第3話:液化する身体

逆さの森の奥へ進むほど、テミスの足音は湿った土に吸い込まれ、かすかな水音だけが木々の間を漂う。

空から地面へと伸びる木々は不自然に静かで、根が雲に絡まる姿が濃い霧に浮かんでいる。

太い幹はねじれ、まるで苦悶に耐える生き物のようにうねり、葉は土に深く埋まってかすかなざわめきを立てる━━━━地下で何かがうごめき、息づいているかのようだ。風さえも森を避けるように止まり、空気が重く肺に絡みつき甘く腐った匂いが喉を焼く。

テミスは首の瓶を握り、時間滴トキノシズクが60滴を超えたのを見た。

液体が瓶の中で渦を巻き、栓を押し上げて指先に滴り落ちる。

彼女はその冷たさに息を呑み、手を拭う。

だが、指先が柔らかくにじみ半透明に変わっていく。

皮膚が溶けるように揺らぎ、滴となって土に落ちる。

彼女の目が恐怖に揺れ、心臓が喉元で脈打つ。母を生き返らせる時間がここにあるはず——

その希望が胸を焦がすが冷や汗が背を伝い、マントに染み込んだ。


森の深部は迷路のように入り組み、木々が彼女を閉じ込めるように動く。

背後を振り返ると、来た道が消え根が空に伸びるシルエットが視界を塞ぐ。

霧が濃くなり、木々の間から漏れる薄い光が彼女の影をいびつに伸ばす。

テミスは息を荒げ、木の幹に手を突いて立ち止まった。

冷たく湿った樹皮が指に食い込み、苔のぬめりが掌に残る。

瓶を握る手が震え、時間滴トキノシズクがさらに増える……70滴……80滴。

彼女の腕が薄く透け、青い血管がぼやけて見えなくなる。

足が地面に染み込むように重くなり、歩くたびに水たまりを踏むような音が響く。

彼女は膝をつき、自分の手を凝視した。

指が液体のように揺らぎ、爪が溶けて透明な滴となって土に吸い込まれる。

母の笑顔が脳裏に浮かぶ——「大丈夫よ」と呟いたあの朝……。

時間があれば、母は消えなかった。


恐怖が胸を締め付け、叫び声が喉に詰まったまま震えた。


「何だ、これは!?」


声は森に吸い込まれ、虚しく反響する。

時間滴トキノシズクが増えるたび、身体が溶けていく。

膝までが透明になり足首が地面に染み込んで消えた。

テミスはうように進み、土に爪を立てていずる。

指先がさらに溶け、地面に黒い染みを残す。

息が乱れ視界が揺れる中、森の中心にたどり着いた。

そこには巨大な壺が浮かんでいた。

黒い金属でできた壺は、表面に無数の細かな刻み目が走り、古代の呪文のように見える。

縁からは液体がしたたり、地面に落ちて土を黒く染める。

壺の中では液体の渦がうねり、人の顔が浮かんでは消える。

悲鳴や笑い声、すすり泣きがかすかに漏れ出し、甘く腐った匂いが一層濃くなる。

渦の中には、目を見開いたまま沈む顔、助けを求めるように手を伸ばす影——無数の魂が溶け合った残響がうごめいていた。

母の顔がそこにあるかもしれない——テミスは一瞬、そう思った。

彼女は蹌踉よろめきながら、そこに近づくと何かを踏んづけた。


「これは……日記?」


テミスは、足元に落ちていた革の表紙の日記を拾う。

黄ばんだページは湿気で膨らみ、インクが滲んで文字がにじんでいる。

震える手で開き、かすれた言葉を読み上げた。


「我々は時間を支配しようとした。無限の滴を求めた。だが、消えた者を呼び戻すことはできず、時間は我々を飲み込んだ。この森は我々の墓だ。」


テミスは日記を落とし、壺を見上げ理解が胸を刺した。

母を生き返らせる時間はない。

逆さの森は救いの場所ではなく、ただの墓だった。

誰かが作り上げた『時間製造装置』が暴走し、時間滴トキノシズクを増やす代わりに人を時間そのものに変える。

壺の中で渦巻く液体は、森に吸い込まれた者たちの残骸ざんがい——命と記憶が溶け合ったもの……これは、時間雨トキノアメの源だったんだ。


母は戻らない……希望が砕け、彼女の胸に冷たい絶望が広がる。

壺の縁から漏れる光が、彼女の半透明の顔を照らす。

木々の根が雲をるように震え、森全体が低くうなる。

テミスは壺に手を伸ばし、すがるようにつぶやいた。


「やめて……母を、私を返して……」


声は森に吸い込まれ、渦が嘲笑あざわらうようにうねる。

腕がさらに溶け、手首が消え、時間滴トキノシズクは90滴を超えた。

瓶が熱を持つように震え、液体が溢れて土に染み込む。

身体は液化を加速し、腰までが透明に変わる。涙が液体となって滴り落ち、地面に黒い染みを広げる。

母の笑顔が遠ざかり、恐怖と絶望が彼女を飲み込む。

視界が暗くなり、壺の渦が脈動する音だけが耳に残る。

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