モエテシネ-名もなき男の欲望の戦国譚-

@marnu

第1話

時は戦国-茶の湯が武将の間で劇的に流行し、侘び寂びなどの新たなる哲学が確立された、血と智の荒波に揉まれた時代。浮世の波に飲まれる現代の潮騒の静けさに生きる者にはわからぬが、彼らの瞳に映ったのは、きっと剥き出しの欲望たちだった。

戦場に鬨の声が響き、槍と刀が火花を散らす。血の臭いが立ち込め、男たちは明日の臥所のために鎬を削る。

まさになけなしの命を捧げ合う、人間の坩堝-

そして、ここにまた一人、新たな男が一旗あげようと意気込んでいた。


名前?

名前など無かった。彼は野良の百姓であった。

名前を持つには下品な人間であったが-だがまあ、美濃の方から来たから美濃吉で良いだろう。


彼は夢を見るのだ。特別な夢、一番になる夢。

何でも良いからとにかく、何かの一番になること…。

よくわからないがそれはとても良いことだと、美濃吉にはわかっていた。


その執着は、幼い頃の思い出のせいかもしれない。

美濃吉はその幻の中では金色の絹を纏っていて、鯛のよくほぐしたものを母に口に運んでもらっている。

その母は、艶めいた長く黒い髪を美濃吉に触らせてくれ、微笑んでいる。

正面には足を崩した痩せて青い顔をした父がいて、嬉しそうに盃を傾けながら、扇を仰ぐ。

そして、父の幻は確かにこう言っている-

『お前は、燃え尽きるまで生きなさい』


美濃吉はその夢が幻に過ぎないかもしれない、そう思うけれど、これが彼の何よりも大切な宝物だった。

だから、とにかく疲れるまで彼は何でもやった。

例えばカゴを編むのを誰よりもこだわり抜く。

稲を刈るのも、とにかく工夫を凝らす。

村では何でも一番上手だ。

だが、この200人を上回ったことのない村で、一番になって何になる…。

美濃吉は虚しかった。精一杯自分のために色々与えてくれる家族が、漠然と自分より劣っている気がする。

優しい身内がいて、特段不自由のない、しかし圧倒的に、足りない生活。

この現実のぬるさを幸福と呼ぶこと。これも彼はわかっていた。

うっすらと、彼は自分が幸せになれないと気がついていた。美濃吉は、自分の欲望に天井がないことに絶望していたのだ。

 

しかし夢には抗えない。

何かになる、何かを成すという夢。

『燃え尽き』てしまうまで、自分を焦がすような、何か-。

そんな何かで一番になりたい、ただその愚直さだけが彼を貫いて、まず山賊の一味になった。

彼は何でもやった。殺し、盗み、何でも。

肌で覚え、工夫した。倫理も哲学も彼は持たなかったが、掌を通して覚えた些細な知恵が、万華鏡のように生活の中で輝いた。

なるほど人の瞳は、乾くとこんなにも濁るのか--初めて血の色がドス黒いと知って暫くして、美濃吉は魂があるのかもしれないとうっすら感じた。

死人の瞳に映るのは闇、そして空白だけだった。

それに、昼間でも人に気づかれずに盗みをできると知った。

いつの間にか自分が頭になっていた。

当たり前がゆっくりと裏返っていく、その喜びが彼を更に押し上げた。

美濃吉にはもっとたくさん知りたいことがあった。

だが、もうこれ以上は自分が薄汚れていくだけに思えた。より広い世界を美濃吉は欲した。

そう思って、次は川を極めよう、よし、それなら次は海だ、では都会はどうか-。

そして、彼は成った。

不思議なことに、齢50近くして、才能がようやく開花した。

足軽である。



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