第一章 4
2
馬車に揺られながら、ラキシスは窓の外を見ていた。
ここからは、砂漠がよく見える。
さよなら、砂の地。大好きな場所。
もう見えない、青い青い空。この青を目に焼きつけておこう。
じわじわと視界がぼやけてきて、涙が滲んできた。一度目をこするともう止まらなくなって、それは止めどなくなく溢れた。
リュシオン。
叫びそうになった。
止めに来て。追いかけてきて。
追いかけてきて、私を止めに来てよ。
しかしどんなに待っても彼は来なくて、とうとう馬車は国境を越え、じきに山を一つ越してしまった。
その間、ラキシスはずっと泣いていた。緑の瞳から流れる涙は止まらず、目が潰れるかと思うほど泣き続けた。
心のなかで、ずっと彼の名を叫び続けた。助けに来て、助けに来て、助けに来てよ。
そして一晩が発つと泣き疲れて、そこで寝こけてしまった。
それでやっと思い知った、
彼は来ない。
胸のなかがからっぽになって、抜け殻みたいに茫然として過ごした。それでも時間が過ぎると腹だけは空いてきて、そんな自分が情けなかった。
しかし、自分ができることはこれしかないのだ。
こうすることでしか、彼を守れない。
こうしなければ、ウェレンのような小国はバレンにあっという間にひねり潰される。
それを防ぐためには、婚約者に取り入ってお妃になって、ウェレンにだけは攻め入らないようお願いするしかない。
そう思っていた。
あとどれくらいで、バレンに着くんだろう。お尻が痛い。疲れた。
一日経ち、三日が過ぎた頃、ようやくそれらしき城の影が見えてきた。
あれがバレンのお城?
そして城門を入っていくと、ようやく馬車から下りることができた。身体を伸ばしていると、背の高い女が一人、近づいてきた。
「ラキシス様。わたくしラキシス様付き侍女、ルカと申します。大公閣下より文を預かっております」
「大公閣下から?」
手渡されたそれを読むと、こう書かれていた。
『私の手の者を、なんとか一人忍び込ませることができた。存分に使ってやってほしい』
ルカという女を見ると、ラキシスよりも頭二つは背が高く、声がかすれていて、まだ若いようだが同時に壮年にも中年にも見える。不思議な見かけである。
「行きましょう。荷解きをせねば」
「ウェレンご一行様でございますな。こちらはトリスタ城でございます。お部屋へどうぞ」
「トリスタ? バレンじゃないんですか?」
「バレンの城はここから北へ行った場所へあり、国王陛下はそちらにいらっしゃいます。 こちらは王子殿下のお住まいです」
バレンほど大きい国になると、王子というだけで城が一つもらえるらしい。
そうだ、確か私の婚約者は、軍神と呼ばれているんだっけ。常勝将軍だとかなんとか。
「あの、殿下はどちらに? ご挨拶を」
なんとかして、取り入らなきゃ。取り入って気に入ってもらって、ウェレンに攻め入らないように、お願いしなくちゃ。
「殿下は……」
と従者が言いかけた時、むこうの方から甲高い女の悲鳴が聞こえてきて、従者はまたか、といううんざりした顔に、ラキシスはびくりとして、ルカは何事かとそちらを向いた。
「あ、あのっ、わわわわたし、かえ、かえ、かえりますっ。帰国しますっ。帰らせてくださいっ」
という叫び声と共に黒髪の女がこちらに向かって走ってきたかと思うと、ルカにぶつかった。
「失礼」
女はルカを見上げると恐怖の面持ちで辺りを見回し、やがてラキシスと大荷物を見てなにかを察したのか、ひっ、と小さく叫んでどこかへ走って行ってしまった。
従者が、やれやれとため息をついた。
そこにいた誰もが、これは一体何事かと不思議な顔をしている。
コツ、コツ、コツ……
そこへ、通路のむこうの暗がりから足音が響いてきた。
露わになったのは、一人の青年だった。
夜露のような銀の髪。すみれ色の紫の瞳。
「怖がって帰ってしまった……ちょっと脅かしただけなのにね。つまんないの」
「クラレンス王子……またでございますか。何人目ですか」
「さあね。数えるのやめたから、わかんない」
わけのわからない会話をしている。
しかしラキシスは、その会話から王子、という単語を敏感に聞き取った。
王子。私の婚約者だ。
「あっあの」
前に進み出た。
「はっ、初めまして。わ、私、ラキシスと……」
「俺に話しかけられる前に、話しかけるな」
「えっ?」
「アインス、茶会は中止だ。昼寝をする。誰も近づけるな」
「かしこまりました」
従者が頭を下げて彼を送り出すと、下馬所はまたざわざわとざわめきに満ちた場所に戻っていた。
「あの……」
「こちらへどうぞ。お部屋にご案内します」
「あの、逃げていったあの女のひとは?」
「ああ、殿下の婚約者候補のお一人です」
「婚約者候補?」
「このお城にはたくさんそういった方がおいでで、一緒に暮らしておられます」
そうか。私だけってわけじゃないんだな。それはそうだ。バレンは大国だもん。みんなそこのお妃の座を狙ってる。負けていられない。よーし。
部屋に通されて、ラキシスは早速考えた。
婚約者候補がたくさんいるっていうのなら、まずはそのひとたちから頭一つ、抜きん出ないと。そのためには王子にお近づきになるのが一番だわ。でもどうすればいいんだろう。
好機は、すぐにやってきた。
トリスタ城にやってきて三日目のことである。
回廊をうかない顔で歩く、黒い髪の女がいた。唇が赤く、誰が見ても美しいのに顔色がひどく悪くて、うつむいた顔も憂えげである。
気分でも悪いんだろうかと思って、思わず近寄って声をかけた。
「あの」
すると、女はびくりとして顔を上げた。
「どうかしたんですか。お加減でも悪いんですか」
「あ、あなた新しいひと? ここにいたらいけないわ。早く逃げて」
「逃げる? なにから?」
「悪いことは言わないから、逃げた方がいいわ。ここにいたら、ひどい目に遭う。殺されるわ」
「ひどい目? 殺されるって、誰に?」
「それは、俺も知りたいな。誰にそんなことされるんだい? タチアナ姫」
「ひっ」
女が怯えた顔で振り向いた。ラキシスがつられてそちらを見ると、そこにはあの紫の瞳の王子が立っていた。背の丈は、リュシオンと同じくらいだろうか。
「おおおお王子殿下」
「教えてよ。誰にそんなことされるの」
「い、いえ、私はそんな」
「ちょうどいいや。今からみんなでお茶会をするから、そこでみんなでお話ししようよ」
クラレンス王子はラキシスにも顔を向け、
「新しい君も、一緒に。ね」
とにっこりとして言った。
好機……!
ラキシスは拳を握った。
お妃お妃。ラキシスは跳ね回りたい気持ちでいっぱいになりながら、クラレンスについていった。隣で歩くタチアナ姫が青ざめているのにも、気がつかなかった。
濃緑に金の刺繍を施した掛け布に、白い茶器がよく映えている。
「さあみんな、食べてよ。今日の焼き菓子は料理人が腕によりをかけて作ったんだよ」
明るく言うクラレンスとは違って、ラキシス以外の三人の姫たちの表情はどれも暗い。
みなうつむいて青く、唇を震わせて、身体すらもカタカタといっている。ラキシスはきょとんとしてそれを見つめ、わけがわからず香茶を一口飲んだ。
「どうしたのみんな。暗い顔しちゃって」
クラレンスはくすくすと笑いながら、肘をついて焼き菓子をかじっている。
「場が陰るなあ。そうだ、掛け札でもやるかい。ほら、配るよ」
王子が札を順番に配っていると、札のうちの一枚が床に落ちた。
「あっ」
それが、ユリアナという姫の足元に落ちた。
「落ちちゃった」
「お、お拾いします」
ユリアナ姫は怯えの表情を見せながらも、立ち上がって札を拾おうとした。
サクッ
「あっ」
ラキシスは思わず声を上げた。
札を拾おうとしたユリアナ姫の指先を掠めて、札に一本のナイフが突き刺さったからである。
「ああ、ごめんごめん。掛け札もつまんないから、ナイフ投げにしようよ。的はそうだな、手始めにこの札の一枚一枚ってことでどうかな」
くすくす笑いを止めずに、クラレンスはもう一本ナイフを投げた。それはユリアナ姫のかかと辺りに刺さった。
ひっ、と悲鳴を上げて、たまらずにユリアナ姫は部屋から走り去っていった。
クラレンスは大声で笑うと、
「あれえ、おかしいな。行っちゃったよ。これじゃあ的がなかなか定まらないな。次はどうしようかな。うーん」
片目を瞑って残った娘たちに照準を合わせ始めたので、彼女たちは次々に立ち上がって逃げ出した。ラキシスも恐怖で身体が竦み、逃げ出したい気持ちで一杯だった。
だが、ここで逃げたら王子のお気に入りになることは無理だろう。ひいては、妃の地位など夢の夢だ。ウェレン救済は破談となる。
それだけはだめだ。
クラレンスは急に笑うのをやめ、白けた様子で立ち上がると、部屋を出て行ってしまった。ラキシスは彼を追いかけた。
「殿下」
そして彼の腕に追いすがると、訴えかけるように言った。
「わ、私、怖くなんかありません。なんとしてでもあなたの婚約者に、お妃になってみせます」
クラレンスの紫の瞳が、冷たく光った。
「へーえ……?」
彼は突然ラキシスの手首を掴むと、つかつかと歩きだした。
「で、殿下? 王子?」
その歩く速さがあまりにも早いので、ラキシスは途中何度も転びそうになった。
「あの、どこへ行くのですか」
何度聞いても、返事はない。
そしてある部屋へやってくると、彼はラキシスをベッドの上へ乱暴に放り投げた。
「なんとしてでも、ね」
そして襟元を緩めると、ラキシスの足首を撫で始めた。
「じゃあ、早速妃の務めを果たしてもらおうか」
さわさわさわ、その白い手が、ゆっくりと足首から上へと這っていく。
「あ……あ」
「妃になりたいんだろ」
そうだった。お妃になるって、そういうことだった。
わかってるようで、ちっともわかってなかった。
私、私、どうしよう。
でも、そんなの、だって、
――リュシオン!
「いや!」
するどい拒絶の声で、手がぴたりと止まった。
思わぬ自分の声に、ラキシスははっとした。いけない。私、なんてことを。
「ふん」
クラレンスは身体を起こして、襟元を直した。
「嫌がるくらいなら、気軽になんとしてでも、だなんて言わないことだ」
そう言うと、彼は部屋から出ていった。
ラキシスは茫然として、その背中を見送った。
千載一遇の、好機だったのに。
事実婚さえしてしまえば、こっちのものだったのに。
だめだった。
わかってなかった。
吹っ切れたつもりだった。もういいって、そう思ってた。忘れたつもりだった。
でも違った。心は忘れてなかった。
背中が、肩が、腰が、あのひとの腕を覚えている。この掌が、あの黒髪の感触を覚えている。全身が、彼のことを記憶している。
なのに、どうして私は他のひとと結婚しようとしているの?
はらり、涙が一筋落ちる。
ううん、泣かない。もう泣かない。決めたんだ。守るって。あの国を、あのひとを、私があの男と結婚することで守るって、そう決めたんだ。そのためなら、どんなに汚れたって平気だ。心はいつも、あのひとと共にある。
乱れた服を直して、ベッドから下りた。
廊下に出ると、なにやら騒がしかった。
「どうしたの」
「あ、ウェレンの巫女様でございますか。実はエリザが……」
「エリザ? どこの姫様?」
「姫ではありません、猫でございます」
「ねこ?」
首を傾げていると、がちゃん、がたん、がたがたと、物が連続して割れる音、なにかが倒れる音、次いで崩れる音がどこからか聞こえてきた。
普段は物静かな城なので、なんのことだと思ってそちらへ行くと、ねこじゃらしやおもちゃを持った召し使いたちが高い場所に向かっていっせいに身構えているのが見えた。
「どうしたんですか」
「エリザがあそこに上ってしまって」
「下ろせばいいじゃないですか」
「とんでもない。そんなことをしたら、お手打ちにされてしまいます」
「お手打ち?」
「エリザはクラレンス殿下の猫なのです」
にゃー、と弱々しい声が棚の上から聞こえてきて、首を巡らすと黒い顔がぴょこんと出てきた。
「あら黒猫ちゃん。出ておいで」
ラキシスはテーブルの上に上がって、舌を鳴らしながら手を黒猫に差し伸べた。黒猫は耳を平らにして、ラキシスの手をふんふんと嗅いでいる。
「おいで。怖くないよ」
「あああああぶのうございます。下手に手を出したら、首が切られます」
「エリザ、おいで。こっちよ」
黒猫が顔を出して、首を伸ばしてきた。今だ。
ラキシスはエリザの首を掴んで、思い切り引っ張った。召し使いたちが悲鳴を上げた。
黒猫は観念したようにラキシスに抱かれ、おとなしくしている。
「なーんだ、まだ仔猫ね。ちっちゃーい」
ラキシスはテーブルから下りると、黒猫を撫でながら歩きだした。
「さ、殿下のところに帰りましょ。お部屋はどっちかなー」
召し使いたちは茫然としてそれを見送り、そのうちの料理人は今夜の食事を一人分少なく作ることを覚悟したという。
「お前、その手に持っているのはなんだ」
「殿下の猫ちゃんです」
「それはわかっている。なぜお前が抱いている」
「下で暴れていたので、私が捕まえて連れてきました。みんな困ってたので」
「捕まえただと?」
「はい。えいって」
エリザがラキシスの手から逃れて、クラレンスの元へ走って行った。王子の足を伝って彼の胸元まで行くと、黒猫は襟巻のようにその首の周りに巻きついた。
「まあ、よくなついてるんですね」
「……う、まあな」
怒鳴りつけてやろうとしたのに、その機を逸した。エリザのせいだ。
「じゃあ私はこれで」
すると、首に巻きついていた黒猫が顔を上げて、にゃあと鳴いた。それで思わず、声をかけてしまった。
「待て」
ラキシスが立ち止まって、振り返った。
「お前、猫使いかなにかなのか」
「は?」
「エリザは誰にもなつかない。俺にしかなつかない。なのに、お前には気を許した」
「はあ」
「これからは、お前が世話をしろ」
戸惑いがちに返事をするラキシスが出ていくのにも、不思議と苛立ちを感じなかった。 これもきっと、エリザのせいだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます