朔人と碧い彼

紺藤 香純

朔人と碧い彼

 彼と出会ったのは、冷たい雨が降る年の瀬の夜であった。

 駅前の学習塾でアルバイトをしていた朔人さくとは、駐車場に向かう路地を通ったとき、路肩にうずくまる10歳くらいの少年を見つけた。

 朔人は、雨に濡れたアスファルトに膝をつき、自分が着ていたサックスブルーのコートで少年を包んだ。



 3か月経つ今でも、彼は朔人の家にいる。地方の大学に進学した朔人は、海外転勤した叔父に代わり、叔父が一人暮らししていた家に住まわせてもらっている。

 アルバイトが終わり、帰宅した朔人を見つけると、彼は小走りでやってきた。腰に抱きついて朔人を見上げる彼に、朔人も顔が綻んでしまう。

「ただいま」

 風呂から出たばかりの柔らかい髪を撫でると、彼は嬉しそうに朔人の手のひらに鼻をこすりつける。彼は滅多に喋らない。朔人がアルバイト先でもらってきた小学生向けのドリルを渡すと、彼は難なく問題を解いてしまった。折り紙を買うと、真剣に折っていた。落ち着きのある、良い子だ。

 一度だけ、彼が怒りの表情を見せたことがある。警察に届け出ようとしたときに、目をつり上げてうなったのだ。それ以来、朔人は彼を隠して暮らすようになった。

「こちら、おみやげです。差し上げます」

 塾の生徒が、ガチャガチャを引き過ぎた、と職員に配っていたキーホルダーを、朔人はふたつもらって帰ってきた。桜餅を模したキーホルダーだ。彼はキーホルダーを受け取ると、とろけそうな笑みを浮かべ、朔人にりついた。

 朔人は風呂を済ませてからテレビをつけ、炬燵に入った。

「空いていますよ」

 炬燵布団を開けると、彼はのそのそと入ってきた。友達のいない朔人は、誰にでも敬語で話してしまう。仲良しという距離感がわからないが、彼とくっついて過ごすのは、癒される時間だ。年齢的に犯罪かもしれないが。

 テレビでは、夜のニュース番組をやっていた。桜の開花情報と、桜の名所が紹介されている。県内の山の公園が画面に映し出されると、彼は泣きそうな顔をした。朔人はテレビの電源を切り、彼の肩を抱き寄せた。



 いつの間にか寝入り、炬燵で朝を迎えてしまった。すっかり乾いた食器を文鎮代わりにして、メモが置かれている。



 ――朔人ありがとう 碧衣



 メモの近くには、ピンク色の折り紙の花が無造作に咲いていた。

 朔人は慌てて炬燵から出た。家の中に彼の姿は見当たらない。まさか、と思って外に出ると、てこてこと歩く彼の背中が見えた。

「アオイくん!」

 朔人の声に、彼が振り返る。泣きそうな顔をしていた。

「山の公園に! お花見に! 行きませんか?」

 突拍子もない提案。だが、彼は朔人のところに戻ってきた。腰に抱きついて擦りつく彼を、朔人はやっと抱き上げた。たった3か月で、こんなに大きくなったのか。彼が何者でどこから来たのか、朔人は知らない。悪の組織から逃げているのかもしれないと変な想像もしてしまう。彼が何者でも、朔人は構わない。彼と過ごす何でもない時間が、何ものにも代えがたい時間になっていた。



 彼はネギが嫌いで、ささみカツと麦茶が好き。朔人が知っているのは、それだけだ。

 冷凍食品のささみカツを解凍して食パンに挟んでサンドイッチにし、水筒に麦茶を入れてお弁当にした。

 あの夜のように彼を車の助手席に乗せて、山の公園に向かう。車から見える景色が新鮮なようで、彼は大きな瞳をくりくりさせて周りを見回した。

 山の公園は、桜が咲き始めていた。子どもは春休みだが、平日ということもあり人は少ない。ふたりはベンチに腰掛け、弁当を出した。ふたりの間に会話は少ない。それでも、朔人は苦にならない。ささみカツサンドに舌鼓を打つ彼を見ているだけで、満足だった。

 弁当を食べ終えて遊歩道を散策していると、不意に彼が足を止めて山の上を見上げた。ぎゅっと朔人に抱きついた。もう、そろそろか。朔人は彼の柔らかい髪を撫で、こみ上げるものをこらえた。

 彼は、ぱっと朔人から離れ、遊歩道からも離れた。泣きそうな顔で笑い、大きく手を振る。朔人も、笑顔をつくって手を振った。



 彼が何者だったのか、5年経った今でも、わからない。行方不明者の噂も聞いていない。彼が解いた問題集とメモ、折り紙は、今も朔人が持っている。

 叔父の帰国と朔人の大学卒業のタイミングが重なり、朔人はマンションに引っ越した。市の職員になり、この春から図書館で働いている。

 午後の図書館は、入学式を終えた中高生の姿がちらほら見受けられた。奥の書架で配架していた朔人は、じっと見られていたことに気づき、手を止める。そばにいたのは、真新しい制服に身を包んだ男子高校生だった。柔らかそうな髪も、くりくりした大きな瞳も、見覚えがある。泣きそうな朔人に、彼は自転車の鍵を出してみせた。そこについているのは、あのとき彼に渡した桜餅のキーホルダーだ。

 奥の書架は他に誰もいない。擦りつこうとしても自制した彼を、朔人はたまらずに抱き寄せた。何ものにも代えがたい時間は、また、訪れた。

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