終末旅行

ゴミ箱

不快な街

 雨は不快だ。では嫌いなのか?と問われたとしたら、寧ろ否定するであろう。家にこもっている間の雨は好きといっても過言では無い。

 強くなったり弱くなったり、優柔不断な雨音を聴きながら読書をしていると、時間の流れが緩やかになる。時間が止まったような気にすらなる。脳みそが真っ直ぐになる前に、雨音がこちらに戻してくれる。安心と不安は共存している。

 ポタポタと水滴が落下する音を聴き、何処から落ちているのだろうと想像しているうちに自分が夢に落ちていく。そんな時は決まって蛙になった夢を見る。独りぼっちの蛙は、雨だけが。

 それに雨の中を不機嫌な人々が、急足で通り過ぎていくのを窓越しに見つめる事も好きだ。傘と傘がぶつかり合い、ほんの少しだけ速度が落ちる。そんなに肩や荷物を濡らして可哀想に、どこか中に入れば良いのに、とその瞬間だけは神様みたいに人々を眺めることが出来る。


 雨の好きなところばかり話してしまったが、先程話したように私は雨が不快なのである。例えば、好きな女の子とデートに行っていたとする。これはいける!と手に力が入る。突然雨が降り、その女の子に「雨、降ってきちゃったね。」とか言われて傘が無かったら、全くの恥でしか無い。その上私はふざけてとぼけることも出来ず、ごもごもして終わるだろう。失敗は人を成長させる、とかぬるい発言は控えて貰いたい。そんな日の雨はやけに冷たく、鬱陶しいに決まっているし。


 ああ、そうだった。私は昔からそういう人間だったのだ。母親に、皆んな習っているんだからあんたもやんなさい、と言われた時もそうだった。嫌とも言えず、習字教室にも馴染めず、お腹が痛くなるほど行きたくなかった。筆を持つ手は震え、一向に上手になる事は無かったし。夕食中、一度だけ言おうとしたことがある。だが結局冗談に変えられ、私の小学生の頃の何かが変わることは無かった。あの時もっと強く言えていたなら、屁理屈ばかりのこの性格も少しはましになっていたのだろうか。うまく言葉にできない。


 少しずれてしまったが結局のところ、雨は煩わしいこの上ないという事実を言いたかったのである。人間には腕が2本しか無い。例えば、片手に大きな荷物を持っていたとする。これだけで2しかない手の半分が、支配される。この上で雨が降っていたら、もう片方の手で傘を刺さないといけない。もう折角のおしゃれだって台無し。雨も楽しめ、なんて冗談じゃ無い。濡れても楽しいのは海やプールだけだろう。日常生活において偶然の濡れタイムに喜ぶやつなんていない。

 電車に乗っていてもそうだ。そもそも押し寿司の米にもなりたくはない。その上で他人に当たらないよう手をびしゃびしゃにして、傘を小さくまとめ、当たってしまったらすみませんという顔をしないといけない。愚か過ぎる。そもそも天気に左右されることが嫌いなのだ。その事だけはどうか分かって欲しい。




まあ、今雨は降っていないのだが。とても不快ということは等しい。


 知らない街の路上に立たされている。

 犬猫だけしかいない。生き物を踏まないように、足をちまちま踊らせて道路の隅っこを渡っていく。まだ始まったばかりだというのに、足はもう白蟻に喰われた樹木みたいだし。肌を焼き切る勢いで燃え続ける太陽が、隅々まで鮮明に浮かび上がらせる。何かを繋ぎたいと必死に絡み合い、塊となっている電線が折角の青空を邪魔する。気味の悪い人工的な色合いの建物が不揃いに並ぶ。排気ガスと何処からか臭ってくる、油みたいな匂い。鼻に刺さる。頭の中が混ざって混ざってぐるぐる。渦巻きみたい。錆びたパイプの先端では鼠が大きく背を伸ばし、プラスチックのふざけたような瞳でこちらを振り向いている。



 ここが何処であるかは然程問題では無い。

 例えここが月の裏側であったとしても、呼吸の心配をするくらいでなんら問題は無い。むしろ女の子が一緒であったなら、月の裏側でキスが出来た。そんなアニメのワンシーンみたいな体験が出来るならば、待ってました!と大きな声で叫ぶに違いない。私を月の裏側まで連れてって。現実逃避で月に行けそう。いや、そんなことより今一番の問題はこいつが男であり、しかもふらふらした変な奴ということだ。現在もこちらも周りも気にせず、汚れた毛の硬い猫を撫でている。


 こいつをKと呼ぶ事にしよう。覚えるのも煩わしいし、大体だらだら人の名前なんて呼びたくない。脳天気で歓楽主義者。たまに鋭く、頭が悪い訳では無いと思う。一言で言えば、変な奴。とはいえKの事をよく知っている訳でも無いので、本当のところはよく分からない。


 そもそもKとはあまり話した事が無い。Kは近所でちょっとした有名人だった。裸で電柱にぶら下がって警察を呼ばれただの、裏の路地で鼠に芸を覚えさせようとしていただの。他にも様々な話を聞いたが、結局噂は噂でしか無い。人の話はパタパタ飛べばその分大きくなる。正しいかどうかは別に知らない。

 でも一度だけ、丁度1年前にKをゴミ捨て場で見た事がある。深夜2時は回っていたと思う。飲み過ぎた私は、それはもう覚束無い足取りで家へと向かっていた。ジッ、ジジ、パチッと死にかけの電灯の下。ハエがたかるゴミ捨て場で、血だらけ痣だらけの人間らしきものを見つけた。夜の寂しい暗闇に、点滅する汚い赤色。

 その時、実際にKを見た事は無かったのだが、こいつが噂の奴だという事はすぐに分かった。


「おーい、そこのお兄さん。」


 こちらの視線に気付いたのであろう。Kは私に話しかけてきた。普段の私であれば、こんな変な奴と関わるような馬鹿な真似は絶対にしない。

 寧ろ嫌な事からは全力で避け続け、都合の悪い事柄からも必死に逃げてきた。皆様の明るい楽しい人生を邪魔しないよう、隅で小さく小さく。さあさあ!私の事は気にせず先に!先に!と愛想笑いが瞬く間に上手くなり、最近じゃ特にわざわざ逃げる事柄も無くなっていた。つまらなくても目を細め、口の端を上げていれば良い。どうせ誰も人の心なんて読めない。だからといって別に、ウジ虫みたいにぐねぐね唸ってる訳でも無い。自分で言うのも身が引けるが、私は私のご機嫌もとれる器用な奴なのである。といっても屁理屈ばかりで言い訳してるだけ、と言われると言い返す言葉ひとつ御座いませんが。

 とにかく私はまだ覚束ず、ふらふらと生まれたての子鹿のような足取りで、Kの元へ近づいてしまった。こいつにどう思われてもどうでもいい、どうせもう関わる事はない。それに酒だって入っているのだから、いつもよりかは何も考えず会話できるだろう、と気持ちだけがぐんぐん大きくなってしまった訳なのである。怖いもの見たさ?かもしれない。

ここまで強気に話しておいて申し訳ない。

身のある会話は別段無かった気もする。

覚えている内容と言えば、

「すまんけど、起こしてもらっても良い?」

「はあ、まあ、良いですけど。」

「いやー、すまんな。ありがとね。」

「一応訊いてもいいですかね?」

「なに?あっ、手汚れたよね。ごめんね。何も持ってないしな。あー、ごめん、ごめん。あれーどうしよっかな、家の鍵も無いのか。いやー、困ったな。」

と、こんなものである。

 こんな軽食みたいなやり取りを会話とはいえないだろう。片手分の勇気を持って会話に挑んだものの、こちら側の完全なる負けである。やはり慣れないことはするべきでは無い。お酒が飲めないのに強がってしまう大学生も、どうか救われて欲しい。結局Kは会話の始まりを最速で終わらせ、何処か歓楽街の光の方へ滑るように消えてしまった。絶対訊きたい!という程では無かったし、普通に酔っていたのでそのまま帰った。残ったものといえば変な不快感と、他人の血と泥まみれの右手だけ。とまあ、結局こんなもんしか知らないのでKの説明はこれ以上無い。


 










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