わたしのサイクル・ライフ! クロスバイク買ったら恋が動き始めた!

八幡ヒビキ

第1話 クロスバイク買った!

クロスバイク買った!-1

 自分には敷居が高いと思っていたスポーツ自転車のお店に飛び込み、私、幡谷はたがや聖羅せいらは以前から欲しかったクロスバイクをついに購入した。サドルの高さを店主さんに調整してもらい、またがっても足が地面につかないことにまずは驚いた。

「地面につく足を高さに合わせると必要以上に足を上げるので疲れるんですよ」

 店主さんが言った。私はそういうものかとちょっと首を傾げる。

「慣れて遠出したくなったらまた調整しますよ。無料ですから来てください」

 店主さんはそう言って私を送り出した。

 さっそくクロスバイクに乗るために買ったものを身につける。着用を義務化されたヘルメット。それに指切りグローブとパンツの裾止め。それだけでも結構な金額になった。

 私はクロスバイクのトップチューブにまたがり、右ペダルを2時方向に上げて、踏みんで、その勢いでサドルにお尻を乗せる。教わったとおりにできた。

 クロスバイクはすっと前に進む。

 普通の自転車と違ってタイヤが細いからだろう。初夏の風と陽が気持ちいい。

 私はそのまま、すっかり葉桜になった桜並木の中をクロスバイクで走り続ける。

 社会人6年目、転勤で来たこの街はどこに行くにも車が必要になると東京では言われていた。いざ転勤で住むようになると確かに公共機関ではどうにもならなさそうだった。1時間に2本、ヘタすると1本しかないバス。在勤庁から電車の駅も遠い。車の免許のない私は免許を取るか悩んだ末、クロスバイクを買うことにした。

 私が借りた平屋はクロスバイクがあれば、狭いながらもなにかと揃っている駅周辺やショッピングモールに行くのも苦にならない距離にある。また転勤になったときに車が不要になるかもしれないことを考えるとクロスバイクでの通勤は名案に思えた。

 この街、木更津は東京湾に面した港町だ。工業地帯の中にあるが、海に面した海浜公園が数多く設置されている。あることだけは知っていたが、これでようやく行ける。

 私は借家に戻らず、足を伸ばして海浜公園に向かうことにする。

 ハンドルバーにとりつけたサイクルコンピューターが表示する時速は、軽く20キロを超えている。びっくりだ。25キロ近くになることもある。軽くて、速い。どうして今までこんな素敵な乗り物に乗らなかったのかと少し悔やむくらい。

 倉庫地帯を抜けると海が見える。東京湾なので青くはないが気持ちがいい。赤い橋架とコンクリートの橋桁が東京湾に突き出しているのが見える。

 下の公園には犬を連れた散歩の人たちがちらほら見える。

 いい休日だ。

 私は自動販売機のボタンを押し、冷たいカフェラテを買い、ベンチで一息つく。

「風、気持ちいい」

 それは東京にいた頃には感じなかったものだ。直線距離で50キロしか離れていないのにずいぶんと違う。

 冷たいカフェラテはいつもと同じ銘柄を選んだのに美味しく感じる。これは身体を動かしたからだろう。

 東京での休日はだいたい撮りためたドラマなんかを見て時間を過ごした。それはそれでストレス解消になったが、こうして身体を動かすのも悪くない。

 うーんと伸びをしてベンチから立ち、空き缶をリサイクルボックスに捨ててクロスバイクに戻るといきなりなんか違和感がある。気をつけて点検すると後輪がパンクしていることに気付いた。

「うわ。新品なのに。不良品だ!」

 私は1人で叫ぶ。不良品と言ったものの、すぐにタイヤに折れた安全ピンが刺さっていることに気付く。

「ホントわたしは運が悪いな……」

 私は安全ピンを抜いて嘆いた。

 こういうときどうすればいいんだろう。自転車保険にロードサービスが入っているものがあったはずだが、私は未加入だ。しくじった。こんな田舎では最寄りの自転車屋さんまでどのくらい歩くことか。スマホで調べると近くの自転車屋さんはなんかみんな閉店していそう。買った自転車屋さんまでは2キロくらいある。うーん。困った。

 仕方なくクロスバイクを押して公園に面した道路を歩いていると後ろから声をかけられた。

「パンクですか?」

 振り返るとロードバイクに乗った若い男性が声をかけてくれたのだと分かった。スポーツ用のアイウェアにサイクルジャージで身を固めた本格的な人だ。

「……はい」

「直しますよ」

「えっ!?」

 どういうことだろう。わたしは言葉を失った。

「いいんですか。というかできるんですね!?」

「自転車乗りの基本技能ですよ。見たところ新品みたいだし。初心者には優しく」

 男の人はロードバイクを街路樹に立てかけるとサドル下の小さなバッグからいろいろ取り出した。

 わたしはクロスバイクから降りてスタンドでそれを立て、男の人はヘルメットとアイグラスをとって、作業に入る。一目で若いとは思ったが、わたしより若そうで、引き締まったなかなかのいい男だ。

 彼はクロスバイクを逆さまにして、サドルとハンドルバーで立てて、後輪を抜き、タイヤを外してチューブを抜き、新しいチューブに取り替える。そして空気入れで空気を入れるともう大丈夫。タイヤは無事に膨らんだ。15分くらいの作業だった。ずいぶん慣れているようで、手早く見えた。後輪をクロスバイクに戻して、正位置で立てると完成。

「すごーい! ありがとうございます!」

「遠出するなら予備のチューブと空気入れ、タイヤレバーも用意した方がいいですよ」

「その辺は勉強します。お見込みの通り今日、このクロスバイクを買ったんですよ」

「それは運が悪かったですね」

「運が悪いのはデフォルトでして」

 青年は笑った。

「ではお気を付けてお姉さん」

 そして彼はヘルメットをかぶり、アイウエアをつけて立ち去ろうとしたので、わたしは声をかけて引き留める。

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