『虚幸』
『雪』
『虚幸』
「なんでこんな問題も分からないんだ!」
叱咤の怒声と共に腹部に鈍い痛みが突き刺さる。冷たいフローリングに倒れ込み、殴り付けられた腹部を反射的に抑えた。肺から空気が全て絞り出されて、呼吸が一瞬だけ止まる。それでも父親の怒りは収まらず、髪を鷲掴みにして私を無理矢理立たせると、再び腹を力一杯に殴り付けた。上手く呼吸も出来ないまま、二度の衝撃で胃からこみ上げてくるものを必死で押さえ付ける。
悲鳴を上げれば、被害者面するなとまた殴られる。嘔吐すれば、俺の家を汚すなとまた罵声を浴びせられ、すぐさま片付けを強要される。涙を流せば、不出来な子供を持たされて泣きたいのはこっちだと存在を否定される。意識を遠くに飛ばし、一秒でも早くこの時間が終わるように祈りながら、過呼吸で痙攣するしか出来ない私を父親は冷ややかな目で見下す。髪を掴んだ際にいくらか抜けたらしい私の髪を汚ならしいものでも触ったかのように振り払った。
「次同じような点数を取るような事は許さんからな!」
踵を返して父親は私の部屋を出ていく。そんな日常の光景を黙ってみていた母親は倒れている私の側に歩み寄る。
「お父さんはね、貴女の事を思って言ってるのよ」
何千何万と聞かされたその言葉。悪いのは全部不出来な私で、父親も母親もただ私を心配しているだけなんだと。
グシャグシャになった模試の回答を拾い、私の机に置く。
「
応援してるから、と心にも無い賛辞の後に漸く母親も部屋から退室する。
誰もいなくなった部屋で蹲ったまま、浅く息を吸う。呼吸の度にお腹がズキズキと痛んだ。床に手を付き、どうにか上体を起こす。
じわりと滲む涙に意味は無い、誰も私を助けてくれやしない。喉の奥で押し止まる罵声はきっと気のせいだ、悪いのはこの腐った家庭環境ではなく、私なんだから。
どうにか立ち上がると、ふらふらとした足取りで机に近寄る。椅子を引き、酷く緩慢な動作で腰を下ろすと再び参考書に向かう。
私は一体何の為に勉強しているんだろうか、果たして誰のために、ふと浮かび上がるそんな思考を振り払うようにペンを動かす。
後ろから近付いてくる何かから逃げるように意識を目の前の問題へと向けるが、そんな私の努力を嘲笑うように意識は真っ黒に塗り潰されていく。指の先に力が入らない、ペンが手からこぼれ落ちて乾いた音を立てた。
ぼやけた視界の先に見慣れた天井が映る。幾重にも重ねられた布団と毛布を押し退けて上半身を起こすと、大きな欠伸を一つ零した。
嫌な夢だった、溜め息を溢して自らの身体を抱き締める。もう何年も前の事なのに、今でもふとした瞬間に思い出す。腹部に無数出来ている事が普通だった青アザもとっくの昔に完治している。けれど、あの頃の事を思い出すと、傷は何処にも無いはずなのに再び痛み出す。
まるで呪いのようだ、と私は苦笑を浮かべる。私は逃げるようにベッド側のサイドテーブルに置かれた大量のアルコール類の容器からまだ中身が残ったものを手繰り寄せると、温くなったそれを一息で次々と流し込んでゆく。あるだけのアルコールを全部飲み干して、漸く落ち着いた。
視界の端に靄が掛かっているような、常に歪んだ世界に置き去りにされているような、ぼんやりとした頭になった所で、枕元に投げ出していたスマホへと手を伸ばす。充電器を引っこ抜き、電源ボタンを入れる。ロック画面には多数の未読のメッセージと着信履歴を知らせるポップアップが浮かんでいるが、まともに確認もしないまま、スマホの電源を落として再びベッドの上に投げ出した。
必要最低限の家具しかない殺風景なリビングの向こう側、小さな作業デスクに向かう家主の姿を見付ける。最初は独り言かと思った言葉の羅列はどうやら電話の向こうにいる相手に向けてのようだった。ベッドに散ばった肌着と寝間着代わりに借りている長袖のTシャツを身に付け、彼の電話が終わるのを待つ。五分もしない内に通話は終わり、彼は手にしていたスマホをデスクに伏せて、こちらからもはっきりと分かるような深いため息を零した。
「おはよ、ダメだったみたいだね」
彼はチラリと此方を一瞥して、小さく頷く。その表情は諦観と悲観を併せ持った形容し難いモノだった。
「話が暗過ぎるんだってさ。まぁ……何時もの事だよ」
デスクに向き直ると、ズラリと並べられたファイル立てからダブルクリップに閉じられた原稿用紙の束を取り出す。電子化の時代に逆行するように、彼の書く小説の草案や原案と呼べるものはほとんどが紙媒体だ。理由については一度聞いたことがあるが、彼曰く「パソコンで小説を書こうにも文字が浮かんでこない」だそうだ。まあ、手のひらサイズの小さなメモ帳にすら隙間無くびっしりと文字を書き連ねてるような人間だ。思い付きを思い付きとして即座にメモ出来る紙媒体とパソコンでは素人の私が思っている以上に勝手が違うのだろう。
簡素な作業用デスクには不釣り合いな大型のゲーミングチェアから降りると、そのままゆったりとした足取りでベランダの方へと向かう。薄っぺらな遮光カーテンの向こう側、狭苦しいベランダはバーベキュー用の炭火コンロがその大部分を占拠していた。カーテンを潜り、ガラス戸を引いてベランダに降りる。炭をくべる為の空洞になったスペースに彼は手にした原稿を投げ入れた。以前に居候していた際に燃やしていた別の原稿の名残が浮かび上がり、粉雪のようにヒラヒラと舞い散る。彼はスウェットのポケットから私が預けていたシガレットケースを取り出して、覚束無い手付きで煙草を一本手に取った。そのままライターで火を灯すと、深く煙を吸い込んで雲一つない快晴の空に紫煙を吐き付ける。暫くの間、空を見上げていた彼は思い出したかのように視線を落とした。その視線の先にある原稿に向かって、彼は手にしていた煙草の吸い差しを放り投げる。火の付いたままの煙草が原稿に落ちて、ゆっくりと外側に向かって燃え始める。自らが生み出した作品、人目に触れる事無く消失する己の分身が燃え尽きる様を彼は黙ったまま、ただじっと見詰めていた。
「私は好きだけどね、キミのお話」
ガラス戸一枚を隔てた室内で、私はポツリとそう零す。彼の書く小説はそのどれもが、残酷なまでに現実的で無慈悲な物語だ。努力は決して報われる事無く、人々は失意の中ひっそりと夢への道を閉ざす。正しさを貫こうとしたヒーローは、かつて守った人々の総意によって押し潰される。手にした栄光も、希望も、やがて指の隙間から零れ落ちて無くなってしまう。誰もが笑顔になれるようなハッピーエンドなど此処には在りはしないのだ、と世界を嘲笑うように。
私は彼の書いた鬱屈とした物語が好きだった。現実味があって、無情で、この世界の在り方というものを鮮明に切り出している。しかしながら、如何にも世の人々とは私達の趣味が合わないらしい。
ベランダから戻って来た彼は一度洗面所の方へと消えて、すぐにリビングへと戻って来た。そのままフラフラとした足取りでベッドの方まで歩いてくると、私の隣に腰を下ろす。そして、そのまま倒れるとピクリとも動かなくなった。
手を伸ばし、彼の短い髪に触れる。そっと頭を撫でながら彼の背中に寄り添うようにして身体を寝かせた。
この世界が如何なるものであるか、私達はよく知っている。世界から見た私達は恵まれているのかもしれない。彼は志した夢を叶えた。私は不自由なく勉学を学ぶ環境を整えて貰っていた。
けれど彼の現在はというと書きたいものを押し殺して、伝えたい事を何度も歪ませられて、世の中に求められた物語を生み出す代用品に成り下がる事を求められている。
私はというと大学生活の中で凡人と才覚のあるものの差をこれでもかと見せ付けられ、いつの間にか大学に通うことすらままならなくなった。だが、あの地獄のような自宅に戻る事も出来ず、自らの体裁だけを心配した母親からの心無いメッセージに見てみぬ振りを続け、打ち切られた仕送りの代用として、適当な男の家を転々としながら酒と煙草、そして肉欲に溺れた怠惰な日々を送っている。
誰かが言う「一般的な幸せ」なんてどうだっていい。見た事も無い誰かの価値観で、私達の一体何を計れるというのだろうか。私達は多くを求めている訳では無い。ただ、私達の存在を認めてくれる「個人的な幸せ」があればそれだけで良い。
寝返りを打ち、こちらを向いた彼と目が合う。その瞳はよどんだ水面のように底が知れない。きっと彼から見る私の瞳も同じようなものだろう。言葉も無いまま、どちらとも無く互いの背中に手を回す。一方的に押し付けられた「幸せ」を足蹴にして、私達は不幸を噛み締めた。
『虚幸』 『雪』 @snow_03
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