第4話:時間泥棒の末路

テミスは這うように地面を掻き、壺の渦が放つ不気味な光に照らされていた。

逆さの森の中心は重い静寂に支配され、木々の根が雲を掻きむしり震えが空気を震わせる。

彼女の身体は半分以上が液化し、腰から下が透明な滴となって土に染み込む。

瓶の中では時間滴トキノシズクが90滴を超え、液体が溢れて地面に黒い染みを広げている。

彼女の手が震え、指先が溶けて壺の縁に触れそうになる。

渦の中から漏れる悲鳴と笑い声が耳に絡みつき、甘く腐った匂いが鼻腔を満たす。

視界が揺らぎ、壺の黒い金属が脈動するように膨張と収縮を繰り返す。

母の顔が渦の中に浮かんでいる気がして、テミスは目を凝らした。

あの笑顔をもう一度見たい——その思いが胸を焦がすが、身体が溶ける痛みが彼女を現実に引き戻す。

テミスは逃げようと手を伸ばした。

その時、懐から落ちた時間泥棒の針が地面に刺さり、銀色の針先が土に埋まる。

瞬間、彼女がこれまで盗んだ時間滴トキノシズクが共鳴を始めた。

壺が低く唸り、渦が彼女を強く引き寄せる。

針から細い光の筋が伸び、彼女の瓶と壺を結ぶように輝く。

胸に冷たい衝撃が走り、盗んだ記憶が断片となって脳裏に蘇る——路地裏で眠る商人の寝息、酒場の喧騒、子供が瓶を握り潰す手。

そして、時間を盗むと決意して初めて針を握った夜、10歳のテミスは、消えた母の隣で泣きながら隣家の人の瓶に針を刺した。

あの日から、彼女は時間泥棒になった。

奪った命の重さが、針を通じて森に流れ込む。木々が一斉に震え、根が雲を突き破る音が雷のように轟いた。

彼女の身体がさらに溶け、足首が消え、膝が地面に溶け落ちる。

壺の渦が腕を引き寄せ、半透明の指先が液体に触れた瞬間、激しい痛みが全身を貫いた。


「やめろ!」


叫びが森に響き、木々の間を反響する。

だが、声は壺に吸い込まれ、渦の中で嘲笑うように歪む。

腰が完全に溶け、身体が地面に沈み込む。

時間滴トキノシズクは100滴を超え、瓶が熱を持ちガラスにこまかなひびが入る。


母の声が耳に響く━━━━


「大丈夫よ。」


━━━嘘だった、母は消えた。

そして今、テミスも消える。

絶望が彼女を飲み込み、視界が暗くなる。

壺の縁から滴る液体が顔に落ち、冷たく焼ける感覚が広がる。

その時、テミスの目が瓶に留まった。

首から下がるガラスの中で、時間滴トキノシズクが渦を巻き彼女の命をあざけるように輝いている。

母を救えなかったあの日、瓶が空だった。

あの無力感が彼女を時間泥棒に変えた。

だが、この滴は母を救わない。

彼女を溶かすだけだ、胸に最後の反抗がともる。


「お前なんかに……私を渡さない!」


震える手で瓶を握り、地面に叩きつけた。

ガラスの破片が飛び散り、時間滴トキノシズクが土に染み込む。

100滴を超える液体が一瞬で蒸発し、白い霧となって森に広がった。

壺の吸引力が消え、渦が急に静まり木々の震えが止まる。

テミスの身体は森の外に投げ出され、冷たい草の上に転がった。

彼女は仰向けに倒れ、息を荒げて空を見上げた。

雲が重たく垂れ下がり、霧が周りを漂う。

だが、時間滴トキノシズクを失ったテミスは『』となった。

身体は半透明のまま、風に揺れる幽霊のような姿に変わる。

首に手をやると、瓶の破片が指に刺さりかすかな痛みが残る。

だけど血は流れず傷さえ透明に滲むだけだ。

彼女は立ち上がり、足元を見た。

草が足跡を残さず、風が彼女を貫いて吹き抜ける。

胸の奥に広がる空虚が、彼女の唯一の重さだった。

ただだだ生きる為に時間滴トキノシズクを奪い続けた。

だが今、時間滴すべてを捨ててしまった……。


森の奥からかすかな唸りが聞こえ、空が不穏に揺れ始めた。

テミスは振り返り、逆さの木々が霧に浮かぶ姿を見つめた。

目には恐怖と疲弊が混じりながらも、奇妙な静けさが宿る。

瓶を捨てた瞬間、彼女は母への執着を捨てたのかもしれない。

だが、その代償はあまりにも大きかった。

足が動き、森から遠ざかる。

だが、彼女に足音はなく、影もない。

空虚を抱えた亡魂ぼうこんとして彷徨さまよい始めた。

雲の下で、森の唸りが遠くに響き続ける━━━

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