第20話



唇が触れ、離そうとすれば、すぐさま動いたのは国堂であった。

自分の身体を支えるようにベッドに置いていた手を勢いよく、俺の後頭部に回してきた。


「っ! ん、ん……」


力強く抑え込まれる。離れることを許さなかった。

引き付けられたまま、国堂が腰を浮かせれば俺も膝を伸ばすことになり、中腰辺りまでくれば、国堂の逆腕が俺の腰へと回ってきた。

そのままぐるりと身体が半回転し、ドサリと男二人がベッドに倒れ込む。

回転した分、俺の背にベッドのシーツがある。組み敷かれた、ということだ。


依然として、国堂はキスを止める気はないようであった。僅かに離れたとしてもすぐに塞がる。

そこまで経験も回数も豊富では無い俺は、そろそろ窒息しかけている。ほんの少しでも酸素を求めて、口を開き、吸い込む。頭に血が上るような感覚に近い。


息継ぎの出来ない苦しさからか、それともこんなことをしている恥じらいからかは定かでは無いが、顔が熱い。

必死に呼吸する自分が子供みたいで嫌になる。


ようやく飽きたのか、国堂の顔は離れていく。後頭部にあった手もするりと抜け、トサ、と枕に頭を置くことになった。

顔の横に手持ち無沙汰になった手を置かれ、上を見れば端正な狐顔が舌を出して、唇を舐めていた。


結ばない髪の毛は、肩にかかるくらいに長かった。真下にいる俺の顔を見下ろすと、パラりと肩から滑り落ちた。

鬱陶しそうに手でかきあげ、手首に巻かれていた黒い髪ゴムで乱雑に縛る。


妖艶な視線をこちらに向ける。ニタニタとした嘘くさい作り笑顔は消えていた。


(……意外だ)


「……何か澄華君、楽しそぉやな」


人の頭の中を見透かしたように言えば、片方の口角を引き上げる。

俺は図星というようにピクリと頬を引き攣らせる。


(いっつもニヤニヤしてるのに)


年上の余裕というのだろうか。

国堂の貼り付けた作り笑顔の仮面は、本人はそんな気がなかろうとも、受け取り手には、どうしても見下しているように感じてしまうものだった。

そんな男の余裕のない顔を見てしまえば、顔が多少ニヤつくのも仕方ないことだ。


「……だって、アンタのそんな顔、初めてだし」


数歳年上だとしても、そんな表情もすると知ってしまえば、いくらか気が緩む。


「そりゃ、いつもみたいな顔は出来ひんやろ。いつもしないことしてんやから」


ニヤッと笑みを含ませてそう言った。再度、今の状況が俺にとって有利な訳では無いことを知らせているようだ。

俺は「うぐっ」と声を詰まらせる。


ただの世間話をするような状況でない。

薄暗い部屋。扉の鍵はしっかりと閉められ、二人きりの密室の中、共にベッド上に倒れ込んでいる。


しかも、俺は顔の良い男に敷かれているのだ。逃げ出すことも難しい体勢で。

よくよく考えれば、そういう事をする場で、そんな雰囲気も醸し出している。


「小学生やないんやから……、澄華君、こうなったらすること、一つやんな?」


首を傾げながら問いかけているが、間違いなく、この男は確信している。

問う必要もない。大概、二十歳を超えてこの先何があるか分からない男なんて存在しないだろう。


俺は答えないし、首も動かさない。ただ、雰囲気に飲まれ、事を進めず口だけ動かしていれば、徐々に冷静さを取り戻しつつ、恥ずかしくなっていく。

見つめ合うことから逃げるように、視線を横に逸らす。


反応を返さない俺に、機嫌を悪くする訳でもなく、ただ「くくっ」と歯を噛み締め、その隙間から漏れるような笑い方をする。

答えないことは、「分かっている」と答えることと同じだ。


一度ベッドから手を離した国堂は、身体を上げ、ほとんど形を崩していた黒いネクタイを緩め、着ていたシャツの襟元のボタンを一つ外す。

俺が来る前まで机の上に置かれた大量の紙束で何かしていたのか、入って最初に見た顔が酷く疲弊していたことを思い出す。

頭を左右に倒せば、首が重くゴキゴキと鳴った。


「ふぅ」と軽い息を吐けば、片手をまた俺の横に置く。

近付いた上半身。首元が緩まったことで、素肌が先程よりも露わになる。


分かってはいたことだが、実際に見ると見入ってしまうものだ。


顔も手も、これまで見えていた部分の国堂の肌は、どちらかというと白い方であった。とは言っても、白粉を叩いたかのような白ではなく、健康な肌色だ。


鎖骨の下辺りから、その色が一変している。黒や赤だろうか。薄暗いせいでしっかりとした判別は出来ない。

間違いなく、人工的な色を肌に入れた……いや、彫ったものだ。いわゆる刺繍だ。


「ん? ……あぁ、見たいんか?」


「っ、い、いや……」


見たいか、見たくないか、どっちだろう。

前までは、こういったものは身近にある花だとか、龍だとか聞いたことがあるし、それを見かけてこの男を思い出すのが嫌だから、見たくはなかったのだが……。


自身でこの男と関わっていくことを決めたのだから、もうそんな理由は意味もない。

好奇心から少し見たいとすら今なら思えてしまう。


もごもごと答えずにいれば、国堂はニヤリと笑って口を開く。


「背中の方がエグいで? あと、腕にも少しなら」


そう言って、シャツの袖をたくし上げた。いつもこの男が黒いインナーを着ていた理由は、間違いなくこれらを隠すため。

しかし、今はインナーなど身につけていないので、腕まくりをすれば、黒い龍の鱗みたいな模様が露わになる。


「も、もういい……」


身体のあちこちにこんな模様が散りばめられていると分かったところで、マジマジと他の模様を見ようという気は失せた。


俺が首を振ると「そぉ?」と言いながら、腕まくりを直すことはなかった。


男らしく太さのある腕に浮かんだ黒い鱗模様。そして、捲られた袖から鱗を裂くように赤黒い線が入っていた。

それは、人工的に彫られたものとは違っていて、肉に直接、線が食いこんでいるように見えた。


俺は似た物を見た事がある。遠い昔の話ではない。ついさっきのことだ。


国堂によく似た顔で、瓜二つの目元を持った男の顔に刻まれていた。国堂宗士の片目を閉ざしていたあの線だ。


「……やっぱり、ヤクザって危ないことあるんですね」


腕に注視している俺がボソリと言えば、国堂は止まる。


見えているのは途中までで、きっともっと上までその線は伸びているのだろう。


食い込んでいるのは、縫った跡だろうか。どれだけ針を通したのか考えるだけで痛い。


「……毎日身ぃ狙われとる訳ちゃうで? たまたまや」


「たまたまでも、そういうことあるってことですよね」


たまたま、と言っても、弟の方にも目にも傷があるのだ。国堂組にとって、一回二回の話ではないのだろう。


「やっぱ、ヤクザと関係持つんは嫌んなったか?」


「……」


俺が口を閉ざせば、国堂は一度息を吐く。そして、宥めるような声色を使った。


「……澄華君にこんな危ないことは起こらへんよ。俺がおる」


この男がヤクザで、危険な身な訳だが、自分が居れば安心だと言うのはおかしな話だ。


(……ていうか)


俺も一つ息を吐く。

確かに自身がこういった危険に晒されるのは嫌だが、そういう意味で口にした訳ではない。


傷跡にそっと指を這わせる。国堂は少しだけ驚いていた。


「……そういうことじゃなくて……、っその、死な、ないで下さいよ」


痛々しい傷跡。決して小さな傷ではない。これだけ縫われていれば出血量もかなりのものだったことは、平凡な俺だって容易に想像出来る。

狙われた場所が、心臓ではなくとも、出血多量で生死を彷徨う可能性は十分に有り得たはずだ。


こちらとしては心配の意味を込めて言ったつもりなのだが、上から「ふはっ」と軽く吹き出した声が降りてきた。


「こっちはそれなりに心配して言ってるんですけど……」


それを笑われれば、少し不貞腐れるし、損した気分になる。


「いやいや……、戦地に旦那送り出す奥さんみたいなこと言うなぁとおもて……。んふっ、好きやなんや分からん言うたのに、そういうことは言うんやなぁ」


「……やっぱ何でもないです。死にたきゃどうぞ」


「死なへんよ、死んだら澄華君守れんやん」


冗談交じりな気もするが、俺は顔を横に逸らす。口を開かずにいれば、国堂は、 「じゃあ」と一言口にすれば、彼のベッドに置かれていない方の手が、俺の服の裾を持ち上げた。突然の出来事に身体を強ばらせてしまった。


腰骨辺りから肋骨辺りまでを手で撫でれば、服の裾は、胸下まで上がってきた。


「おー、肉ないなぁ」


雰囲気を壊すようなことをケタケタ笑いながら言ってくる。別に雰囲気を大事にしろとは言わないが。


ふくよかな訳でもないが、鍛えられた肉もない。つまりはガリガリ。骨が浮き出るほどではないが、触ればすぐに固いあばら骨が見つかる。


そこから上へと上げることなく、背に腕を回し、背筋をなぞり上げてくる。思わず「ひぃ」と声が上がる。

ゾワゾワと寒気を感じる。悪戯な子供みたいなことをする。


素肌を触れられると、身体が固まる。嫌などとそういう訳ではない。ただ、どうすれば正解なのかも分からない。


勢い余って訪れたは良いが、ここまで事が進むとは考えていなかった。

ビク、ビクと肌をなぞられる度に身体が浮き上がる。

何をするかは分かっている。だけど、敷かれる方をしたことは一度としてない。未経験なことに怯えるなという方が難しい話だ。


受け入れようとはしているが、心の余裕と身体の本能的な反応は、どちらかというと拒んでいる。



(……っ覚悟は、決めたんだから)



せめて、今だけは男を見せろと目を強く瞑る。


「……っぶ」


すると、何とも状況に似合わない声が聞こえた。国堂は俺の肌から手を離し、自分の口元を抑えている。

俺は瞑った目を開き、ポカンとする。


「ふふ、澄華君。じょーだんや」


「……はっ?」


抑えようとしていても漏れてしまうのか、わざと漏らしているのかは分からないが、「ぶふっ」と爆発するように吹き出す男が目の前にいる。

こちらの覚悟など無視するかのように。


(……じょう、だん……?)


国堂の言葉の意味を数秒考える。どう変換しても、『冗談』という文字しか見えてこない。


「こぉんな急に抱かへんよぉ」


「は!?」


俺の決死の覚悟は水の泡。完全にそういうムードかと思えば、最初からする気はサラサラなかったらしい。

俺は驚く声に国堂は、眉尻を垂れ下げて、俺の頬に指の背を優しく擦り付けた。


「別に誘われたら、せんことないけどなぁ」


そんなことはないだろうと「あはは」と高らかに笑う。


呆気に取られる俺に、いつもの細い糸目のまま柔らかい視線を向ける。


「そういうんが目的ちゃうからなぁ」


そう言えば、国堂は身体を起こし、ベッド上に胡座をかいて座る。俺を逃げないようにと囲うこともしない。


「……身体目的やないし、勢い任せにやって本気で逃げられる方が嫌やわぁ」


「っ、別に逃げるなんて……」


「嫌なことは嫌やって言い? 損するで」


(別に嫌って訳じゃ────)


敢えて口にして訂正はしなかった。


俺も身体を起こし、国堂と座って向かい合う。下唇を弱く噛みながら、何を言えば良いか探っている。


「無理に抱く気もないし、首輪つけて監禁する気ぃもない」


案外身が震えるようなことを言ってきた。


「怯えさすんこともしぃひん。……ただ────」


流れのまま言葉を続けず、口を閉じれば、初めて見るかもしれない。


何か愛おしそうな物を見る目で、こちらを見つめてくる。

そして、ゆったりと片腕を伸ばしてくる。

俺の頬に触れ、滑り落ち、首まで鎖骨まで手を這わせる。少々くすぐったくて声が出そうだった。


「もぉ逃がすことは出来へんよ?」


細い間から黒い瞳が光って見える。少しだけ揺らめいて、幼く見えた。

いつもの人を追い詰めて弄ぶような顔ではなく、情けなく乞うように、この男が言うものだから──────


「……はい」


(初めっから逃がす気なんてなかったような)


付け加えるか迷ったが、変に勿体つけずに、そんな二文字だけを返した。


そうすれば、瞼を落とし、僅かに顔を下げて「ひひひ」と意味有り気な笑いを落とす。


訳せば束縛すると言っているのと同意味だが、それに鬱陶しいとも、重たいとも思わない。

顔の整い方も、育ちの環境も、同じなものは、ほとんど無い。

しかし、何故だかお似合いだと思える。ねじ曲がった考えを持った二人だからに違いない。


そこから何も続けなければ、国堂は顔を傾けて


「"好き"とか言ったろか?」


などと言い始めた。


「別に要らないです」


すっぱりと必要ないと断る。


「要らないって辛辣やなぁ、普通欲しいもんちゃうの?」


「言われても俺はそう返しませんよ。俺はそんなもんじゃないって。言葉一つで片付くものじゃないんで」


「えぇ、愛されてるって解釈してええの?」


「……好きとか、愛してるとか、そんな素敵な気持ちがないと駄目ですか?」


ジッと見つめながら問いかけると────


「んなことないで。欲しいん言うなら、それだけで結構や」


この問いかけにこんな返しをしてくれるのは、恐らくこの変人くらいだろう。


多数派じゃない。真っ直ぐに愛があると紡げる方が綺麗なのかもしれない。


これを恋などと呼べない。呼んではいけない気がする。



けれど、どれだけ汚れていても、結論は、『アンタが欲しい』。それだけだ。

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