Veni Vidi Vici

OSOBA

 〈Brutus〉


 横目で排水溝を見ながら歩いている。傍から見れば俯いて見えたかもしれない。特別悲しみに暮れる出来事があったわけではないし、悔しさに耐えかねているわけでもない、単純に視線の先にちょうど良いというだけだ。

 無色透明の水はどこまでみていても実態をつかめたような気はしない。だけれど、少しばかり視線の角度を上げてしまえば人の姿が目に入る。その度に内心舌打ちをせずにはいられないのは、僕の屈折に原因を求めるべきだろう。僕は人間という物を見て、美しいと感じたことは無い。むしろ血色が悪くなる程度には忌み嫌っている。

 僕は人間嫌いの人間らしかった。

 

 

 

 最寄り駅へ行く整備された道は、片側一車線の道で歩道側には街路樹と花壇が一定間隔で設置され、閑静な住宅地という概念と美しい調和を遂げていた。要するに、清潔感があって歩きやすい道だ。

 「おはようございます、木下さん」

 通り沿いには昔ながらの商店が数店舗立ち並んでいる。恐らく、半世紀前には十数倍の規模であったものが縮小してこうなっているのだろう。その商店の一角に生花店があった。今、こうして僕に手を振っているのもその生花店で働く若い女である。

 彼女に気付いたのは、彼女が通り沿いの街路樹や花壇に水やりを行っていたからだ。歩行者としては邪魔でしかないから睨みつけたが、彼女は今の様に手を振って笑顔で愛嬌を振りまいてくるだけだった。

 今日も今日とて、僕は彼女の愛嬌を見て見ぬふりをする。その笑顔にも、その仕草にも、拭い難い不快感を覚えてしまう。もし今、僕が彼女の代わりにそこら辺の植物に水をやれば枯れてしまうかもしれない。

 愛嬌という物が嫌いなわけではないが、愛嬌を振りまけるその精神が僕は嫌いだ。

 

 橋上駅舎を潜るようにアルミニウム合金製の古めかしい電車がプラットフォームに滑り込んでくる。人に続いてむさくるしい車内に身を投じると、生暖かい風を感じる。ドアに張られたシールを見れば『弱冷房車』と記されていた。

 列車から見える灰色の水平線の先に太陽の権威がないことに僕は感謝する。この大地は、未だ人間の生息できる温度であるのだ。通り過ぎる架線柱の三十秒あたりの数が増えていくに比例して、列車の質量が増加していく。僕ら乗客にできることと言えば、スマホを眺めるか、寝るか、ぼうっとするしかない。

 目的の駅名を看板で確認してから、急ぎ駅のプラットフォ―ムへ身を預けた。去っていく列車を一瞥もしないで、目的地へと向かう事を優先し、階段を駆け上がる。駅構内でしかしない油の匂いとは暫くの別れとなった。

 

 空気よりも人の吐いた息を吸う方が多そうな現代的な尖塔の間を擦り切れそうなほど人と人の間をすり抜けて、ようやく三十階にも及ぶ目的のオフィスビルへと到着する。

 この手のビルは目的のフロアによって入り口が違うという構造が採用されており、僕は最も落ち着いた雰囲気の南面の黒や茶の色が目立つ入り口から入った。

 二十二階まではオフィスフロアなので、僕の乗ったエレベーターが次に止まるのは二十三階である。

 

『やはり、聞こえませんか』


 小さなホワイトボードに医者が文字を書いていく。僕は頷いた。医者は頭に手を載せて、困った風に見せながらホワイトボードの文字を一文字ずつ丁寧に消していく。消し終わった後で、今度は顎に手を付けてどういう文章を書こうかと考えているらしい。

 この部屋は、病的に白い。勿論、治療を受ける部屋は質素である方が適当であるというのは解る。しかしながら白衣を着た医師、白いテーブルにPC、白いカラーボックスの中にはこれまた白色の薬が瓶のなかに入れられた状態で大量に保管されていた。

 ここまで白いと、僕の黒っぽい服装が浮き立ったような気がして、いまいち居心地がよくない。

 部屋を改めて見回していると、医師はマジックペンですらすらすらと文字を書き始めた。僕の目線は医師の手元に向けられる。

『……何度か説明しましたが』

 文字を消す、そして書く。

『木下さんの耳が聞こえてないというのは、ありえないのです』

 文字を消す、書く。

『脳波はちゃんと反応していました』

 消す、書く。

『この症状は精神的なものとしか、言いようがありません』

 消す。

「なので、もう出て言ってくれませんか。私は内科の医師です。これ以上あなたのごっこ遊びには付き合っていられないのです」

 最後に医師の口が動いた。その表情から、なんとなく言わんとすることを察するしかないが、もとより表情筋が硬い医師なために、僕は意図が読めない。

 医師は書いた。

『出ていけ』




 大学を休学して、もう一年になる。耳が聞こえなくなってからは、いいや、聞きたくなくなってからは一年と一か月と言ったところだろうか。

 最初は連絡をくれていた友達は一週間程度、一夜のあやまちまで冒した彼女とは一か月程度でその連絡が途絶えた。どうやら男ができたらしい、町で彼女と知らない男が歩いているのを見かけたことがある。僕は別れの言葉も無しに独り身になっていた。言葉の聞こえない男に、言葉は不要だと思ったのかもしない。

 またしても医者に追い出されてしまい、僕は駅の中にある書店へと足を運んでいた。よく考えればわかることだが、映像を見るにも、ゲームをするにも音が無いと塩っ気のない料理みたいになってしまう。音のない世界に生きる僕にとっての楽しみは精々、本くらいのものだ。

 だが恋愛の話は極端に嫌っている。如何に壮大なる大恋愛をしようとも、崩れる時は土砂崩れのようになることを、誰より僕が一番熟知しているからだ。

 だけれど書店の店頭に立てば、大台に乗せられるのはそのような話ばかりで愚かな僕はいちいち止まってそれを確かめてしまう。そしてその度に、言葉にできない敗北感をひっさげて文庫本のコーナーへ向かうのだ。

 適当な本を手に取ってみる、表紙の匂いを嗅いでみる。そうこうしているうちに、思う。もし、目まで見えなくなってしまったらどうだろう。何事も認識しているから、辛いのだ。

 安らかに、そして楽に死ねたのなら。


 結局、本屋では何も買う決心がつかず、僕は列車に揺られている。列車の中には、二十数人の人がいるだろう。もし、今ここで人狼ゲームの様に皆が誰かひとりを殺す権利を持ったとしたら、僕は一番初めに殺されるはずだ。

 そう思うと、誰の顔も見ることができない。見ることができないと、想像をしてしまう。この人は僕が目を背けたことを笑っているかもしれない、もしかしたら刃物で僕の心臓を突き刺すかもしれない。誰かに殺されるかもしれない、だから誰の顔も見たくない、だけれど誰かには殺してほしい。

 重い足取りで、列車を降りる。家に帰ることの意義を、この一年考え続けてきたが、いよいよわからなくなってきた。

 ……ああ、あともうすこしであの生花店だ。久しぶりに、花でも買ってみようか、母さんは赤く細い花が好きだったような気がする。

 そうすれば、きっと僕の悲願も叶うのだろう。

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