宮村明里の独白

 ねえ、花凪。私、アンタが思うほど強くないんだよ?


 最初に隼人さんのことを信じられなくなったのは、いつだっただろう。

『心理学におけるストーカーになる人間の傾向』という、当時、いきなり始まったストーカーの影に怯えていた私にとってドンピシャな講義を開いていた隼人さん。

 評判通り顔も良くて、話も面白い。一時間半もある大学の講義を飽きずに最後まで聞けたのは彼の講義が初めてだった。


「君──宮村明里ちゃんだよね?」

「え?」


 そんな彼が、講義終わりに私に話しかけてきてくれた。


「いや、悪い。授業中気になっていたんだ。なんだかすごい真剣な顔をしていたから、さ。もしかして何か困りごとかなと思ってね」


 今、思えば。これも全部仕組まれていたんだろう。

 でも当時の私は明かせない悩みを唯一聞いてくれそうな人に出会えて、なんだかそれだけで救われた気になって泣きそうになったのを覚えている。


「実は──」


 彼にストーカーのことを話しただけ。

 それだけで心のモヤモヤが晴れて、誰かに相談できるってこんなに大切なことなんだって気付いたくらい、この時、私の心はなんだか軽くなった。


「まさか身近で被害に遭っている女性がいるなんてな。よし、俺がなんとかしてみよう」

「え、でも……」


 流石にほぼ見ず知らずの彼に、ともすれば危ないことをお願いするのは気が引けていたんだけど……。


「おいおい、あんな泣きそうな顔で俺の講義を聞いておいて、流石に放って置けないさ」

「そ、そんな顔してました!?」

「はは、冗談だよ。でも、俺も大学講師の端くれとして、目の前で困っている生徒の力にはなりたい。それに、心理学者としてもストーカーの事例には詳しくてね、きっと力になれるよ」

「そ、そうですか」

「ああ、だから詳しく聞かせてくれないか? 俺もこの後なら少し時間取れるが、どうかな?」

「……お願いします」


 彼と交流が始まったのはその時からだった。

 とても親切で、紳士的な男の人だと思っていた。

 ラインを交換したら毎日心配のメッセージを送ってくれるし、自分が忙しい時は事務所スタッフの城丸さんを護衛につけてくれたりもした。

 不安がつきまとって精神的にキツくなっていた私の愚痴とか話し相手になってくれて、彼と会う時間が増えるたびに、自分の中の恐怖とか不安といったモヤモヤしたものが晴れていく。


 ──彼と一緒にいる時間が楽しい。


 我ながらミーハーだと思うけど、大学でも大人気講師の隼人さんと自分だけが親しいっていう、ちょっとした優越感もあったのだろう。

 同じ学部の友達とも隼人さんとみんなとで行動するのが当たり前になって、ストーカーへの怖さとか不安がどんどん小さくなっていった。隼人さんは私の友達ともすぐに仲良くなって、いつも場を盛り上げる中心になって、そんな人の隣にまるで特別のように居れる自分がどこか誇らしかった。

 私がそんな特別感に酔い出した頃から、いつしかみんなと一緒に食事に行ってたのに、二人で食事に行く機会が増えていって、サークルにいる変人花凪の愚痴を聞いてもらったり、ストーカー以外のことも話すようになって、もっと親しくなっていった。


 ──でも。


「じゃあ明里ちゃん、行こうか」


 ホテルの食事が終わりかけた時、彼が言った言葉の意味はすぐに解った。

 場所は私には縁の無いと思っていたラグジュアリーホテルの一階にあるレストランで、ドレスコードの指定された店だった。

 こんな場所なんて来たことなくて、周りにいる大人もこんな人達が普段どこにいるのって思えるほど着こなしも立ち振る舞いも洗練されていて、そんな大人に全く劣らない隼人さんと一緒にいる自分がまるでシンデレラみたいに思えてきて。

 食事も今まで食べたことないくらい美味しくて、信じられないくらい高いお酒を優雅に飲む上機嫌な彼との会話も楽しくて、自分が特別みたいで誇らしかった。


「あ、えっとごめんなさい」


 それなのにこの時、なんで断ったのか私もわからなかった。

 雰囲気は、誰がどう見ても……その、部屋に行く流れだったと思う。


「は……?」


 硬い声がした。同時に忌々しそうに歪んだ顔を私は見逃さなかった。

 思い通りになるはずだった簡単な女が、完璧なデートコースを用意してホテルの部屋までとっていたのに思い通りにならなかったから、彼の素が出たのかもしれない。


「……ああ、ごめんごめん。そんなつもりはないって。勘弁してよ、明里ちゃん。俺にも許嫁がいるんだからさ。ていうか、俺ってそんな男に見える? ちょっと傷ついたな……」


 そんなつもりがあっただろうに、彼は取り繕うように笑顔を浮かべている。

 ねえ、知ってる? 女性って男の下心には敏感なんだよ。


「ま、いい。今日は自宅じゃなくて駅まで送ってくよ」

「す、すみません失礼なこと言って」


 声は柔らかくなっていて、私が好意を抱いた彼と同じになったけど、きっとこの人の奥深くには私が知らない彼が潜んでいると、そう思った。


 だから、なんだと思う。


 ふと、私に付きまとうストーカーが、彼かもしれないなんて疑いを持ったのは。

 だって、彼と仲良くなり始めてからストーカーの嫌がらせが極端に減った。

 今まで私の不安を煽るように姿を見せたりしていたのに。

 もしかして、と。疑い始めると、今までの安心感が嘘のように消えて、どんよりとした不安が心の奥から込み上げてくる。


「ん、どうした明里ちゃん? 俺に何かあるのかい?」

「え……えっと」


 ちょっと前の私なら『あんたが犯人なんでしょ?』と、そうストレートに言っていたはず。

 でも、私は何も言えなかった。それどころか彼に悪印象を与えないよう誤魔化すように笑みまで浮かべている。


 ──私はきっと、彼が怖かった。


 いつも、男性に振り回される女性のことを友達から聞いたりするたび、全く理解できないってちょっと見下してすらいたのに。

 私は嫌なことはっきり嫌って相手に言うし、媚び諂うような真似なんて死んでもごめんだと思っていた。今まで出会った男たちにも、私は怖気ついたことなんてなかった。


 自分の容姿がいいのは自覚している。告白されたことも数えきれない。中高ではサッカー部でエースの先輩、モデルをやっていて顔のいい同級生、どいつもこいつも、自信満々で女の扱いが俺は上手いんだって顔に書いてあるような連中だった。だからちょっと話がつまんないとか、かっこよくない行動にダメ出しすると、逃げるように私から去っていった。


 評判通りに見てくれはいいけど、全然中身がすっからかん。


 それが人気者という男性に抱く私の印象だ。

 でも、隼人さんは今まで出会った男とは全然違う。

 権力のある男の人だった。会話が尽きなくて頭のいい男の人だった。

 サークルの友達は学部が違うから彼のことを知らない人も多いけど、同じ心理学科の友達は彼といる私のことを凄いと評価するようになっていって、次第に彼との関係がなくなることに恐怖感を抱いている私がいた。だって、彼はもう、友達の中で私より人気者だったから。


 彼と離れたら、同じ学部の友達とも疎遠になりそう……なんて思っていたのよ。


 もし糾弾したのに、犯人が彼じゃなかったら?

 きっと私は友達と疎遠になって一人でストーカーに悩むことになる──それが怖くてたまらない。それに、彼を犯人じゃないと言い聞かせる理由はいっぱいある。

 この人はずっと私に寄り添ってくれていた。

 あの講義を見つけたのは偶然だから自作自演なら辻褄が合わないって、そんな訳ない考えすぎだって思っていた。

 でも会話の中で、一緒に過ごす日々の中で、彼が私をうまく自分の思う通りに誘導しようとしているんじゃないかって、思い返せば疑うことはたくさんあった。


 花凪のことも言っていたんだよ?


「きっと彼は周りに認められたいのさ。明里ちゃん、そんな人間に優しくしてはダメだ。ともすれば君に依存するようになるからね」


 てっきり私を心配してくれたのだと思っていたけど──花凪のことを話す時、隼人さんから毎回、なんだか怒っているような雰囲気を私は感じていた。

 自分以外の男が、少しでも私に近づくのを許さないとでもいうように。

 それが確信に変わったのは、花凪が夜の大学で一人踊っていた日の翌日だ。


「あいつ、すげえ変人だな。きっと社会人になっても仕事が碌にできず、一生底辺で生きていくんだろう。今まで何人も見てきたから俺にはわかるよ」


 出会った時は花凪と仲良さそうだったのに、隼人さんは花凪のことをとても悪く言っていた。


「そ、そこまで言わなくても……」

「は? え、もしかして明里ちゃんの好みってああいうのなの?」

「そんな訳ないじゃないですか!」

「いやあ、びっくり。明里ちゃん、君の優しさは魅力的な部分だけど、ああいう手合いには関わらない方がいい。前も言ったじゃん、同じこと。それでもあんな人間と関わるなら、明里ちゃんもそういう気質があるって兆候さ。心理学的にね」

「だから違──」

「大丈夫、兆候があるだけで今からいくらでも予防はできる。俺に任せなよ」


 花凪と付き合いのある私まで変人だとでも言うように、彼は花凪のことを貶していた。

 彼から私を引き離したくてしょうがないとでも、いうように。

 いつしか彼がとても支配的に見えて、彼への印象がガラッと変わることが増えていった。

 それにストーカーがまた姿を見せるようになったのも、思い返せばこの日からだったと思う。

 私だってなんとか自分で捕まえようと城丸さんに協力してもらったけど、なんの効果もなくて。やっぱりあの人が怪しいんじゃないかって、疑惑がどんどん強まっていく。

 でも、やっぱり私はあの人に何も言えなかった。

 怪しいと思っているのに、あの人に嫌われることを怖がっている自分が嫌になる。

 普段の強い自分なんてものはまやかしで、結局本当に強い人には簡単に怯えて逃げてしまう自分が嫌になる。


 ──ねえ、花凪。


 サークルに来た隼人さんが、アンタを犯人だって糾弾した時、私は安心したんだよ?

『やっぱり隼人さんは犯人じゃなかったんだ。だったら私は怯えて逃げてたんだじゃない、彼を犯人じゃないと本能的に気づいていた自分が居ただけなんだ』って。

 そんな自分を肯定するように最低ってアンタに言ってさ。

 でも一番最低なのって、私だよね?

 ……花凪が私のために本気で動いてくれていたのは知っていたのに。

 アンタは真剣に私を心配してくれていて、あわよくば私となんていう下心は微塵も抱いてないってわかっていたのに。


 ──ねえ、花凪。私ってこんなに醜いんだよ?


 自分を誤魔化して、自己嫌悪になって、アンタに濡れ衣を着せて……逃げて。

 自分でも感情をどうしたらいいかわかんなくて、でも誰にも助けを求められなくて。


 それなのに──。


 今後について話があると、隼人さんに呼び出されて向かった大学には私が拒絶した花凪が、あの人と対峙していた。

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