第18話

18


いつ聞いても胡散臭さが拭えない声質、抑揚。姿は見えずとも、この先の部屋の中には、国堂麗士という男がいることを知らせる。


ノックをしたはいいが、扉を開けるためのノブに手が伸びていかない。

指先は冷えている気がするのに、じんわりと手汗をかいている気もする。


すると、中から小さな音が聞こえ、それが徐々に大きくなる。

それが足音であることに気付けば、心音が加速する。

深呼吸する隙もない。何も考えずにすぐさま扉を叩いた自分が馬鹿だった。




付き合った経験はある。それは異性であり、向こうからの告白だ。

彼女たちもこれほど、言う前は緊張とも恐怖とも言えない感情に陥ったのだろうか。

それならば俺は申し訳ないと思う。


告白に頷いたのは、好きだったから、じゃなくて、嫌ではなかったから。プラスかマイナスかと言えば、プラスの想いがあったから。

そんな適当なものだった気がする。


それを『好き』とは言わない。及第点に達していた。言葉は悪いが、そういうことになる。


彼女たちのその時の真意は分からない。どれだけ俺を好きと思っていたか、もしかしたらただ単に付き合う人が欲しくて、その餌食になったのが俺だったのかもしれない。


(……こう考えるのも失礼か)


近付いたが、ドアノブに触れようとはしない俺の手。

そのドアノブが音をたてて、動いた。中からそれを掴んだ男がいるのだから。


「なんやねん……、ノックしたんやったら入ってこいや……」


扉を開く動作と共に愚痴めいたことを言っていた。いつもよりも低く、抑揚がなくなった。それに似た声を聞いたことがある。


店の前で暴力騒ぎになったあの夜。助けを求め、ヤクザということすら知らなかった国堂に電話をした時のことだ。


電話に出た時の声。そして、切り際の声。


どちらも俺に対してではない、あの声だ。


扉が開ききれば、国堂はこちらに目を向けずに、片手で自身の後頭部を鷲掴むようにして、掻いていた。眉間に皺を寄せ、瞼を閉じている。

不格好な時もあったが、いつも一つに結ばれていた髪の毛を今日は全て下ろしていた。

掻き毟ればボサボサが増す髪の毛。長髪でそんなだらし無さがあっても様になるのが嫌な所だ。


機嫌が悪く、眠そうである。元々ぱっちりと目を開く人間では無いが、閉じたものを少しずつ開いていけば、こちらと目が合う。


「……えっ」


目が合って、一秒くらい見合えば、一気に瞼が上に上がった。驚きを表したものであった。

髪に触れていた手は動きを止める。

指の隙間から、持ち上げられていた髪の束がスルスルと流れ落ちる。


「澄華君……、なんで、こんなとこおんの……」


「……入れて、もらったんで……」


入れてもらった、というよりも後を着いてきたという方が正しい。

扉の方に近付けていた片手を引っ込めて、逆の手で握る。意味も無く、握った手は、握る力を強めたり、弱めたりする。


「……入れて……、ぁあ……、宗か……」


口を開き、覗かせた瞳を僅かに横に向けた。一瞬で疑問の答えを見つけたようだ。

察しの良い兄弟だ。


俺は正解と言うように、一つ小さく頷いた。

そうすれば、部屋の入口の縁部分に頭を置くように傾けた。


不機嫌だった顔が、急にいつも通りになる。


「んで、どうしたん?」


(……なんで俺にはコレなんだ)


狐のような糸目になり、陽気な話し方へと変わる。カラッとした高い声になり、まるで高値で物を売付ける愛想だけが良い売人みたいだ。


「……またな、って言ったの、アンタでしょ」


「ぁー、言ったか、なぁ? でもわざわざ澄華君の方から来るとは思わんかったなぁ」


(やっぱり口先だけかよ)


あれに深い意味などない。純情な恋愛ドラマや漫画みたいな約束ではない。


人を翻弄させるだけさせておいて、当の言った本人はこれなのだから。


「……覚えてないんすね」


俺はボソリと呟く。


「覚えとって、欲しかった? ……避けとったのはそっちやろ?」


ふざけたように問い掛ける国堂。何だか上に立たれた気分だ。

『欲しかった?』 なんて余裕がある方が聞くことだ。


(……まぁ、避けてたのは、事実だし、何も言えないけど)


勘違いの末、恋人関係かもしれない二人の間に割入ろうなんて思う訳ない、自分は国堂のことを何とも思っていない、などという現実逃避して、楽な方に行きたかった気持ちから、この男から逃げた。


そして、結局は何とも思っていない、なんてデマカセは、自分の中で消え去った。

一人であたふたと悩んで恥をかいたことが、黒歴史として刻まれることは間違いない。


ニヤニヤとした表情で、腕を組みながら、頭を壁にもたれされるようにして立つ国堂。

何だか初めから操られていたような気がしてならない。


「別に、どっちでも良かったです。……でも──」


「でも?」


俺は斜め下に目を向ける。そして、途切れた言葉の続きを喋る。


「……ムカついたで。アンタの手の上で転がされて、遊ばれることに」


八つ当たりのように唇を尖らせながらも、国堂に言うと、言葉が中々返ってこなかった。


数秒置いてから「ぃひっ」と、時々出る国堂の不吉な笑い声が漏れた。


「……随分、可愛らしなったなぁ。澄華君は。ついこの前までは、イヤイヤしとったのに」


「馬鹿にしてますよね」


「ちゃうちゃう。想定外やった言う話や。……イヤイヤするのを時間かけて落とすはずやったんやけどなぁ」


何だか少し楽しみが取られた子供のような、残念がる顔を見せる国堂。


「……だとしたら、俺からしたら嬉しい話っすね」


「……へぇ」


この男の想定から外れたならば、俺の望んだことだ。

しかし、俺の言葉に対して意味を問わない。

視線をまた上げて、国堂の顔へと向ける。


口角を引き上げて、ニタニタと嫌な笑みを浮かべている。


「想定外なことに落ちるの早くて、呆れましたか?」


「んー?」


「……国堂さんが好みなの、自分に興味無い人なんでしょ」


言ったのはこの男だ。自分に興味無い人や無関心な人の気を引くことが好きだと。

無関心な奴が、嫌々ながら気を取られ始めるのが良いのだと。


今の俺は、どちらにも当てはまらない。


認めた。俺はこの男に気がある。嫌々ではあったが、もうすんなり認めた。認めることを今は、否定しようとは思わない。


「……俺は今、アンタに興味、ありますよ」


恥など言ってられない。恥じていることを伝えるような行動を取れば、この男の思う壷だ。それも腹立たしい。


その言葉は、曲がってはいるが、伝わりづらい告白と捉えられる。

真っ直ぐに『好き』なんて言えない、言わないのは、そんな単純で、綺麗で、純情なものではないから。


世間一般に言う『好き』はきっと、こういうものではない。

自分を安全圏から危険な方に連れて行って欲しい、だから『好き』だ、なんておかしいに決まっているんだ。


また国堂は黙る。俺の見つめる目と国堂の目は確かにかち合っているはずだ。


上げていた口角は下りており、真顔状態のただの狐顔だ。

しかし、それは徐々に形を崩す。


(……口元を手で覆うの、やっぱり癖なんだな)


胡散臭い愛想笑いみたいな時は、この仕草をしない。本心で笑みを浮かべる時にだけ、口元を隠す。恐らくそういう癖なのだろう。

その隠れた口元から「けひっ」とこれまた不気味な笑い声だ。


「ひひひ……、それやったら、まるで俺がポイ捨てするみたいやんか。興味示さん子の気ぃ引くだけ引いて、引いたらもうお終い、なんて。俺、そんな酷い奴ちゃうで」


(計算して、人との距離詰めたり、離したりして遠くから面白がる奴が何を言ってんだ)


内心そんなことを申し立てたが、そんなことはどうでも良いか、と口にはしなかった。



「……澄華君。君ぃ、やっぱり俺のタイプやわぁ」



眉尻が垂れる。これは可哀想な子に、歩み寄る優しい眼差しでもない。


ただ単に、自身の欲求が満たされ、満足したという顔だ。

笑顔や嬉し泣きなどでもすれば、良いものなのに。

不気味で、ぞわりと背筋を凍らせる顔になる。


「興味無かった目ぇも、見た目で判断して媚びてこんのも、反抗しながらも段々と落ちていく可哀想なとこも……、俺の想定を脱して嬉しそうなんも。……ええなぁ、従順やないなら、とことんそうやない方が可愛ええわ」


宗士は言っていた。俺も国堂も理解し難い、と。変だ、と。


(……確かにそうなのかもしれない)


俺だって今、国堂が口にしたことに賛同なんてしないし、そうだと思うこともない。


けれど、平穏を保ちたいという精神を壊してくれる人間を欲しがる俺の欲求を、国堂も理解はしないだろう。

人それぞれ考え方も違えば、求めるものを違うのだ。そうやって正当化する。


一般が、格好良い姿や、性格の良い奴を好きになる理由だと言うのなら、俺たちのこれは、一般から外れたものだ。


しかし、国堂の言う、理想が従順じゃない人間。それが俺であり、俺の思う理想の自身の生活を覆してくれる人間が国堂であるとすれば、それは想いの矢印は互いに向いているのだ。


過程はどうであれ、結果が互いが互いを欲するという意味で同じなのであれば、一般的な言葉で、『両想い』などという小っ恥ずかしいものになる。


「……俺は国堂さんが好きかって聞かれても、それに大きく頷くことは出来ません……。でも、俺が欲しいのはアンタみたいな人で、今まで出会ったのが、アンタだけ。……だからアンタ以外を欲しいとは思いません。……今は」


「ひひっ、それは嬉しい話やなぁ」


好きだと断言出来ないという話をこの男は、ケラケラと笑って、「嬉しい」などと口にする。


「……嬉しいと、思うことじゃないと思いますけど……。普通、貴方だけが好きって言われた方が嬉しいんじゃないんすか」


「あははっ、どうなんやろうなぁ。……俺には、そう言われるよりも、澄華君の言い方の方が好きやなぁ。そこまで言われた方が、本心って感じ、せぇへんか?」


「……分かんないっす」


「だぁって、何十年も一緒におった訳やないのに、君しか好きやない言われてもなぁ。……何処か、嘘臭いやろ」


(世間的に言えば、そっちの方が正しい。そう言われた方が良いに決まっているのに)


俺と、国堂の二人は恐らく、愛だの恋だのの感性の根本的な所が腐っているのか、曲がっているのか。


(……俺もそう、思っちゃうんだよなぁ)


ひねくれていることは自分たちが一番よく分かっているし、その考えを皆に理解して欲しいとも思わない。


それを理解し合えているのが、ここ二人であるなら、お似合い、という話だ。


「……きっと、俺も国堂さんも、歪んでるんでしょうね。他人からしたら」


俺は情けない声で笑い、そう言う。


「多数派、ではないやろうなぁ。……理想の考え方は、俺らみたいなのではないやろ。でも、人それぞれやからな」


達観したような面持ちで、言うものだ。人それぞれ、などと言われてしまえば、そうだとしか言えない。


「……ふふ。ええねん、歪んでても何でも。どっちも歪んどったら真っ直ぐみたいなもんや」


「……どういう論理すか……」


冗談めいたような言葉。それに意味は無い。軽く笑うのは、余裕な大人を見せつけているようだった。




「……なぁ、澄華君」


カラカラ笑っていた国堂の声が止み、間を置いてから名前を呼ばれて、一度ひん曲がった彼の自論について考えることを止めた。


「……なんすか……」


俺は眉を顰め、少し身構えるようにした。

理由は、目の前の男が悪戯っぽく、企んだ顔を浮かべているから。


組んでいた国堂の腕が解かれる。それがゆっくりに見えた。

そして解いて、片腕を身体の横にダランと下げた。


もう片方は、手のひらを上に向けて俺の方へと差し出す。俺の頭には疑問を浮かべる。一度手のひらに目を向けてから、目を国堂の顔へと移す。



「…………部屋。入るか?」


身体が一度ビクリと身震いしてから、硬直する。口から一つ「はっ」と息が漏れた。

国堂の身体に阻まれた彼の部屋の中は、よくは見えない。


電気もついていない薄暗い中に、二人がけのソファーと、紙束の置かれたデスクが一つ。壁際には、大きめなベッド。

それくらいの情報しかここからでは確認出来なかった。


誘うの言葉か、またもや弄ぶ言葉なだけか。

その手を嬉々として瞬時に取ることは出来なかった。


「どないする?」


挑発的に口にする。

ここで臆すれば、またこの男の調子に乗せられるだろう。それは嫌だが、入ることに臆しているのは本当だ。


(……別に、何かされる……、なんて決まった訳では無い……が)


さすがに二十歳を超えて、何も知らないという純粋な少年の脳には戻れない。

足がどうにも張り付いたように動かない。前にも後ろにも。


「……俺らはまだ、何もない関係やで。ここで危ない綱、渡るんも、引き返すんも、澄華君の勝手や」


(酷いことを選択させる気だ)


渡ればどうなるか分からない。安全なのは、引き返すこと。引き返して、国堂が俺への興味を失うかどうかは分からないが、渡れば何か関係を持つ、ということを示唆する言い方をする。


戻れば、引き下がれば、俺は安全だ。


────また、これまで通り、普通な当たり障りない生活を送れるのだ。



俺は開かれた大きな手のひらを見てから、国堂の瞳を視界に入れた。

数秒見てから、俺の足は一歩後ろへと下がりかける。


浮いた足を床につける前に国堂は、また手の中で口をくすり、と笑わせた。


「……やっぱ、澄華君は、正直モンやなぁ」


ゆるりと差し出されていたはずの手が、勢いをつけて真っ直ぐにこちらへと伸びてきた。

上体を後ろへと傾けていたはずの俺の片腕を国堂が、強く掴んだ。


俺はそれに驚きはしなかった。少しだけ痛いと思ったくらいだ。

読めていた、この男はこうするのだろう、と。


掴んだ腕を一気に寄せられる。磁石のように吸い寄せられる。バランスを崩しながら、後ろに下げたはずの足は、部屋と廊下の境目を跨いだ。


引かれたまま、俺の顔はトン、と国堂の胸辺りに倒れるようにしてぶつかる。

背後でドアノブがカチャン、と音を立てた。


驚きはしなかったが、ドクンと大きく脈を打つ。喉奥がドクドク鳴っている気がする。気のせいだろうか。


器用に俺を引き寄せて、もう片方の手で扉を閉めた。


俺は綱を渡った。渡らされた。


香ったのは、いつか嗅いだ国堂の香水の匂いだった。

男物か女物かも未だに知らない。この男の香水であることしか分からない。


「……いひ、目ぇが渡りたい、渡らせて欲しい、言うてたで。……自分で渡って、平穏壊されんのは、本望やないもんなぁ。……誰かに、無理矢理壊されたい。な? そぉやったな、澄華君?」


上で薄気味悪く笑いながら、断言しながら問いかけるのだから、性格が悪い男だ。


「……そんなこと、知らないっす」


顔をモゾっと微かに動かして、知らないフリをする。

大袈裟にわざとらしく、国堂が勘づくように彼の目を見たのは、俺だ。

答えなど、最初から決まっていた。腹いせに、引き下がるフリをしたが、間違えた。


(……従順なフリをしておけば、良かったか)


意地の悪い考えを巡らせるのだから、俺も性格が悪いのだと、国堂の香水に囲まれながらそう思って、俺は瞼をゆっくりと閉ざした。

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