第4話 『迷子の恋心』

 夜の静寂が街を包み込む頃、星降堂の扉がゆっくりと開いた。


 「あの……ここ、本屋さんですよね?」


 戸口に立っていたのは、傘をたたみながら戸惑ったように辺りを見回す女性だった。黒のカーディガンにロングスカート。肩についた雨粒を払う仕草がどこかぎこちない。


 「はい、いらっしゃいませ」


 私が微笑むと、彼女は少し安心したように店内へ足を踏み入れた。


 「すみません、偶然見つけて……でも、なんだか不思議な雰囲気のお店ですね」


 「夜だけ開く書店なんです。珍しいでしょう?」


 彼女は頷きながら、ゆっくりと本棚を眺め始めた。指先が背表紙をなぞるたび、静かな時間が流れる。


 「……昔、本が好きな人が身近にいたんです」


 ぽつりと呟いた言葉に、私はそっと耳を傾けた。


 「幼なじみなんですけどね。いつも本を読んでいて、私はそんな彼の隣で漫画ばっかり読んでました」


 彼女の口元が少し緩む。


 「ある日、『お前もたまには小説を読め』って言われて、一冊だけもらったんです。でも、結局ちゃんと読まずにどこかにしまい込んじゃって……それっきり」


 懐かしそうに、少し寂しそうに、彼女は目を伏せた。


 私は店の一角にある古書の棚へと足を向け、一冊の本を取り出す。


 「こんなのはいかがですか?」


 彼女が受け取ったのは、少し色褪せた文庫本。タイトルを見た瞬間、彼女の瞳が驚きに揺れた。


 「これ……」


 震える指先が、そっと表紙をなぞる。


 「幼なじみにもらった本と同じものですか?」


 私の問いかけに、彼女はゆっくりと頷いた。


 「……運命、ですかね」


 小さな声でそう言いながら、彼女は本を抱きしめるように持った。


 ◇◇◇


 翌日、彼女は再び店を訪れた。


 「夢を見ました」


 扉を開けるなり、彼女はそう言った。


 「幼なじみが出てきました。昔のままの姿で、でも、すごく優しく笑っていて……」


 昨日よりも少し赤みを帯びた頬で、彼女は続ける。


 「夢の中で彼が、『やっと読んでくれたんだな』って言ったんです」


 彼女はゆっくりと息を吐いた。


 「私、あの人のこと、ずっと心のどこかで気にしてたんですね。ちゃんと向き合えてなかったけど……でも、もう一度、会いたいなって思いました」


 窓の外では、夜の雨が静かに降り始めている。


 「連絡、してみようかな……」


 呟く彼女の声は、どこか温かかった。


 ——迷子になっていた恋心が、ゆっくりと帰る場所を見つけたように。


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