8 近づく距離1 

 その日の夜、イリは屋上に出た。

 真ん中辺りまで歩いて、膝を抱えて座った。冷たい夜風が吹き、思わず身を縮める。指先は冷たいのに、顔だけがやけに熱い。


 頭の中には、今日の尊人の言葉が溜まってぐるぐる回っていた。

 彼の言う通りだと思う。やっぱり自分は現実の見えていない、能天気な奴なのかもしれない。ここにいる人たちはみんな親切だ。でも周りの人も、心の中では自分を能天気な奴だと思っているのだろうか。手伝いなんて邪魔だと思われているのだろうか。面倒な仕事が増えたと思われているのだろうか。

 来た日の夜と同じように心が沈んでいく。膝の中に顔を埋めていると、


「風邪ひくぞ」

 顔を上げたと同時に肩に掛けられたそれは毛布だった。振り向くと右腕を吊っている尊人がいた。

「もう出歩いていいんですか」

「腕以外は平気だ」

 彼はドカッと横に座った。


「今日俺が言ったこと、根に持ってんのか」

 口調は相変わらずだが、表情は心なしか柔らかい。

「いいえ。黒鉄さんの言っていたことは正しいですから」

「で、平和ボケしてる自分に自己嫌悪していると」

「そうです」

「めんどくせぇな」

「……そうです。それと、すみません。怪我をして大変なのに、苛立たせること言ってしまって」

「聞いてきたのあんただろ」

 言い返せず、口を噤む。


「まー、俺も悪かったよ。言い過ぎた」

 まさか謝ってくるとは思わなくて、思わず彼の顔をじっと見てしまった。

「なんだよ。謝るのがおかしいか?」

「いや、別に……」

 イリは毛布を掻き合わせた。おそるおそる見ると、尊人はそっぽを向いている。

 互いに何を言おうか言葉を探っているような気まずい時間が流れたが、先に破ったのは尊人だ。


「俺は、俺の考えを変えないというか変えられない。あんたもそうだろ?」

「いや、私は……」

 「全然変えられます」そう言おうとしたが、

「無理すんなって。人間一瞬で価値観なんて変えられやしねぇんだ。だから、今のままでいいんだよ」

「でも私のことムカつくって言いましたよね」

「その上でだよ」

 意地悪なんだか優しいんだが、よく分からない人だ。


「じゃあ私も、黒鉄さんがムカつく上で、前向きにいかせていただきます」

「おうそうしてくれ」

 イリは思わず吹き出す。もっと皮肉っぽく返されるのかと思っていた。

「なんだよ」

「なんでもないです」

 会話に区切りがつき、イリは星空を見上げた。心に余裕ができたのか、初めて見た時より綺麗だと思った。


「お前、歌上手いって聞いたが」

「いや、そんなに」

「聞かせろ。どんだけ下手か聞いてやる」

「えー……期待しないでくださいよ」

「おー」

「リクエストはありますか」

 尊人は考えるようにあっちを見たりこっちを見たりしていた。

「今の状況に合うやつで」

「難しいこと言いますね」

 頭の中で知っている曲のリストをざっと流すと、良いのを思い出した。

「じゃあ、いきます」


 靴先でカウントを取り、歌い出す。

 始めは声が掠れたが、サビにいくころには声が出るようになった。

 歌ったのは、好きなアーティストの星空をテーマにした曲だ。流石にフルは長いと思い、一番で終えた。

「ふーん。上手いじゃん」

 彼にしては素直に褒めてくれたのではないだろうか。

「ありがとうございます」

 わざとらしくゆっくりお辞儀をしてみせる。

「これ以上いたら冷える。中に入るぞ」

「はい」

 二人で立ち上がり、建物の中に入った。

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