第5話:空の下の亡魂

テミスが森を後にしたその日、空が震えた。

逆さの森が地面から引き剥がされる音が響き、土が裂ける鈍い唸りが大地を揺らす。

彼女は遠くの丘に立ち、半透明の身体で風に揺れながらその光景を見ていた。

木々の根が雲を突き破り、太い幹が空に伸び、葉が土を振り払う。

地面に埋まっていたざわめきが一斉に解放され、霧が渦を巻いて森全体を包む。

根が雲に絡まる姿が薄れ、木々のシルエットがぼやけて空に溶け込む。

やがて、森は巨大な雲へと姿を変えた。

雲の輪郭にはかつての木々が影のように浮かび、根が雷のようにうねる。


暗い灰色に染まった雲は膨張し、世界を覆うほどの影を落とし低い唸りが空気を震わせる。

テミスは目を細め、母の笑顔を思い出した。

あの時間があれば——その執着を捨てた今、彼女はただ虚ろに雲を見上げる。

丘の草に足を沈め、足跡を残さず立ち尽くす。首には、もう瓶はない。

風が彼女を貫き、襤褸切ぼろきれのマントがはためくが身体は軽く、冷たい空虚だけが胸の奥に広がる。

雲を見上げると、その重たい膨らみが目に映り込む。

半透明の手を伸ばし、空を掴もうとするが指先は風に溶けるように揺れるだけだ。

森での記憶がちらつく——壺の渦、溶ける身体、瓶を叩き割った瞬間。

奪い続けた時間と溢れた時間滴トキノシズクが、彼女をこの姿姿に変えた。

テミスは、時間すら持たない亡魂ぼうこんとなった。

彼女は目を閉じ、風と霧の冷たさを感じたが、それは触れることなく通り過ぎる。

雲が低く唸り、再び時間雨トキノアメが降り始めた。

滴は透明ではなく、かすかに金色こんじきを帯びて輝いている。

テミスが盗み、捨てた時間滴トキノシズク残響ざんきょうが混じり空から落ちるたびにかすかな音を立てる。

雨が丘の草を濡らし、彼女の半透明の身体を貫いて地面に染み込む。


街では、人々が瓶を差し出し金色こんじきの滴を集めた。

ある少女が滴を口に含み、目を大きく見開いて立ち止まる。

少女の視界に映ったのは、路地裏で針を手に冷たく笑うテミスの姿——鋭い目つきと薄い笑みが少女の心に刻まれる。

また、別の男が滴を飲むと、今度は森で瓶を叩き割るテミスの姿を見た。

彼は膝をつき、震える手で瓶を握る。


時間雨トキノアメは命の糧を超え、テミスの記憶を運ぶ鏡となっていた。

彼女が奪った命、捨てた命が、金色こんじきの滴に溶け込んで世界に降り注ぐ。


テミスは雲を見上げる。

風が強まり、身体がさらに薄れていく。

時間を持たない亡魂ぼうこんとなった彼女は、消えることも生きることもできず、ただ彷徨さまようしかない。

だが、その目には奇妙な穏やかさが宿っていた。

生きる為に握った針、奪った時間━━━

全てを捨てた今、彼女は自由かもしれない。

雲の下で誰かが滴を飲み、彼女の人生の断片を知る。

路地の冷たい笑み、生への執着、瓶を割った決断。

それらが金色こんじきの雨に刻まれ、彼女は確かにそこに『』ことを感じる。

母の笑顔が脳裏に浮かんだが、涙が流れなかった。

こんな事は、初めてだった。

それもそのはず彼女の涙はもう━━━。


彼女の悲しみは空虚に溶け、雲は重たく膨らみ果てしない空を漂う。

金色こんじき時間雨トキノアメは止むことなく降り続き、地平線の彼方まで光を散らす。

街の屋根に落ちる滴がかすかな音を立て、川に流れ込む雨が水面みなもに波紋を広げる。


テミスはゆっくりと歩き出す。

足音はなく、影もない。

草が彼女を貫き、風が彼女を運ぶ。

雲の下を永遠とわ彷徨さまよ亡魂ぼうこんとして、彼女は世界を見つめる。


遠くで鴉が鳴き、雨が大地を濡らす音が響く。彼女の記憶は滴に溶け、誰かの瓶に落ち、誰かの喉を潤す。


雲が空を覆う限り、テミスの物語は終わることなく静かに流れ続ける。


          時間泥棒と逆さの森 完

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時間泥棒と逆さの森 JASピヲン @piwon

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