忘却の果実

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忘却の果実


世界のどこかに、一度食べると「特定の記憶だけを消せる」果実が実る森があるという。

ただし、その果実を食べた者は 「何を忘れたのか」すら覚えていない。


この森の存在を知るのはごく一部の人間だけ。

誰もがその力を恐れつつも、どうしても忘れたい記憶を持つ者は、最後の手段として森へと足を踏み入れる。



森の入り口には、一人の老人が座っている。

彼は果実の番人であり、ここを訪れる者にこう問いかける。


「本当に忘れたいのか?」


ある者は失恋の記憶を、ある者は犯した罪を、ある者は耐えがたい悲しみを捨てるために訪れる。

そして、果実を食べた瞬間、彼らの表情は安らぎに満ちる。


だが、その後の彼らの人生はどうなったのか、誰も知らない。

なぜなら彼らは、忘却と引き換えに「森へ来た理由」さえ消されてしまうからだ。



ある日、ひとりの少女が森を訪れる。

彼女の名はリラ。

まだ12歳の少女だったが、目には大人びた悲しみを宿していた。


「私は何か大切なものを失った。でも、それが何だったのか思い出せないの」


老人は彼女をじっと見つめ、ゆっくりと口を開く。


「ならばお前は、かつてここで果実を食べたのかもしれんな」


リラは驚く。

しかし、何を忘れたのか、まったく思い出せない。


彼女は決意する。

もう一度、果実を食べれば「忘れた記憶」を取り戻せるのではないか?


だが、その考えは間違っていた。



果実を食べることで「忘れる」ことはできても、「思い出す」ことはできない。

リラは知る由もなかったが、果実は彼女が幼い頃に食べたものだった。

それは——家族を失った記憶。


幼少期の彼女は、ある事故で家族全員を亡くしていた。

耐えられず、森を訪れ、その記憶を捨てた。


だが、記憶を失っても心の奥底に空白が残り、理由もなく悲しみがついて回る。

そして彼女はまた果実を求めた。


もし彼女が再び果実を食べれば、今度は「何かを忘れたいと思った記憶」すら消えてしまう。

そうなれば、彼女は二度とこの森に来ることもなくなるだろう。


老人は問いかける。


「それでも、お前は忘れたいのか?」


リラは果実を見つめ、ゆっくりと手を引いた。


「……いいえ。私は思い出せなくても、もう忘れたくない。」


そして彼女は森を去った。



果実の森は、今日も静かに佇んでいる。

誰かが何かを忘れるために訪れ、

そして誰かが「忘れたくない」と思い直して去っていく。


森の老人は、ただ静かにそれを見守るだけだった。


——あなたは、この果実を食べますか?

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忘却の果実 sui @uni003

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