第2話

 眼下に湖が広がっている。キラキラと輝くそれは、こっちへおいで、と俺を誘っているようだ。気が付くと、俺は誘われるまま水に飛び込んでいた。素肌に当たる水の冷たさが心地よい。ふわふわとした浮力で、力を抜いても苦しくない。最高だ。俺はしばらくそのまま水中に浮かんでいた。それから、ゆっくりと目をあける。ゆっくりと腕を動かす。自由に動いた。泳げる。もともと泳ぎは得意じゃないけど、ここでは自由だ。ゆったりと下へ潜っていくと、ずらりと並んだビルが見えた。俺の足元は砂が敷き詰められた一本の大通りになっていて、ビルたちはそれに沿って並んでいる。ビルとビルの間は細い路地のようになっていて、その奥にはどこまでもどこまでも続くビルの群れ。

底にたどり着くと、柔らかい砂に足が埋もれた。このまま寝ころんでしまいたいくらい気持ちいい。見上げると、柔らかい光に照らされながらたくさんの人が泳いでいるのが見えた。みんな、大通りの突き当たりにある建物に吸い込まれるようにして入っていく。真っ白で背の低いその建物は、ビルに囲まれてなんだか異質だ。俺も、ほかの人たちについて建物の中に入ることにした。

 中ではたくさんの人が列を作っていて、俺の後ろにもどんどん人が並ぶ。ゆっくりと見回すと、殺風景な部屋だった。列の先にはカウンターがあって、五人の女の人がひとりひとりの対応をしている。何かの受付、だろうか。いろいろ想像していると、あっという間に俺の番が来た。カウンターの中の女の人が営業スマイルを浮かべる。

「こんにちは。ダイバーシティへようこそ。ここは大切な思い出を持つ人々が思い出の中を泳ぐための場所です。思い出を持つみなさまはダイバーと呼ばれ、現実のお客様が眠っている間ずっと、ここで思い出に浸ることができます」

 なるほど。現実の俺は眠っているのか。じゃあ、これは、夢、ということだ。

「こちらが鍵になります。建物を出たら、こちらに書かれた番号と合致するビルの部屋をお探しください」

 渡された鍵にはB―41―23と書かれていた。とりあえず外に出ると、建物の右手にあるビルにはA―1、左にあるビルにはB―1と書いてある。俺の鍵はBだから、左のビルを探せばいいんだろう。B―1、B―11,B―21。十刻みで並んでいるビルの五列目に、B―41はあった。全面ガラス張りのビル。自動ドアをくぐると、目の前にエレベーター、左に伸びている廊下には部屋がずらりと並んでいた。何かに似ている。なるほど、ホテルの様だ。エレベーターのボタンの上には部屋の配置図がかかっていて、それによると23は二階にあるようだ。エレベーターは、チン、という心地よい音を立てて止まった。23と書かれた部屋の扉に鍵を差し込むとしっかりとはまった。ノブを回して中に入る。

 途端、俺はふたたび湖を見下ろしていた。日差しが心地よい。なるほど。これが、俺の浸りたかった大切な思い出か。そりゃそうだ。授業中ですら意識が旅に出るくらいには囚われているんだから。湖はそれはそれはきれいで、音も風も全て記憶のままだった。目を閉じて開けてもそこにある。空想じゃない。

 しばらく思い出に浸ってから、俺は部屋を出た。何か物足りなかった。確かに俺はあそこに戻りたかった。でも、これは何か違う。あくまで思い出なんだ。これはこれでいいけれど、やはり物足りない。俺はあの瞬間そのものに、戻りたい。戻ったつもりになるんじゃなくて。

 鍵をポケットにつっこんで、俺はふらふらとビルの周りを泳ぎ回った。見上げるとまだ人はたくさんいるけれど、みんな受付のあった建物かビルに吸い込まれていく。俺みたいに泳ぎ回っている人はいないようだ。そう思ったとき、後ろから肩をつつかれて俺は飛び上がった。

「ねえねえ、高校生?」

「そうだけど」

 俺はバクバクしている心臓を落ち着かせながら目の前に現れた女子を見つめた。年は、俺と同じくらい。背は俺より低いけど、まあ女子の中だったら普通かな。にこにこと楽しそうな笑みを浮かべている。

「ねっ! 冒険しない?」

「冒険?」

「そ。冒険」

「それはいいんだけど、なんで俺?」

「ここはこーんなに不思議な場所なんだよ? 冒険しないなんてもったいないじゃん! なのにみんな思い出に夢中なんだもん」

「たしかに」

 ちょうど俺も同じことを考えていたところだ。ここにはもっと、思い出に浸る以外の楽しみ方がある気がする。

「私、希望。希望って書いて、のぞみ。そっちは?」

「俺は遊多。遊ぶに多いでゆうた」

「いいね! 人生楽しそうじゃん!」

「……」

 俺たちはふたりでビルの間を泳ぎ回った。ほかの人たちはみんな自分の思い出の待つビルを目指しているから、誰も俺たちを気に留めない。

「私はね、先週ここに来たの。思い出に浸れるのはいいんだけどさ、やっぱいろいろ気になってて」

「毎日来てるの?」

「うん。いつも、寝るときに部室の扉を開けるとここにいるんだ」

「部室?」

「そう。私ね、中学時代の部活が楽しくてたまらなかったの」


 希望は中学時代軽音部に所属していた。楽器はギター。中学二年生のときに先輩や同級生、後輩たちとふざけあった日常が楽しかった。特に何かをするでもなく、曲の練習をしながら、どうでもいいことをずっと話していた。

 そのときの思い出は、今でも希望の中にある。懐かしくて、思い出すだけで悩みも何もかもなくなるくらいに楽しくて大切な思い出だ。だから、ここに来るといつも部室に戻れる。


「ねえ、あれなんだと思う?」

 楽しそうに思い出の話をしていた希望は突然ビルとビルの間を指した。小さな倉庫がある。防災倉庫のような簡易なつくりだ。

「さあ」

「見てみよっか」

 希望の後について倉庫に近づいたところで目が覚めた。体を包んでいた心地よさは消えてしまって、ただ夢の名残が残っている。最後の倉庫の正体はなんだったのだろうか。

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