第2話:逆さの森の噂

夜が街を包み込む頃、薄暗い霧が石畳の隙間から這い上がり、すすけた建物の輪郭をぼやけさせた。

テミスは酒場の隅に身を沈め、軋む木の椅子に腰を預ける。

首から下がる瓶には、昼間に盗んだ時間滴トキノシズクが10滴だけ。

彼女はそれを指で弾き、ガラスの中で揺れる液体を見つめた。

滴が瓶の内側を滑る微かな音が、酒場の喧騒けんそうを掻き消すように耳に響く。

油灯ゆとうすすけた光を投げかけ、彼女の顔に深い影を刻む。

酒の匂いと汗臭さが混じった空気が鼻をつき、テミスは眉を寄せて目を閉じた。

脳裏に母の姿がちらつく——瓶を握り、弱々しい笑顔で「大丈夫よ」と呟いたあの朝。

時間雨トキノアメが降らず母は消えた。


だから、10滴では足りない。

彼女は杯に残った薄い酒を一気に飲み干し、喉の焼ける感覚で記憶を押し流した。

酒場の中央では、男たちが丸テーブルを囲み、酒杯を手に語り合っている。

声がかすれた一人が、テーブルに肘をついて身を乗り出した。


「逆さの森が現れたんだってさ。街の外れ、枯れ野の向こうに、木が空から地面に生えてるらしい。根が雲に刺さり、葉が土に埋まってるってよ。」


別の男が酒を零しながら笑い声を上げながら続ける。


「そこに行けば時間が無限に手に入るって話だ。それはもう瓶が溢れるほどにな!

それに、消えちまった奴も元に戻るってんだから、もう時間雨トキノアメなんかいらねぇってよ。」


声に混じる興奮と酩酊めいていが、酒場の空気を不穏に揺らし、油灯ゆとうの炎が一瞬揺らいだ。

テミスは鼻で笑い、杯をテーブルに叩きつけた。

時間が増えるなんてありえない。

母を救えなかったあの雨を、彼女は信じない。奪うしかない世界で、増えるなんて夢物語だ。

だが、男たちの目を見ると笑いものでは済まなかった。

光に照らされた瞳には、時間に追われた者特有の飢えとかすかな希望が渦巻いている。テミスは立ち上がり、酒場の扉を蹴り開けて外へ出た。

霧が足元をい、マントのすそを濡らす。

遠くで犬の遠吠えが響き、空には雲が重たく垂れ下がる。

翌朝、霧が晴れる頃、数人の人影が街の外へ向かうのが見えた。

襤褸布ぼろぬのまとった男が瓶を握り、杖をつく老婆が足を引きずり、若者が目を血走らせて歩く。

彼らの背中には、母を失ったあの日と同じ焦燥しょうそうが漂っていた。

テミスは瓶を握り、指先に残る10滴の冷たさを感じた。

夜が終わるまで持つかどうか怪しい量だ。

母の声が耳に蘇る「大丈夫よ」の声━━━

その言葉は嘘だった。

彼女の胸に、飢えと好奇心が冷たい刃のように突き刺さる。

逆さの森の噂……ありえない話だ。

でも、もしそれが本当なら━━━母を救う時間が手に入るなら。


彼女は枯れ野の向こうへ足を向けた。

風が枯れ草を揺らし、草の間から湿った土の匂いが立ち上る。

遠くで鴉が不吉に鳴き、霧が彼女の視界を狭める。

森に近づくと空気が急に重くなった。

息を呑み、見上げた先に逆さの木々が広がっている。

根が雲に絡まり、太い幹が空から地面へと伸び、葉が土に深く埋まっている。

木々の間を縫うように霧が漂い、かすかな水音がどこからか響いてくる。

不気味な静寂が彼女を包み、背筋に冷たいものが走った。

母の笑顔が脳裏に浮かび、胸が締め付けられる。

あの時、時間があれば——。

テミスは一歩踏み出し、足元の土が柔らかく沈むのを感じた。

首の瓶が微かに震え、彼女は目をらす。

すると、時間滴トキノシズクが勝手に増え始めた。

10滴が20滴……20滴が30滴に。

瓶の中で液体が渦を巻き、栓を押し上げて溢れそうになる。

彼女の息が荒くなり、心臓が早鐘はやがねを打つ。

指先で瓶を握り潰すほどの力が入り、興奮が全身を駆け巡った。

母を救う時間がここにあるなら——その思いが胸を焦がす。

だが同時に、指先が奇妙に柔らかくなり、透明ににじみ始めた。

彼女は自分の手を凝視し、冷や汗が背を伝うのを感じた。

霧が濃くなり、木々の間から漏れる薄い光が彼女の影を長く伸ばす。

森の奥から、何かが彼女を呼んでいるような気がした。

テミスは唇を噛み、母の笑顔を胸に刻みながら一歩、また一歩と深部しんぶへと踏み入った。

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