時間泥棒と逆さの森

JASピヲン

第1話:時間雨の朝

テミスは針を男の瓶に刺した瞬間、彼の目が開いた。


「泥棒!」


酒臭い叫び声が路地に響き、霧が渦を巻く中、彼女は影へと飛び込んだ。

石畳が足裏に冷たく食い込み、濡れたマントがももに絡まる。

背後で男が立ち上がり、瓶を握り潰す音が追いかけてくる。


この世界では、時間は液体だ。

空から滴となって降り注ぎ、人々はそれを小さなガラス瓶に詰めて首から下げて生きる。

1日は24滴で構成され、その透明な液体が尽きれば人は音もなく消滅する。

朝が訪れるたび、街は時間雨トキノアメを待ち、逆さ傘を手に灰色の雲を見上げる。

だけど、雨は気まぐれで無情だ。

運が良ければ30滴が瓶を満たし、逆に悪ければ1滴しか落ちてこない日もある。

時間は命そのもの。

そして、テミスは奪う側に立った━━━

母を失ったあの日以来、自分の身は自分で守る、もう雨には頼らないと誓った。


彼女は路地の角に身を隠し、すすけた壁に背を押し付ける。

息を殺し、男の足音が遠ざかるのを待つ。

首から下がる瓶には、昨日盗んだ時間滴トキノシズクが3滴だけ。

液体が底で揺れ、朝の薄光はくめいを冷たく反射して彼女の瞳に映り込む。

10歳の時、母が最後の滴を飲み干すのを見ていた。

あの朝、瓶が空になり母の手がテミスの頬を離れた瞬間、彼女は消えた。

時間雨トキノアメが降らず、テミスには何もできなかった。

それ以来、彼女は雨に頼るのをやめ奪うことを選んだ。


懐に隠した銀の針——その冷たい感触が、母のいない世界で彼女を支える唯一の安心だった。

霧が薄れ空が灰色に濁る頃、時間雨トキノアメが降り始めた。

テミスは古びた家の屋根に登り、冷たい瓦に腰を下ろす。

風が湿気を運び、すすけた街の匂いが鼻をつく。

彼女は小さな逆さ傘を取り出し、屋根の縁に広げた。

雲の切れ目からぽつり、ぽつりと滴が落ち、傘の内側を滑って瓶に溜まる。

微かな水音が耳に響くが、今朝の収穫はわずか5滴。

液体が瓶の中で寂しげに揺れ、彼女の顔に苛立ちが浮かぶ。


「チッ!これでは昼まで持たない。」


遠くで子供が瓶を手に走る足音が聞こえ、誰かの笑い声が風に混じる。

母の消えた朝も、瓶はこんな風に軽かった。

彼女は唇を噛み、5滴の冷たさを指先に感じた。

あの時、時間があれば━━━━━

風が強まり、襤褸切ぼろきれのようなマントをはためかせる。

テミスは屋根から飛び降り、懐から針を取り出す。

銀色の針先が朝日に鈍く光り、細い管が彼女の指に馴染む。時間泥棒の道具だ。

路地裏の奥で新たな標的を見つける━━━━

商人風の男が、壁にもたれて眠っている。

首から下がる瓶には、20滴以上の時間滴トキノシズクが満ちている。

液体が揺れ、朝の光を乱反射して金色こんじきに輝く。

テミスの目が鋭く光り、足音を殺し近づいた。男の寝息が規則正しく響き、酒の匂いがわずかに漂う。

彼女は針を手に持ち、栓の隙間にそっと差し込む。

時間滴トキノシズクが細い管を伝い、彼女の瓶に移る。

液体が流れる微かな音が耳に心地よく響き、彼女の唇に薄い笑みが浮かんだ。

母を救えなかったあの日、こんな時間があれば——その思いが胸を刺す。

男の眉がピクリと動き、テミスは息を止めた。だが、彼が目を覚ます前に彼女は針を引き抜き影の中へ消え去った。

路地の角を曲がると、風が彼女の背を押すように吹き抜ける。

瓶を握り、増えた時間滴トキノシズクの重さを感じながら、彼女は静かに吐息をついた。


「8滴……まだ足りない。」


母の笑顔が脳裏にちらつき、彼女の目は飢えた獣のように街を見据えていた。

霧が再び濃くなり、遠くで鴉が不吉に鳴く。

時間雨トキノアメの滴が屋根を叩く音が、彼女の耳に冷たく響き続ける。

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