第19話
19
この男からの優しい言葉や甘い囁きが欲しかった訳ではない。
俺自身がロマンチストな人間に変わった訳でも、ましてや少女漫画のヒロインになった訳でもないのだ。
今までの表面上の俺は、自分を所謂世間での普通、一般を模範にして作り上げていただけに過ぎなかった。
しかし今となっては、国堂麗士という男に出会ったせいで、この男に見抜かれたせいで、自身でも気付かなかった、見ないようにしていた自分の本性とやらに目を向ける覚悟を決めただけだ。
「若いってええなぁ、肌すべすべや」
「若いって……、俺、二十歳超えてますし……、アンタとそう変わらないと思いますけど」
「んふふ、確かにそれはそうなんやけどなぁ。なぁんか澄華君って、変に落ち着きあるのに子供っぽく見えてまうねん」
「……馬鹿にしてますね」
ニヤニヤした笑みのまま、俺を見下ろした国堂は、俺の頬を手のひらで撫でてくる。
男が男にされる光景としては異様だった。
しかし、それを恋人などという名を与えてしまったら、稀な光景とは言えないのだろう。
(普通、女の子だったらこんな風にされたら何か感じるものがあるんだろうか……)
俺はただ、目の前にいる男を見上げているだけで、何をどうすれば良いのかも分からなかった。
甘ったるいクサイ台詞は俺たちの間に必要なのだろうか。互いにそんなものを求めているのだろうか。
いや、どちらもそんなものを求めるような人間ではない。それだけだ。
俺はゆっくりと頬を撫でている国堂の手の甲に触れた。引き離そうとはしなかった。止めろ、という意味でもなく、ただ触っただけ。
それを感じ取った国堂は何を言う訳でもなく、手を止めた。
数回、彼の細い目が瞬く。一度俺の触れた手に視線を向け、すぐに俺の顔へと視線が戻ってきた。
僅かな間をあけると、嫌に口角が弧を描く。
(部屋に入るのを拒否しなかった時点で────)
「……触ってええんか?」
「さっきから触ってるじゃないですか」
すぐそこにある国堂の手を見て言えば、「そういう意味やなくて」と口にしたところで言葉は途切れる。
理解をしたのか、にんまりとした厭らしく、何か言いたげな顔をこちらに向けてくる。
眉尻を下げて、頬は若干上がる。唇が歪んで口元が何か言いたげにもごもごと動く。
(あぁ、いつもこんな顔、してたのか)
この男が作り笑いでは無く、欲を満たされた時にする本心からの笑みを浮かべる時にしてしまう仕草、癖なのだろう。
手で口元を覆い、笑った顔を隠す。
しかし、今は隠そうとはしなかった。逆に見せつけているかのようにも受け取れた。
酷く崩れた顔だ。変態のする顔だ。何かやらしいことを考えている顔に違いない。
元の顔が良くなければ、周囲が引いてもおかしくはない。
そんな変態じみた笑みを浮かばせた国堂は、俺の触れた指から逃げるように滑らせて、俺の手首を指でなぞる。
変にゆっくりとする動きに何だか変な気が起こりそうだ。
この男の、そういう雰囲気への持っていき方がコレなのかもしれない。
俺よりも大きい手に手首を掴まれる。やんわりと締め付け、親指を擦り付けるように動かしてきた。
逆の手が、そっと俺の顎を持つ。その仕草に俺は、少しだけ肩を揺らして驚いた。
分かっていたことだが、何だかソワソワする。同性とこういうことすることが初めてだからだろうか。
それとも、この男にされるからなのだろうか。
国堂の口から「好き」だとか「愛してる」だとかはない。だけど、それで良いと思えたし、何故だか安心すら出来た。
言われたとして小っ恥ずかしいし、それに返す言葉を口にするのは、更に恥ずかしい。
整った顔が俺の顔の高さまで降りてくる。されるがまま、受け身でギュッと目を閉じるのは、何だか癪だった。
だから、唇が触れるまで伏し目ながら目を開けていた。
僅かに触れたのを感じてから、目を徐々に閉じていく。やけに胸辺りが騒がしい。
頬、首の後ろが熱を持ったようだった。
いつの間にか手首を掴んでいたはずの手が、俺の手のひらに重なり、俺の指と指の間に国堂の指がはめられていく。
やり場のない俺の片手は意味もなく国堂の服の裾を掴んだ。
一度唇が離れた。それを合図に俺はまた、ゆっくりと目を開ける。
「っ!」
目の前には、寝ているかと勘違いするほどの細い吊り目ではなく、黒く丸い瞳が、窺うようにして、こちらをジッと見ていた。吸い込まれそうになる。
こんな近距離で見開かれたこの男の瞳を見ることになるとは思わなかったので驚いた。
若干強ばった手には汗をかき、ビクリと震えた。それを察知したのか、より強い力で俺の手を握り締めてくる。それは痛いほどだった。
何か言うこともすることも出来ないまま、また狐の顔がこちらへと迫ってきた。
触れる、よりも押し当てられるに近い強さで俺にキスをしてきた。
微かに開いていた唇の隙間から器用に舌を入れてきたところから、経験済みであることは明確だ。
こんな容姿だ。経験がない訳がない。それくらい既に分かりきっていたことだ。
ここに嫉妬だなんだを持ったところで意味は無い。過去は変わらない。
小さく自分の口から漏れる息、声がどうにも複雑な気持ちにさせる。しかし抑えようとして抑えられるものでは無い。
次に唇が離れると、少しだけ唾液が垂れた。また来るかとも思ったが、そうではなかった。
ふわりと嗅いだ記憶のある香りがした。
首元に香水をつけているのだろうか、その辺りの近くは匂いが濃かった。
「っ、おぃ……」
次に狙われたのは、口元ではなく、首であった。口付けではない。俺の右頬に国堂の髪の毛が当たる。くすぐったい。
そして、首筋に沿うようにして、熱くぬるりとしたものが滑っていく感覚。
思わず、裾から手を離し、国堂の固い胸板を押し返すようにして、声をかける。
「ぁ?」
それに反応するようにして、舌を這わせながら小さく返事をしたが、その息が首にかかり、ゾワリとする。
思わず「ひっ」と声をあげてしまった。
情けない俺の鳴き声に国堂は、瞬きをした。伝った舌は鎖骨上まで落ちていた。止まってから、一度強めに吸えば、国堂はまた俺の真正面に自分の顔を持ってきた。
「……首、弱かった?」
弱点を見つけた、と言わんばかりの顔で問い質してくる。
「……くすぐったかっただけです」
否定とも肯定とも言えない返しをした。強く反論しようともこの男を楽しませるだけに違いない。
「あ、そ」と言えば、目を伏せて、楽しそうに口元を緩ませた。
じんわりと鎖骨の皮膚が熱い。強く吸われたからだ。鬱血痕になっている気がするが、自分からは見えないので確認することは出来ない。
握られていた手は解かれ、俺と国堂は向かい合っている。ニタニタした嫌な笑顔をやめる気配はない。
自分が笑われているようで居心地が良くは無い。無言のままその顔で見られるのは御免だ。
「俺も俺だと思いますけど、国堂さんも趣味悪いっすよね」
「えぇ? そんなこと言わんとってや」
「……俺みたいなの、国堂さんからしたら餓鬼でしかないのに、わざわざ手間暇かけて……」
思えばどちらが先に相手を想ったのか、それは間違えなく向こうだ。俺は常連客として、目立つ風貌も相まって記憶していたに過ぎない。自分は、自分の歪な本心を見ない振りしてきた。
つまり、話す機会さえなければ、俺たちは交わらなかったはずで、今のこの状況は有り得ないものだ。
俺自身がこんな歪んだ気持ちを持っていることに、気付かされることもなかったに違いない。
「最初は興味本心だったんやけどなぁ。見た目に食い掴んで、向けられた視線は無気力、だけど、何処か何かを欲している影が見えて……、関われば、大人っぽいかと思えば、案外子供でー……、まぁ何やろなぁ、気持ちが昂るねん」
「俺の何処にそんか気が起こるのか分かんないっすね、ただの大学生ですよ」
顔を背けてそう言えば「あはは」と笑う国堂は、くるりと回り、俺から遠のいた。
気持ちの面で距離を取られた、ということではない。
室内は案外質素なもので、生活感がほとんどない。何か飾りっけのあるものもない。家具だって廊下から見えていた机とソファー、ベッド以外はめぼしい物は見当たらない。
ふらふらと国堂が向かったのは、恐らく彼用のベッドである。そこに腰を下ろすと、ギッと軋んだ音がした。
「ふぅ」と一息つけば、俺の方を見る。
「……なんや警戒しとる?」
「…………」
足を踏み出さない俺の姿を見て、尋ねてくる。
「してない」と返せば良いものを、本当に警戒心を持っているものだから反射的に返すことは出来なかった。
立ち尽くす俺に、国堂は「ふっ」と静かに笑う。
「別に無理強いはせぇへんよ。そんなんして嫌われたないし」
これは本心か、それとも俺を試す遊びか。
首を傾げながらそう言う国堂は、「こちらに来い」とも、「出ていけ」とも言わない。ジッと薄い笑みを浮かべて、俺の選択を待っている。
(覚悟は、ある……でも、怖くないと言ったら嘘になる)
一層のこと無理強いでも強行突破でもしてくれた方が何も考えず、責任逃れも出来て楽だな、とも思った。そんな甘いことはさせないのがこの狐野郎だ。
しかし、困った。
恐怖心を持ちながらも、部屋から出る気がサラサラない自分に。
俺もゆっくりと足を進めて、国堂の前に立ちはだかる。
今度は国堂が俺を見上げ、俺が国堂を見下ろす。見つめ合ってもなお、国堂が、動く気配はなく、口元を緩ませているだけであった。
俺はゴクリと喉を鳴らしてから、ぎこちなく片手を差し出す。先程の国堂がしたように、次は俺が国堂の頬を撫でる。手は若干震えている。
しゃがみ、顔をベッドに座る国堂の目線の高さに合わせる。
そして今度は俺から顔を近付け、国堂の薄い唇を目で捉え、位置を間違えないように確認してから、目を閉じてキスをした。
手も唇も、閉じた瞼すらも脈を打っているようで震えが止まらない。
しかし、この行動が国堂の無理強いでも、強制でもなく、間違いない俺の意思で了承したことを表したものだ。
もう、俺たちは後に引けないところまで来てしまったのだ。
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