鍵穴を探して

もるげんれえて

鍵穴を探して

 その理由は、たまたまだった。

 大学の夏休みにたまたま実家に帰省して、たまたま自室の片づけを始めて、たまたま古いクッキー缶を見つけた。よく大事なものをしまっていたことを思い出し、その蓋を開けてすぐに目に飛び込んできたのが、このカギだった。

 錆びた、よくファンタジーとかで見るようなカギだ。輪と棒を組み合わせ、棒の先に鍵たらしめる装飾がある。握るとざらりと赤さびが指先についた。

 カギを見つけてたとき、一体なんで後生大事に入れていたんだろうかという疑問が浮かんだ。が、すぐに去来した懐かしさと胸を締め付ける苦しさに吹き飛んだ。

 手が大きくなってカギは小さく感じるけれど、その感触が昔と全く同じだから、記憶が内側から飛び立ってきたのだ。

「……」

 握った手に力がこもる。懐かしさは懐かしさとして、けれどはっきりと浮かんでくる記憶の苦味が口いっぱいに広がった。

 

 それは自分が小学校の頃のことだ。

 ある仲の良い少年がいた。どこにでもある、どこにでもいる、自分だけの親友だった。

 日焼けした細い手足とはっきりした面立ちだったことは覚えている。けれど声がどんな感じだったか、細かい顔つきまではもう思い出せない。苗字が佐々木ということくらいで名前は忘れてしまった。月日は使わなくなった記憶を無慈悲に奪い去っていく。

 だが、その感情は忘れていなかった。彼とは小学校に上がってからずっと一緒に遊んでいた。覚えきれない遊びをした。こうやって彼を思い出すと日差しや風の質感がまざまざと蘇ってくる。買い食いしたアイスの味や雨に濡れ帰った冷たさは、体が覚えていた。

 そんな親友だったが、ある時転校してしまうことが分かった。

 大いに悲しんだし、それは彼も同じだった。あの手この手で阻止したかったが、子供の出来ることなんてたかが知れている。

 そのうち仕方ない、という諦めを共に学んで、彼とは変わらずに遊び続けた。

 いよいよ引っ越しが間近に迫ったある日、彼はちょっと離れた公園で面白いものを見つけたと言ってきた。

 それは古びたカギで、きっと公園のどこかに秘密の扉があるに違いないと目を輝かせていた。その輝きを思い出す。

 たまたま公園で拾っただけのカギだけれど、見つけたものには大きな意味があるに違いないと彼も、そして自分も信じていた。それが子供ながらの無邪気な万能感ゆえの空想であると今ならわかるけれど、万能感の欠片は今でも胸のどこかに転がっていて、このカギを見たときにはきらりと輝いた。

 今にも飛び出していきたかった。扉のありかを探しに行きたかった。いつもならここから冒険に出かけるところだったが、彼は引っ越し前の準備でどうしても時間が取れなかった。どうしたらいいかなと悩んで、一つの約束を取り決めた。

「出発の朝、うんと早くに起きて一緒に扉を見つけよう」

 家族にも秘密にした、最後の大冒険の予告。二人して声を弾ませ、何を準備しようかとしゃべり続けた。

 悲しいカウントダウンが、冒険を待ちわびる日々に変わった。


 だが、結果はなんとも子供らしい、ありふれた悲劇で終わった。

 冒険前夜、私は考えうる十分な荷物をリュックに詰め込み、いつもより早めに布団にもぐりこんだ。

 どんな冒険をするか、道順はどうしようか、公園をどう回っていこうか。

 慣れない時間の布団の中で冒険の手順が次々に湧いては消えていく。そのうちいい加減寝なくちゃと自分自身をなだめすかし、ようやく眠りについた。

 目覚ましもセットして、早寝をした。万全のはずだった。

 次に私を起こしたのは、母親からの「お別れに行くわよ」という声だった。

 考えるよりも先に体がバネみたいに跳ね起きた。日差しがカーテンの隙間から差し込んでいた。

 失敗した。私は寝坊したのだ。タイマーが壊れていたのか、それとも自分が悪いのか。ぐるぐると原因探しに頭が重くなっていく。

 そして母の言葉がようやく反射した。

 もう、彼とは二度と会えない。遊べない。冒険に行くこともできない。

 別れと約束を守れなかった後悔に当時の自分はどうにかなってしまいそうだった。胃袋の奥がごうごうと吹き出しそうになる。目の奥から白い絵の具があふれ出てくるみたいだ。

 初めての感情に初めて頭は真っ白になっていた。なんとか体を動かし、毎日繰り返した動作で身支度を済ませ、母に連れられて佐々木に、彼の家へと向かった。

 距離として五分程度の短い道が、とても重かった。どうか、このまま永遠に道が続ていてほしかった。

 けれど残酷にも彼の家の前に着いてしまった。インターホンを鳴らすと、彼とその親が出てきた。親たちが別れ話をしている間、私たちは取り残された。

 彼の表情は思い出せない。激しく起こったとか、まったくの無表情とか、そういう極端な覚えやすい表情ではなかった。それが当時の私を混乱させ、出すべき言葉を見失わせた。

 ごめん、と消え入りそうな言葉を伝えるのが精いっぱいだった。

 彼はふん、と鼻息を鳴らし、私の手を取ると何かを握らせた。

 びっくりして手のひらを覗きこむと、そこには錆びだらけのカギが置いてあった。

 自分はもう探せない。だから、後は任せた。

 彼の言葉に、私は弱弱しく首を振ることしかできなかった。


 その後、彼とは数度の手紙のやり取りがあったが、だんだんとそれもなくなり、彼の居なくなった場所を埋めるように別の友人ができた。私にとってのあたりまえの日常が続いていった。

 彼の残したカギは私の手元にあり、公園もどこなのか聞いていた。けれど、あの果たせなかった約束をいまさら守ることの負い目に私は耐えきれず、さりとてカギを捨てるだけの勇気もなかったから、この大事なものを入れておくクッキー缶に入れていたのだった。

 大事に封をされたカギは私自身の心が宝物たちから離れていき、ただ大切だったという結果と一緒に長いこと忘れ去られていた。

 今、数年ぶりの封印を解き、懐かしさの甘みと後悔の苦味が鼻を突き抜け、掌に置かれたカギをじっと見つめるしかなかった。


 朝早くに目を覚まして、群青から白へと変わり始める空を眺める。記憶をたどりあの公園に着いた。子供の時分にはちょっと遠出といった場所だったが、大人になった足ではちょっとした散歩くらいの距離にしかならない。

 閑静な住宅街の一角にあるこの公園は、周りを緑色のフェンスで囲まれた正方形をしている。カラフルなタイヤで車止めをしたここだけが唯一の出入り口だ。中にはいくつかの遊具が固まった一角があり、半分ほどは広場となっている。子供時分には広く思えたこの広場も、大人の目には相応の広さにしか感じられない。そのもう半分には大きなクヌギが複数、散在している。夏には木陰となり、秋にはドングリを落とすおもちゃ箱だった。明け方ということもあり、クヌギの方はどこか別の場所に続いているような落ち着かなさがあった。

 手の中で遊ぶカギを拾ったのはこの公園だが、どこにもそれらしい扉は見当たらない。ゆっくりと公園を見て回る。塗装の落ちた遊具の一つ一つに思い出が色鮮やかに想起される。木々の揺らめかせる風にも記憶が宿るようだ。

 かつては憧れて胸躍らされていた光景が、大人の今ではただの現実としか映らない。記憶と現実の差が縮まっていく。直線の上にある時間の中で、記憶と現実だけが距離を保っていた。

 ふと、公園の奥に目が行く。そこにはブロック塀でできた小さな小屋があった。いや、小屋というよりも物置のような小ささだ。トタン屋根とブロック塀に囲まれて、小さな鍵穴がある。

 足早にその小屋へと足を進めた。取っ手には少し錆びた鎖が巻かれ壁と固定されている。鎖には小さな南京錠が付いていた。どうやら、この鎖がこの扉を固く守っているようだ。そして鎖の下、取っ手の下には何かを差し込む口がある。

 そっと、錆びたカギを入れた。

 驚くくらいスムーズに入ってカギは収まる場所に収まった。けれど、ドアの鍵穴のほうが錆びてしまったせいかカギは回らなかった。ぎし、ぎしと軋む音だけがあった。そもそも新しい鍵が守護の役を果たしている以上、この錆びたカギの役割はもうなくなっていたのだ。

 そう、なくなっていた。けれど役割をなくしたのはこの瞬間だ。鍵穴に己の身を差し入れたときにようやくこのカギは自分の全てを終えたのだ。もう無意味になったカギだけれど、あるべき場所はここなのだ。大事なものをしまっておく缶の中じゃない、錆び付いて無用とされてしまったこの鍵穴なのだ。

 カギから手を離すと胸の苦味はなくなっていた。手の軽さが残り、僅かな穴ばかりが空いているだけだった。

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