共に過ごされないのですか?」
「…あぁ。……彼女には手紙を書くから、それを渡してほしい」
「そうですか…。かしこまりました」
言い伝えた通り、私はその日から姿を隠した。
彼女がただ、生きていてくれるだけでいい。
村に生まれたことも、因習のことも、何もかも忘れて、最初から東京の地に生まれた普通の少女として育っていってくれればいい。
私の願いはそれだけだった。
気まぐれに文をしたためて、彼女宛てに届けて、返事をもらって…。そんな、所謂文通というものを何年も続けた。
数年、間が開くこともあったけれど、それでも彼女が私に送ってくる内容はいつでも「どうして会えないのか」その一択だった。
私はその理由も、彼女を連れ去った理由も、私自身も、何もかもを隠した。
しかし、彼女が十八になってすぐの頃。
街中で、突然強い霊力を感じた。
振り返ってみれば、少し離れた先に、同じようにこちらを振り返る一人の女学生の姿があった。
すぐに、松雪嬢だと分かった。あの輝く、吸い込まれるような、引き込まれるような瞳が、変わっていなかったからだ。
あぁ、私の惚れた瞳だ、と心が動くのを感じた。
「貴方…。…篝さん?」
艶やかな髪と、すっかりめかしこんだスカートの丈。黒いタイツからうっすらと透けるその肌がいやに扇情的だった。
「君は…まさか…」
「やっぱり、篝さんなのね!」
私の胸に飛び込んで来た彼女は、とても嬉しそうで、うっとりとしていて、美しかった。
だからこそ、自分の腕の行場に困った。無垢なこの子には、触れられないと思ったからだ。
「篝さん…どうしてあの頃みたいに抱きしめてくださらないの?あたしのこと、嫌いになってしまわれた?」
返す言葉が見つからなかった。
その悲しげに瞳を細めて眉をひそめるその表情が、あまりにも完全なるものだったのだ。
「でも残念ね。あたし、もう貴方を離してなんてあげないわ。ずっと待っていたんだもの」
にっ、と目を細めて笑うその表情は完璧だった。
こんな顔を向けられたら、どんな男だって堕ちるだろう。ただその表情が、私には冷たくて硬い、それでいてすぐに崩れて壊れてしまいそうな、硝子細工のように思えて仕方がなかった。
まるで作り物、蝋人形。
「……君」
「君?そんな呼び方は嫌ね。貴方だけはあたしのこと、松雪って呼んでほしいのだけど」
「…その名前、覚えていたのか」
「当たり前じゃない。でも、普段のあたしは雪だから。この名前は、篝さんの特別よ」
「……。松雪嬢。…君は自分の心に、正直かね」
「…なんのこと?」
「…君は形作ってはいないか。…君が、そんなふうに笑う子だったとは、思えない」
完璧に計算された微笑み。柔らかく見えるように、作られた顔。
「…嫌ね、あたしはいつだってこうよ」
「違う。君はもっと…温かく笑える子だ。幸せを蓄えて、その瞳を熱で浮かして、笑える」
「…………。……なら。それが、本当のあたしだって言うなら。普段のあたしは、冷たいってことかしら」
「………。」
「あたしが冷たいなら、それは篝さんのせいよ」
「私の…?」
「十五年前、私の元から炎が消えてしまったんだもの。探していたのに、待っていたのに。……あたし、雪よ。雪なのよ。自分一人で暖かくなんて、なれっこないじゃない」
こんなときでも、彼女の口角は上がったままで、その表情から微笑が失われることはなかった。
彼女は悪い子になっていた。
冷たい自分を温かい嘘で固めて形作った、悪い子。
「だからもう一度、あたしの隣で、あたしを焼いて?篝さん」
猛毒。彼女の言葉は毒だ。抗えるわけがない。
禰古末の瞳、蠍の子。その猛毒に侵されたら、もう。
「突然呼び出してすまなかったね、榊󠄀」
「いいえ、大丈夫です。それより…その、お隣の女の人は…」
「松雪と申します」
「松雪さん…?って、まさか、神隠しの…!?」
「すまない榊󠄀。私は…お前さんのように、耐えることができなかった」
「え…?………あぁ、もしかして…」
ある日の夜更け、村から少し離れた丘に榊󠄀を呼び出した。私たちはこれから、罪を上塗りしていく。
「……そうかぁ。松雪さんは、篝さんの大切な人なんですね」
「すまない…。本当に、すまない」
「篝さん?どうして謝るんですか?」
「お前さんが苦しみながら乗り越えたことから、私は逃げた。…あの日、お前さんが流した涙の痛みを、今更知ったよ」
「………。篝さん、昔言ってくれましたよね。おれたちにも心があって、それは情を持つためなんだって。…おれは、篝さんを責めたりしません。おれと篝さん、アカネと松雪さん。選んだ道が違っただけの話です」
榊󠄀の顔は穏やかだった。慈愛に満ち溢れる、それこそまさに神様のような、そんな顔だ。
「それで、おれを呼んだ理由は…。儀式のこと、ですかね」
「……あぁ」
「……篝さん、大丈夫?」
手が震えた。声が震えた。言えない。けれど言わなければ。
「……私たちは、儀式を止めたい。私のせいで依り巫女になってしまったホタル嬢を、死なせないためにだ」
「…なるほど」
「しかし、儀式を止める方法は…」
「御霊結びが欠けること、巫女様がいなくなること…。それはもういろいろあるでしょう」
言葉を詰まらせてたどたどしく話す私を相手に、榊󠄀は流れるように、安らかな顔で優しく話した。
「………榊󠄀」
「はい、篝さん」
「………っ……」
「……。篝さんは、御霊結びを欠けさせる手段に?」
「……そうだ」
「なら、おれかなぁ」
「…え…」
「…欠けるなら、おれか篝さんですよね。篝さんも、そう思っているんでしょう?」
深夜、満月が照らす丘で、月を背に負った榊󠄀は柔らかく笑った。冷たい風が、榊󠄀の三つ編みを揺らす。
靡いた前髪に隠れた黄色い瞳は鋭く光り、その表情とは裏腹に、堅い覚悟を示した。
「…篝さんは、松雪さんを愛したから、きっとその勾玉はいつの日か割れてしまうでしょう。でも、いつ割れるのか、篝さんが御霊結びから外されるのはいつになるのか…。それは分からないことなんですよね」
「……あぁ」
「自分から割れば、それはおれたちにとっての死を意味します。けど、勾玉が、勝手に割れたなら。それは人間への堕落を意味する…。これからも松雪さんと生きていく篝さんは、勾玉が勝手に割れる日を待たないといけません」
「…その通りだ」
「……でも、おれは違うんですよね。…おれは、自分から割ったっていい」
「そ、そんなこと…」
「……おれが自らこんなことを言うのは驚きですか?……篝さん、あのね、アカネが神様になって、もうじき三十年なんです。三十年で神様の役目が終わったら…彼女はどこに行くんでしょうか」
「どこへ…。考えたことが、なかったな」
「……あの子は、強がりなんです。誰よりも強がりで、それでいて誰よりも寂しがりやで…。もし、役目が終わって一人になってしまったら、あの子は道に迷うかもしれない。誰かを探したいのに、その誰かを拒否してしまうかもしれない。……だったらおれは、そんなあの子のそばに、行ってあげたいんです」
榊󠄀の口から溢れた言葉は、今日、私が彼に言わなくてはならないことそのものだった。
私は、今日彼に許しを請いに来たのだ。
「篝さんは、おれに何を言いたかったんですか?……もう、大丈夫ですよ、震えなくて。大丈夫です」
「榊󠄀…。……すまない」
「はい。なんでしょう、篝さん」
「……私に、お前さんを……。……お前さんを、殺させてほしい。勾玉を、割らせてほしい」
榊󠄀に頭を下げる。残酷な願いだ。最低な請いだ。
とても許されることではないことだろう。
後ろで共に頭を下げる松雪嬢の表情も、どこか辛そうに見えた。
「………はは、直球なお願いだなぁ」
「……私たちの願いに、過ちに、罪に、お前さんを巻き込んでしまう。言葉だけでは、とても謝罪も償いもしきれない」
「……そうですね。これは、おれたちの罪だ」
「榊󠄀は違うだろう」
「いいえ。…おれも共犯ですよ。だっておれがいなくなったら、儀式は止まります。…もし言い伝え通り、災いが起きてしまったら…そのときは、おれのせいでもあるでしょう」
「榊󠄀…」
「篝さん。一つ、約束してもらえませんか」
「もちろんだ。なにかね」
「もし、災いが起きてしまっても…絶対に、村の皆さんを、傷つけないようにしてほしいです。誰も亡くなったり、怪我を負ったりしないように…上手く、計らってくださいね。……へへ、上手く、なんて投げやりですけど、きっと篝さんなら立ち回れますから」
「……あぁ。約束しよう。必ず」
「…ありがとうございます。じゃあ、これを」
榊󠄀は自分の帯に付けていた勾玉をとって、私に渡した。白と橙が、美しく混ざった勾玉。西、と刻まれた清らかな命を、今から壊す。
「おれ、篝さんを信頼してるんですよ」
「私を…?」
「はい。だから、いいんです。篝さんだからいいんです。…あの日の境内でも、おれ、篝さんに本当にの気持ちを相談させてもらったじゃないですか。篝さんは、おれの密かな支えだったんです」
「…榊󠄀…。……っ、すまない、本当に、すまない」
私は外套の裏にしまった小刀を取り出し、切っ先を勾玉に向けた。息が上手く吸えない。息が詰まって仕方がない。自分から願ったことだ。それなのに、今更、彼と積み重ねた日々が思い返される。
「っ……。清らかなる命よ…御上の御胸へ、お返し申し上げるっ…!」
瞼をぎゅっと閉じ、小刀を振りかざして勾玉目掛けて振り下ろす。
切っ先に、石を貫く感触。
瞼を持ち上げれば、そこには砕かれた勾玉があった。
榊󠄀の身体がどんどんと影を薄くし、消えていく。
「榊󠄀っ…!」
小刀は私の掌に刺さっている。その痛みすら感じられないほど、今は目の前の彼の存在が痛かった。
「榊󠄀……。……お前さんと過ごした時間は、いつも…自然と笑うことができた。お前さんがいないと、和まない空気も、あった。…榊󠄀。…お前さんは、とても…。実に、頼もしかった…。」
「篝さん…。えへへ、ありがとうございますっ!そう言ってもらえて、すごく嬉しい。……おれ、アカネを抱きしめに行ってきます。だからどうか、悲しまないでください」
そう言い残して、榊󠄀は消えた。
最期まで、笑っていてくれた。
あの子は……強い。私なんかより、ずっと。
「篝さん……。手が」
私は掌に刺さったままの小刀と、榊󠄀の割れた勾玉を見た。
「………っ…」
小刀を握り、更に深く、奥へ押し進める。
「篝さん…!?何をしていらっしゃるのっ?血が…!」
「榊󠄀…。すまない、すまないっ……」
「……篝さん……」
罪の上塗りというものは、自分の思っていた以上に、心を蝕んでくるものだった。
仲間を殺した。自分の手で。四百年来の、生まれたことからずっと、共にこの地を守ってきた仲間を。友を。
私はあの夜、あの丘で誓った。
何があろうとも、儀式は必ず止めよう。
どんな罪を背負っても、どんな恨みを買っても、必ず、やり遂げよう。
サクやナギにどう思われようと、もう仲間と思ってもらえずとも、私は松雪嬢と二人で、必ず。
私の勾玉が割れたのは、それから程なくしてのことだった。榊󠄀を殺したことで、松雪嬢と共に二人でやり遂げようとより強く誓ったことが元だったのではないかと思う。
もう私たちの関係は、後に引けない。
戻れないところまで、深く、沈んでいた。
スパッ
「………。」
松雪嬢とホタル嬢と共に東京に来てから一月。
三人で共に暮らしているこの家の押入れ。そこに保管してある小さな木箱に、私と榊󠄀の勾玉を預けている。
橙と青の、二つの割れた勾玉。
私はそれを、度々見返しては己が神であったことを思い出す。
「………困ったものだな…」
四百年の時を共に過ごしたサクやナギ、榊󠄀との思い出が頭を巡る。
けれど、彼らとの生活に終わりをつけたのは、紛れもない私自身だ。そんな私が彼らとの生活を懐かしむのはいけない。矛盾にもほどがある。
「篝さん」
「おや松雪嬢。何かあったかね」
「いいえ。……勾玉、また見ていらっしゃるのね」
「ああ、すまない。特に意味はないのだが」
「………後悔。していらっしゃる?あたしと生きる道を選んだこと」
「そんなことは…」
「…でも、あたし無理よ。後悔してるって言われても、離してあげられないわ。あたし、篝さんがいないと生きていけないもの」
「違う。後悔など、決してない」
「…本当に?」
「あぁ」
彼女を引き寄せ、抱きしめる。
後悔などしていない。するはずがない。
惹かれた光が、腕の中にあるのに。
「不安にさせて申し訳ない。…後悔などするがないさ。何を犠牲にしてでも、何も失っても、私は君と共にいる道を選びたかったんだ。それほど、君に焦がれてる。君を愛している」
「篝さん…。あたしね、貴方と一緒になら死んじゃってもいいくらいなの。それくらい、篝さんが特別よ」
「私もだ」
彼女をそっと離し、襖を閉める。
「そろそろ、ホタルが帰って来る頃かしらね」
「あぁ。迎えに行こう」
今日はホタル嬢にお使いを頼んでいる。
彼女か私の同行の申し出を、一人で行ってみたいと断られてしまったのだ。
松雪嬢の選んだ洋服に身を包む彼女は、とても可愛らしい姿をしている。万が一何かありでもしたら大事どころではない。
「松雪嬢。さ、行こう」
「ええ。篝さん」
二人で家を出れば、向こうに小さくホタル嬢の姿が見えた。華やかな街に、よく似合う姿だ。
榊󠄀。お前さんは、アカネ嬢と会えたかね。
彼女と共に、楽しく、話して、遊んで、笑っていられているだろうか。
お前さんが選んだ道の先に、私たちの道があった。今、松雪嬢やホタル嬢とこの華やかな街にいられるのは、お前さんの選択と命のおかげだ。
お前さんには、感謝してもしきれないな。
「ホタル!おかえりなさい。何かあったりした?大丈夫?」
「ただいま、雪ちゃん!大丈夫だよ、お店の人すごく優しくしてくれたんだ」
「お疲れ様だ、ホタル嬢。お使い感謝する。さぁ、昼食の時間だ。家に戻ろう」
「はい!やった、お昼ごはんだ〜!」
ホタル嬢は、よく食べよく動く。
その様子は見ているこちらまで幸せになれる。
いつか、サクやナギに再会することがあったら…。更に素敵になったホタル嬢を届けてやりたい。
「ホタル、この後はどうする?どこか行きましょうか」
「え、いいの?どこがいいかな…」
「なら凌雲閣でもどうかね。絶景だと噂だ」
「凌雲閣って…もしかして、浅草十二階ってやつですか…!?」
「あぁ」
「あたしも聞いたことがあるわ!気になってたのよね」
「行ってみたいです!」
「いいじゃない、行きましょうよ!じゃあ早くご飯にしましょ、篝さん」
「そうだね。早く支度をするから、二人とも手伝ってほしい」
「「はーい!」」
この三人での生活を、私の全てをかけて守ろう。
罪を背負いながら、その罪以上の幸せを生み出し、与えよう。
まずは、小さな幸せから積み上げられるように。
この家を、この二人を、笑顔で満たそう。
外には桜が咲いている。
桜吹雪が、新たな緑の芽吹きを撫でる。
「美しき 鳥飛び去って 暮れぬ日の 春雨細し 青柳の門……」
沈まない日の下に、今日も春雨が降る。
朝紛い【外伝】 緋川ミカゲ @akagawamikage
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