出張クライシス

水城透時

出張クライシス

 今朝の空気は少し冷たかった。春らしくない空だ。

 ロッカーには春物のコートがぎっしり詰まっていた。

 金曜の朝は、東京からの出張者が多い。

 

 大阪支社には東京からの出張者がよく来る。週の前半の出張は体力的につらいので、移動はたいてい木曜か水曜の夜。だから金曜の朝はいつも少し混み合う。


 コートを腕にかけたまま、自席へ。今日も机が埋まりそうだ。総務部の俺は、こういう日は忙しい。ノートパソコンを持ってきたけど電源コードを忘れてきた、というような間抜けの面倒を見なければならないからだ。


 パソコンを開くと、メールが山になっていた。うんざりする数だ。


 今週は特にひどかった。会議、調整、トラブル。捌いても捌いても減らなかった。


 舌打ちしながら、ざっと目を通す。緊急のものから順にタスクリストへ。朝からため息が出る。後輩が鬱で休職してから、ずっとこんな調子だ。


 学歴は立派なのに、頭の回転はさほど良くないし、気も利かないやつだった。正直、使いづらかった。つらく当たったりもした。休職した時には逆にせいせいすると思った。でも、いないよりマシだったと、今は思う。


 そのとき、ざわつく声が耳に入った。顔を上げる。見慣れないスーツが何人も、フロアに入ってくる。出張者だ。


「どこ座ったらいいかな……」 「出張者用のデスクは? あっちか?」


 立ち尽くすやつ、荷物を床に置くやつ。狭いオフィスに次々と人が流れ込んでくる。また数人、エレベーターから降りてきた。ひとり、またひとり。気づけば、ざわつきが濃くなっている。


 ……ちょっと多すぎるな。金曜とはいえ、これはおかしい。


 これは、まずいことになったかもしれない。出張者の調整は、俺の仕事だ。ざわつくフロアの中で、上司に呼ばれた。


「今日、出張者何人いるんだ?」


 即答できなかった。


 本当は、これも休職した後輩の仕事だった。俺にお鉢が回ってきたのは、自然な流れだった。仕方ないからやるしかない。どうせやるなら、ちゃんとやろうと思った。


 まず、あいつの仕事のやり方を見直した。電話とメールで一件ずつ調整? 非効率にもほどがある。


 俺は課長に掛け合い、システム部門に相談して、出張申請の仕組みを作ってもらった。出張予定者がポータルから申請すれば、総務部が調整したり承認したりする。それで完了だ。上司に報連相し、他部署を巻き込み解決する。これが、社会人力ってやつだ。無能な後輩を心の中で笑った。俺は密かな優越感に浸っていた。


 システム部門には、急ぎで作るので突貫工事になる、大したものは作れないと言われた。例えば、システムの承認者は俺一人だった。本当は課長の承認も通すようにしたかったが、断わられた。申請が入った時も、通知メールは飛ばせない仕様だと言われた。毎日ポータルサイトを見に行ってくださいと言われた。


 メールくらい飛ばしてくれよと思ったが、無理にねじ込んでもらった立場だ。強くは言えない。そのくらいは、まあ、許容するべきだろう。


 「見に行くのを忘れないように」と、念を押された。

 「承認が滞ると、業務に支障が出ますから」とも。


 そりゃそうだと思った。だから、こう提案した。


 ——じゃあ、前日の定時を過ぎたら、自動で承認されるようにしてくださいよ。


 「本当に大丈夫なんでしょうね」とシステム部門の奴が言った。「メールを飛ばしてもらえたら、そんなことしなくていいんですがね」と嫌味を言ったら、それで黙った。自信はあった。毎日見ればいいだけの話だ。見逃すはずがない。


 ところが、見ていなかった。


 忘れていたわけじゃない。ただ、後で見ようと思って、そのままだった。忙しすぎた。処理を後回しにしているうちに、何日も過ぎていた。


 つまり、今このオフィスにあふれている出張者たちは、俺が承認したことになっている。どのくらいの件数が、自動的に承認されたのだろうか。


 ざわつきは、だんだんと怒気を含んだものに変わってきた。課長にも声が届いたのか、こっちを振り向きながら、渋い顔で言った。


 「……調整、できてないのか?」


 俺は何も言えず、立ち上がって軽く頭を下げた。

 そのまま、数人の出張者に囲まれ、謝って回る羽目になる。


 「申し訳ありません、少々お時間を……」

 「仮の席、ご案内しますので」


 ——出張者の調整もできずに、どうする。


 そう言って、後輩を叱ったことを思い出す。


 『なんでそんなこともできないんだ』

 『段取りが悪い』

 『優先順位を考えろ』

 

 そんな言葉を並べた。でも、今の俺はどうだ?


 自分のやり方は正しいと思っていた。仕組みを作って、無駄をなくして、効率化したつもりだった。


 それなのに、結果がこれだ。


 後から後から、出張者がやってくる。エレベーターが開くたびに、見知らぬ社員が何人も降りてくる。吸い寄せられるように。気がつけば、臨時の席も埋まり、壁際にも人が立ち始めていた。


 こんなことになるのか。調整をしなければ、ここまで崩れるものなのか。


 唖然とする。だが、いくらなんでもおかしい。金曜とはいえ、これは異常だ。なぜ、こんな数の出張が、今日に集中している?


 そのとき、ふと気づいた。


 


 目の前が、すっと冷える。そうか。そういうことか。次の日曜から大阪万博が開催されるのだ。


 


 よく見ると、キャリーケースがやたらとでかい。しこたま土産を買って帰るつもりに違いない。


 面白い恋人を。たこ焼き味のプリッツを。551蓬莱 豚まんを。キャリーケースいっぱいに詰めて、東京の同僚や家族に配るのだろう。


 完全に観光だ。遊ぶ気で来ている。


 俺は、じわじわと怒りに満たされていった。


 交通費は会社持ち。出張扱いでホテルも取っているはずだ。

 そのうえ、俺の信用はガタ落ち。出張調整もできない無能と思われたまま、頭を下げ続けている。


 よくも、よくも……。


 お前らの観光のために。俺が責任を負っている。そういう構図なのか。


 ふざけるな。


 そんなとき、一人の男が立ち上がった。


 スーツ姿、見覚えのある顔だ。東京本社の企画部。何度か大阪に来ていて、話したこともある。


「すみません、これじゃ仕事にならないんで……東京に戻ります」


 低く、真面目な声だった。どうやら観光目的ではなかったらしい。まともな社員がいたことに、少しだけ救われる気がした。


 「そうですね……ご迷惑をおかけして申し訳ありません」


 そう言って頭を下げる。少しでも人が減ってくれることにホッとした。この流れでみんな帰ってくれないだろうか。


 彼は静かに荷物を持ち、出入り口のドアに手をかけた。ドアが開く。その瞬間、彼の動きが止まった。次の瞬間、息を呑むような声が漏れた。


「……なんだ、これ」


 彼はドアを押さえたまま、動けずにいる。その肩越しに見えた廊下には、スーツ姿の社員たちがぎゅうぎゅうに詰まっていた。


 「ちょ、押すなって!」  「なんでこんなに混んでんの?」  「え、まさか満席? てか、まだ前に進めないの?」


 出張者たちは押し合いへし合い、わちゃわちゃと廊下を進んできていた。うちのオフィスに向かって。


 彼はドアを半分だけ開けた状態で固まっていた。戻ることも、進むこともできない。帰るどころではなかった。ドアの外から流れ込む人波で、彼はあっさりと押し戻され、オフィス内に飲み込まれていった。


 そして、次から次へと人が入ってくる。


 もう誰が誰だかわからない。どこまでが出張者で、どこからが元々の社員なのかもあいまいになっていた。廊下とオフィスの境界は、完全に崩壊した。人の密度が上がり、じわじわと押され、引かれ、また押される。

 

 押しくらまんじゅう状態。


 まさかオフィスでこんな言葉を思い出すことになるとは。


 しかし、驚きつつも、どこかで納得していた。


 確かに、大阪万博は魅力的だ。


 華やかで、未来的で、にぎやかで。俺だって行きたい。できることなら、仕事なんか投げ出して、毎日通い詰めたい。


 無機質な東京のオフィスで日々を消耗していたら、そりゃ息苦しくもなるだろう。ちょっと休みたくもなるだろう。


 ついでに中四国にも足を伸ばすのかもしれない。瀬戸内の海を見て、温泉に入って、地酒を飲んで。なんといっても、あのあたりは温暖な気候に恵まれた風光明媚な土地だ。


 俺は以前、瀬戸内を旅行した時のことを思い出した。


 岡山では、さわらのたたきを少し炙って、薬味とポン酢で食べた。たまらなく旨かった。都市と自然が程よく混ざり合っていて、コンビニの店員がやたらと丁寧だったのが印象に残っている。駅前には新しい商業ビルが立ち並び、思っていたよりもずっと都会だったが、どこかぬくもりがあった。


 広島では、小いわしの刺身。身が透けて見えるほど新鮮だった。天ぷらにしてもまた旨い。昼食のお好み焼きを食べたカウンターで、隣にいた初老の男性に「よく来たね」と話しかけられた。観光地ではない、ごく普通の店だった。そういう場所が一番記憶に残る。


 そこからフェリーに乗って、愛媛へ渡った。じゃこ天を熱々のまま齧ると、魚の香りがじんわりと広がった。道後温泉の湯はやわらかくて、肩の力がふっと抜けた。観光というより、休みにふさわしい静けさがあった。


 最後は香川。昼時のうどん屋に並ぶ地元の人たちをぼんやり眺めながら、腰の強いうどんをすする。気取らない、それでいてちゃんと旨い。旅の締めくくりにはちょうどよかった。

 

 ——そういえば、最近京都にも行ってないな。


 あの有名な寺。あそこに、また行きたい。なんだったっけな……。


 ふと、我に返った。頬が冷たい。ガラスに押しつけられている。


 窓だった。いつの間にか、俺は窓際まで押し流されていたらしい。背中には他人の肘、肩、カバン。体を動かす余地は、ほとんどない。満員電車よりひどい。少なくとも電車には、降りるという選択肢がある。


 もはや思考停止になり、窓の外をぼんやり眺めた時、駅のほうから、こちらに向かって歩いてくる長蛇の列が見えた。

 全部、うちの社員だ。東京本社の社員たち。


 そうか。そういうことか。あまりに多くの出張者が出て、東京で仕事が回らなくなったのだ。


 で、誰かが言ったのだろう。


 「じゃあ、もう、みんなで行きますか」


 大阪支社に。大阪万博に。


 これはもう、ダメだと思った。俺はスマホを取り出し、警察に電話をかけた。こういうのも総務部の仕事だ。俺はいつだって模範的な総務部員なのだ。


「はい、大阪府警です」


「すみません……ちょっと、会社のオフィスに人が押し寄せすぎて……」


「押し寄せすぎて、とは?」


「出張者が……多すぎて……建物に入りきらないというか……とにかくすごい数です……」


「それは、イベントか何かでしょうか?」


「いえ、社内の人間です。うちの社員が、みんな……たぶん東京から……」


「お勤め先の社員の方々が、会社にたくさん出社されている。それがご通報の理由ということでしょうか?」


「……はい」


「事件や事故以外での通報はイタズラ電話と判断される可能性がございますので、これ以上の通話はご遠慮ください」


 ツー……という音が、冷たく耳に残った。


 やっぱり、誰が聞いても正気の沙汰じゃない。


 そうしている間にも、人は増え続けた。もはや立つことすら難しい。圧力で体が浮きそうになる。肋骨が、ぎちぎちときしむ音がした。息が、苦しい。

 

 そのとき、急に圧が抜けた。


 ——助かったか?


 そう思った次の瞬間、ガタン、という音がして、目の前の世界が傾いた。


 窓枠が外れていた。


 俺は、オフィスビルの上層階から、外へと投げ出された。


 その瞬間に、思い出した。そうだ、俺の行きたかった寺は、清水寺だ。


 どうせ落っこちて死ぬなら、清水の舞台から飛び降りて死にたかった。


 大阪万博に行きたかった。


 もう一度、瀬戸内を旅したかった。


 もっと後輩のことを、気にかけてやればよかった。


 でも、もう遅かった。


 俺は地面に激突し――。


(終)

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