第10話

10


夜の風はまだ冷たい。頬が感じた冷たさで、ハッと我に返る。


「は……な、せっ!」


俺の顔を掴んでいた国堂の手を強く払い、間を取るようにして後ろに下がる。

ペシッと肌と肌が打ち合い、国堂の手は赤くなっていた。それを一目見てから「いてて」と、全く痛そうではない顔をして言う。


俺は頭を数回振る。

自分の目にはそんな欲が見え隠れしていた、なんて、この男が諭したことを信じたくはなかった。


(違う……っ、惑わされるな、この男の口車に乗せられて翻弄されるな……)


どうしても受け入れたくはなかった。


思考が操られたようだった。

国堂の言うことが全て正しいと思い込むところであった。


わざとらしく払いのけた手の甲に息を吹きかけている国堂を睨むようにした。

それに気付いてか、見えていなかった瞳が片方だけをこちらに見せつけてきた。


「……俺で、遊んでますよね……。ていうか、意識なんてそりゃするでしょ……、誰でも……、親しくもなかった人にあんだけ近付かれて」


「そういうもんやろか。そうやとしたら、俺のやったことは正しかったってことやなぁ……。澄華君の気ぃ引けたいうんなら」


また大きな手のひらで、顔半分を隠す。しかし、不気味に引き上がった唇と、悪戯を楽しむ厭らしさを感じる目はこちらに隠す気はまるでない。

挑発しているように思えてならない。


(ムカつく男だ……)




────「麗士」


また鐘がカラコロと鳴る。

国堂の背後に誰かの影が見えた。自身の名前を呼ばれた国堂は、ゆっくりと顔だけを振り向かせた。


「何してる」


温かみの無い冷たい重低音。抑揚もない。


「……ソウ。……何でもあらへんよ」


背を向けられ、国堂の顔は見えない。


(……ソウ……?)


奥にいたのは、先程国堂の横に座っていた無口な色眼鏡の男であった。

彼の名前が『ソウ』と言うのだろう。


「……長居し過ぎだ。そろそろ戻るぞ」


(……やはり組の人間か? ……でも、若頭と言われた国堂に対して、タメ口……)


以前、専属運転手と言われていたスキンヘッドの男は、国堂のことを『麗士さん』と呼んでいた。

しかし、この男は『麗士』と呼んだ。


(国堂よりも偉いのか? いや……、国堂も『ソウ』って、呼び捨て……)


ヤクザの上下関係はよく分からないが、若頭の上はもう頭しかいないのではないだろうか。


歳もそう離れている訳でも無さそうだ。どちらも二十代前半の風貌を持っている。


「……あー、分かった分かった。お姉さんたちに挨拶だけしてくるわ」


(案外、あっさりと言うこと聞くんだな……)


俺には意地悪く弄ぶようにして、うだうだ言いながら接してくるくせに、この男相手には二つ返事で了承する。


一度くるりとこちらを向いた国堂にドキリとする。

そして間合いを取ったはずなのに、国堂の長い足がすぐさま、その中に入ってくる。

ゆっくりと国堂の腕が伸びてきた。


「……ほんなら、またな。澄華君」


やはり俺には裏のある笑みばかりを見せつけてくる。

手の甲を俺の頬に擦らせ、一言残す。

突然触れてくるものだから、肩をビクリと震わせてしまった。


良い顔が近くに来れば、顔を硬直させてしまう。唇をギュッと結んだ俺を見て、子供らしく思えたのか、くすり、と笑えば手を遠ざけ、店の方を向き、ゆったりと歩き始めた。


言ったように早瀬のお姉さんたちに挨拶に行ったのか、店の中に消えて行く。また、鐘がカランと静かに鳴る。


俺はそっと触れられた頬を上からなぞるようにして、手のひらを当てた。

少しだけ熱を持っている気がする。


(……やっぱり、またコンビニ、来る気なのか)


『またな』と言った国堂。それはまた、バイト先に客として来るという意味で捉えれば良いのだろうか。



「……おい」


胸が跳ね上がる。声を発したのは、先程まで口をほとんど開かなかった男だ。

国堂のことを『麗士』と呼んだ。そして国堂が『ソウ』と呼んだ男。


国堂とは真逆な声色で、重たく圧のかかる音。声を掛けられただけで緊張が走る。

今にも怒られそうな気分に陥る。


「…………麗士とどういう関係かは分からないが」


「……え」


どういう関係か、と言われても俺自身もよくは分からない。

客とコンビニの店員。その関係しか持っていなかったはずだが、今もそうなのかは曖昧なところだ。



「……麗士の言うことは、あんまり深く考えるな」


何とも冷酷な声だ。ふんわりと穏やかな国堂とは、似ても似つかない。

とても仲の良い関係を築けそうな二人には思えなかった。


「……深くって……」


オドオドした姿を晒すと、男は小さく溜息を吐いた。



「あいつの事だ。どうせ、遊んでいるだけだ。……人をおちょくるのが好きな餓鬼なんだ」


知っていた。理解している。俺で遊んでいるだけなのだろうと。



しかし、何だろう。


(……まるで、国堂のことを全部知りきっているような言い方……)


自分の方が、あの男と深い関係を持っているのだと主張している……、そんな風に思えてしまう。

また、胸の底に気持ち悪いものを抱える。正体が未だに分からない。


「人で遊ぶのが好きで、何人もがそれをされてきた。……あいつの言動一つに惑わされない方が良い。…………関わらないことを勧める」


何だろう。……牽制、なのかもしれない。


眼鏡の奥はどんな目なのかは見えることは無いが、こちらをじっと見ているのは分かる。

口も小さくしか動かないし、表情も全く豊かでは無い。


(関わらないことを、勧める……って)



「……俺から、関わろうなんて、思ってない、です……。向こうが、勝手に────」


言葉を続けようとすれば、ソウは遮るように口を挟んだ。


「そうか。なら良かった。……俺からも、あいつに言っておく」


「えっ」


(……良かった、良かった? 良かったってなんだ……)


ソウの言葉は変に引っ掛かる。俺が『関わりたくない』と言ったことに対して、『良かった』と、何故この男が安心したように言うのだ。


俺と国堂が関わりたくない、それが良かった。……関わり合って欲しくは、ない……。


悶々と頭の中でソウの言葉が駆け巡り、彼の真意を探ってしまう。

別にどうでも良いことなはずだ。そこまで気にすることもないことだ。

理由は分からないが、それが彼にとって『良かった』ことなんだと、腑に落とせば良いだけのことだ。


真意を探り、見つければ、また一つ考えなければいけないことが増える面倒が増えるんだから、探らなければ良いものを。


(俺と国堂が関わることは、この男にとっては、嫌なことで、して欲しくないこと……)


本能的に知ろうとしてしまう。



男がこちらから、後ろにある店の方へ振り向くと同時に、国堂が店から出てきた。

中から「また来てねー」と早瀬のお姉さんたちの甲高い声が聞こえた。


「麗士。行くぞ」


「んー、分かったってぇ」


やはりソウに大人しく従う国堂。俺と接している時とは態度が全然違う。

見るからに若僧で、年下だから馬鹿にされていただけなのだろうか。

普段であれば、あの態度が国堂本来のものなのだろうか。


じっと二人をやり取りを見ていれば、国堂が視線に気付き、また胡散臭い笑みを浮かべた。


「じゃあな、澄華君」


こちらにはそんな胡散臭いところばかり見せるくせに。

俺はそれに応じることはせず、目を逸らす。そのまま、ソウの方だけに目を向けると、相手はこちらを真っ直ぐに見ていた。


何だか、睨まれた気分だ。眼鏡をかけていながら、強面な顔が想像出来る。


ネオン街を並んで歩く二人の背に目を向ければ、本当に背が高く、モデル体型な男たちだ。

横を通り過ぎる女の集団が、彼らに目を奪われている。


あのソウという男と話す国堂は、俺や早瀬のお姉さんたちに対する顔とは全く違ったものを見せる。


その場にポツンと残された俺は、何だか帰路に歩き出せずにいた。

突っ立ったまま、脳内が色々なことを考え始める。


俺が国堂に関わって欲しくないと言う。

国堂の他とは違うソウにだけ見せる態度と顔。

タメ口で親しげな仲……。

若頭と呼ばれる国堂を下の名前で呼んでも、おかしくはない関係性。



(…………もしかして……)


一つ、二人の間の関係性に名前があるとしたら。


(無関心、無感情……、ソウの国堂に対する接し方からして、国堂の容姿やらに騒ぐタイプの人間でないことは確かだろう。あの男のタイプというものに当てはまっていてもおかしくはない)



俺は下唇をギュッと噛む。いい加減自己嫌悪に陥りそうだ。


先程の国堂も、やはり俺を弄んだだけ。一時的に遊べる玩具くらいにしか考えていなかったんだ。

本当に俺に気があるなんて、上手い言葉遣いで何度も騙されるところだった。


国堂が人に好まれそうなヘラヘラ顔をソウの前でしなかった理由は、彼に対してだけ不機嫌になる理由があったのではないだろうか。


ソウの言う『良かった』は、独占欲や嫉妬の意味を含んでいたのではないだろうか。



(あの二人は、恋人関係にあるのではないだろうか)



親しさや、呼び方。それぞれの態度。……俺の妄想でしかない二人の関係の設定。お節介極まりない。


しかし、そう考えれば納得出来る部分も大いにある。


あんな男女相手に不自由無さそうな男が俺みたいのに深々と関わってきたことにも頷ける。


理由は知らないが、二人の間で揉め事か何かがあり、国堂は恋人を挑発する素振りを見せつけた。

それに巻き込まれたのが俺。気のある風を装った言葉を巧みに遣い、一時の痴話喧嘩の良い材料として扱われた。


俺みたいなのが、他人のいざこざに利用されるモブになるなんて、非現実的らしいが、必ずしもないとは言えない。

だから、そんな奇妙な出来事も現実には存在するのだ、という現実味を感じる。

半年以上かけての痴話喧嘩。しかも手の込んだやり方。


(……車で一時間とかは、単なるハッタリだったのかもしれない)


何にせよ、俺はその二人の間にいる当て馬というやつじゃないか。

喧嘩中で機嫌が悪い国堂に目をつけられ、弄ばれている可哀想な役割だ。


(でもそんなどうでも良い当て馬をわざわざ助けるか? ……いや、あればっかりは本当にただの善意だったのかもしれない)


勝手に俺の妄想は大きくなっていく。

真相は分からない。恋人でもないのかもしれない。


だけど、あの国堂とソウの関係性は、俺と国堂の関係性よりも、深く、何かしらの意味を持っていることは確かだ。

同じ組だからとかではなく、もっと違う根本的な感情的な部分で。


(……疲れた。本当にあの男に関わってからろくな事がない。……ソウに言われた通り、やっぱりあの男には、関わらない方が良いのかもしれない)



向こうが飽きてくれるまで、維持を続ければ良いなんて考えは止めだ。もう意思を見せよう。


俺に関わるな。会いたくない、顔も見たくない、と。


意識が芽生えたならば、それを枯らせば良い。



────『警戒心を壊されて、何か刺激が欲している目』


「…………」


俺が知らなかった。知りたくもなかった俺を見透かしたと言わんばかりの顔で、口ぶりでそう言った。

俺自身それを信じかけたが、そうではないと思うことにした。

今まで気付かなかったのだから、それはあの男の勘違いで、そんな物は存在しなかったことにすれば良い。


(……例え、俺の気付かなかった本心の何処かにそんな感情があったとしても────)



それを壊して欲しいのは、お前では無いと言い張れば良い。


俺はぐったりとした疲弊と、謎の胸に残る気持ち悪さを家へと持ち帰ることになった。



ソファーに寝転がる。片腕を瞼の上に乗せ、視界を暗くする。

スン、と鼻で空気を吸い込むがもう国堂の香水の匂いはなく、いつも通りの部屋の匂いしかない。


瞼が重く、眠気が酷い。風呂に入る気にもならない。



あのコンビニでのバイトは辞めよう。それが、初めの国堂に対して見せる俺なりの拒絶の意思だ。

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