それはとっても小さな世界

京野 薫

ささやかな王国

「なあ……止めてくれないか。頼む……何でもするから!」


 最後の方はもう僕は叫んでいた。

 そうすれば、目の前の少女に届いてくれるのではないか。

 そんな希望……いや、違う。

 懇願を込めて。


 それはそうだろう。

 顔の上、ベルトで固定された……の上には電動ノコギリの丸い刃が、耳を引き裂くような高く鋭い音を立てて回転している。

 それをまるで授業でも受けているかのような真剣な表情で持っている十七歳の少女、松井美雨まついみう

 

 吸い込まれそうな黒い大きな瞳に、血色の良い小さな唇。

 肩の下まで伸びた美しい黒髪。

 まるで人形のような小さな顔。

 

 深窓の令嬢、と言う言葉が似合いそうな彼女が電動のこぎりを持ち、ベッドに固定された僕に近づけている。


「動かないでください。苦しんで死にたいですか。……あ、ノコギリに苦しくないも何もないですね。私ってそそっかしくて……ごめんなさい」


 そう言っておかしそうにクスクス笑い彼女の声も脳を素通りする。

 狂ってる……


 こんな冗談としか思えない光景も、極限の恐怖によって塗りつぶされる。

 そして……刃が……


 目を閉じて悲鳴を上げた次の瞬間。

 刃が止まった。


「怖かったですか? 良かったですね。もう3センチで……ボン、でしたよ」


 そう言って美雨は顔の横で握った右手を広げた。

 僕は自分の顔から勢いよく血液がなくなっていくのを感じた。

「血の気が引く」ってやつ……か……


「あ、汗ビッショリ。服もベタベタ……お風呂の準備をするので、入りましょうね。一緒に」


 そう言って琴音は僕に向かって微笑んだ。


「今度は安心してお風呂の準備ができます。だって……もう、逃げようなんて思わないですよね。誠一せいいちさん」


 僕は朦朧とする意識の中で何とか首を縦に動かした。


「こういうお仕置き、私自信有るんです。結構練習したので……協力してくれる人達もいたから。本当に感謝しかありません」


 そう言うと、彼女は優しく微笑むと僕の頬にキスをした。


「有り難うございます。誠一さんが来てくれて本当に嬉しいんです。……運命なんて言葉じゃ、言い尽くせない。本当に……有り難うございます」


「君が……誘拐……したんだろ」


 そう。

 切っ掛けは理不尽そのものだ。

 僕が仕事終わりに度々通っていた行きつけのカフェ。

 そこでバイトしていた美雨。


 それまで仕事上のやり取り以外話すことの無かった僕に、ある日突然彼女は親しげに話しかけてきた。

 見たことも無いような美少女。

 悪い気はせず、僕も好意的に話すようになったある日。

 カフェを出て、自宅アパートの部屋に入った僕は誰かに後ろから殴られて、意識を失い……気がついたらここにいた。


 四方真っ白な壁。

 広さは4.5畳ほどだろうか。

 地下にあるせいか窓もない。

 有るのはベージュの生地のかなり寝心地の良いベッド。

 そして、隅にあるトイレと反対側の隅に小さなテーブル。

 それが今の僕の世界の全てだ。


 パニックになった僕は、琴音が部屋を出た後で彼女が鍵を閉め忘れているのに気づき、逃げだそうとして捕まり……こうなった。


「ふふっ……みんな引っかかるんです。わざと鍵をかけずに居ると逃げようとされる。で、こうやってお仕置きをさせて頂いて、一つ賢くなるんですよ」


「なぜ……僕なんだ」


「え?」


「なぜ……僕を閉じ込めた。僕は……君が気に入るようなイケメンでもない。歳だって……三十になる。なぜ……」


「拾ってくださったから」


 ……え?


「覚えてます? 私、お店でスプーンを落としたじゃないですか? あれをあなたは拾ってくださった。そして拭いて渡してくださって……そんな人なら、私に生涯寄り添ってくださる。裏切ったりしない。そう思っても不思議じゃないですよね?」


 そう言ってニコニコと微笑む彼女の顔を僕は愕然としながら見詰めていた。

 そして思わず言葉が……零れた。


「……狂ってる」


 その途端、琴音は不安げに眉をひそめた。


「好きな人に……そんな事言いませんよね」


 次の瞬間、彼女のとった行動に僕は目を見開いた。

 琴音は電気のこぎりの刃を自らの口に近づけると、その先端に……舌を押しつけた。

 琴音の口から赤い血が溢れるように流れる。

 それは彼女の唇を……顔を赤く染める。

 そして、白いブラウスの全面も赤くなっていった。


「な……なんで」


「愛する二人は身も心も分かち合うんですよね? そう言えば私たちって分け合ってない。だから……悪い子なんだ」


「違う……ちが……」


「違わない!」


 そう言って美雨は僕の上に跨がると、僕の顔に自らの顔を近づけ、血まみれの口を開けた。

 彼女の口からしたたる血が僕の顔にかかり、その生臭い鉄の匂いに吐き気がしてくる。


「口……開けて」


 首を振る僕に美雨は小首をかしげて言う。


「ノコギリ……切りますよ」


 僕は全身に鳥肌が立つのを感じ、慌てて口を開ける。

 美雨は僕の唇の数センチ上まで自分の唇を持ってきて、自らの口からしたたる血を僕の口の中に入れる。


「私の血をあなたは受け入れる。そして……あなたの血も私は受け入れる。これで、二人は愛し合える。舌……出して下さい」


 言われるままに出した舌を美雨はそっと咥える。

 そして……次の瞬間、僕の舌に鋭い痛みが走った。


 その痛みと血液の不気味な味。

 そして、非現実的な状況。

 それらによって、僕は今にも吐きそうになった。


「ゴメン……ちょっと……吐きそうで」


 聞いてくれないだろうと思ったら、驚いたことに美雨は目を見開くとすぐに僕を起こしてくれ、身体を支えながら隅のトイレに連れていった。


「大丈夫ですか? 大丈夫です……戻したら楽になりますから。……さあ」


 そう言って便器に顔を突っ込んだ僕の背中を優しく撫でていた。


「可哀想に……疲れましたよね。一息ついたらお風呂にしましょう。パジャマも用意してあるんです。下着もあなたの好みに合ったのを。なので着替えたら……休んでください」


「それよりも……もう帰してくれ……頼む!」


 そう言って彼女の手を振り払った瞬間。

 後頭部を掴まれて、僕の顔は便器の中に突っ込まれていた。


 息……が!


「十分……我慢してください。死ぬ前に助けてあげます。そのタイミングなら命はあるけど脳死状態になり、蘇生後に後遺症が残ります。しゃべれなくなるか、動けなくなるか……通常の思考能力が……消えるか。でも大丈夫です。私がお世話してあげますから。だって、好きなんだもん。むしろ……嬉しい」


 僕は必死に手を動かした。

 脳の中に火花が飛び散っているようだ。

 死ぬ……死に……たく……


「愛してますか? あなたのお家はここです。あなたの家族は私です。あなたの妻は……私」


 僕は力を振り絞って顔を僅かに上げると、必死に叫んだ。


「愛して……る! ここが……家だ! 出ていか……ない!」


「結婚してくれます? 私が十八になったら」


「する! 愛してる!」


 激しく咳き込みながらそう言うと、僕は顔を引き揚げられてそのまま床に寝転ばされた。

 そして美雨が追い被さってくる。


「有り難うございます。やっぱり分かってくれた……ごめんなさい、心配したりして……こんなんじゃ……あなたの奥さんになんてなれないよ……」


 泣き声混じりでつぶやくように言っている彼女の声を聞きながら、僕は自分がもう逃げられないと言うことを思い知らされた。


「さ、お風呂に行きましょう。綺麗にしないと。その後はゆっくり休んでください。明日はこの中を案内します」


 そう言って美雨は部屋の隅にあるカメラで僕を撮った。

 何を……


「記念に、と思って。人の記憶って案外いい加減だから、すぐに忘れたり変な風に変わっちゃう。それ、すごく嫌いで。だからこうして……それに、私自身の成長記録にもなるし」


 そう言って彼女は恥ずかしそうに微笑んだ。

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