運命の番は真実の愛の夢を見る

むつき紫乃

第1話

 リーゼは幸せな花嫁になるはずだった。

 運命の恋だと信じた。

 それが呪いに変わるなんて。




 シャイデン国の始祖には獣人の血が混じっていて、大抵の貴族はその血を引いている。

 獣人の世界には運命で決められるつがいという存在がいる。誰にでもただ一人、出会った瞬間に惹かれ合う運命の相手がいるというのだ。だから普通はその相手と結婚する。

 シャイデン国でも昔はそうだった。けれど血が薄まった今では運命の番なんて滅多にいない。だから、運命の恋を夢見る令嬢たちも、やがては家のためにどこかの貴族に嫁ぐのだ。


 男爵家に生まれたリーゼもそうなるはずだった。

 運命が変わったのはデビューの夜会だ。

 きらめく会場には、誰もが振り向く美しい青年がいた。


 彼と目が合った瞬間、リーゼの身体を雷のような衝撃が貫いた。わけのわからぬ感覚に呆然としていると、視線の先でも同じように相手が目を見開く。

 彼はすぐに我に返ってリーゼの目の前にやってきた。

 間近で見たその容姿は、絵本から抜け出してきた王子様のようだった。さらさらの金髪に、深い青の瞳。相貌は整いすぎて作り物めいて見えるほどだったけれど、柔和な微笑が冷たさを打ち消し、温かな人柄を伝える。

 彼は優雅にお辞儀し、形のいい唇から柔らかな美声を響かせた。


「ヴェルマン公爵家のアルベルトです。君の名前を尋ねても?」

「リーゼ、と、申します。ラング男爵の娘です」

「では、リーゼ。君に結婚を申し込みたい」

「は、え……え?」


 周囲にどよめきが広がった。けれど、アルベルトは一心にリーゼだけを見つめている。

 見つめ合うだけで、胸の鼓動が速くなっていくのが分かった。頬が熱い。彼の表情にも同じ高揚が窺えた。


「君も気づいただろう? 僕たちは運命の番なんだよ。それとも、この胸の高鳴りは、僕の勘違いかな」


 照れくさそうな顔にちらりと不安の影がよぎって、リーゼはぎゅっと胸元を押さえた。苦しいほど胸が高鳴っている。


「い、いえ……私もそう、思います」


 答えると同時にわっと歓声が沸いた。

 今やシャイデン国ではめずらしい運命の番は、始祖の血を象徴する尊いものとなっていた。そして番は、生涯を添い遂げるべきものである。つまり、衆目の前で運命の番だと認めた時点で結婚に同意したも同然なのだった。

 けれど、リーゼの胸に後悔はなかった。アルベルトに接したほんのわずかな時間のうちにどんどん惹き付けられていく心を自覚していたからだ。


 この人となら素敵な恋ができる。

 だって運命なんだもの。


 このときのリーゼはそう信じて疑わなかった。




 ほどなく正式な婚約が結ばれた。

 貴族の結婚にまつわる手続きは煩雑で、取り決めることが多岐にわたる。二人は、その隙間を縫うように逢瀬を重ね、互いへの思いを深めた。

 ときにたくさんの花が咲き誇る庭園で。ときに昼下がりの光が満ちるテラスで。二人きりで語り合える時間は長くはなかったけれど、その分濃密に過ぎた。


 アルベルトは優しい。公爵家の嫡男だというのに偉ぶったところもなく、男爵家のリーゼを丁重に扱ってくれる。物腰も穏やかで、決して声を荒らげることはない。

 こんな素敵な男性だから、きっと過去には恋人の一人や二人いたのだろう。

 少し面白くない気持ちでリーゼが尋ねたときだけ、彼は表情を強張らせた。すぐに笑顔に戻って、そんなことないよと否定してくれたけど、一瞬その瞳にのぞいた暗い陰の色にリーゼは怯え、そのままうやむやにしてしまった。


 もしこのとき少し立ち止まって、隠された事情に思いをめぐらせていたら、結果は変わっていたのだろうか。


 リーゼはなにも気づかないまま結婚の日を迎えた。

 壮麗な大聖堂で二人は愛を誓った。公爵邸の広間で開かれた宴には、結婚を祝福するために多くの人が詰めかけた。

 隣には愛するアルベルトがいて、このとき確かにリーゼは幸せな花嫁だった。


 雲行きが怪しくなりはじめたのは、人酔いしたリーゼが一人で広間を離れ、外の空気を吸っていたときだ。


「クラウディア様は、まだ塞ぎ込んでらっしゃるのですって」

「仕方ないことじゃないかしら。将来を誓い合った恋人を横取りされたのだもの。夜会でお見かけしたときだって、とても仲睦まじそうだったのに。まさかこんなことになるなんて、ねえ……」


 物陰から聞こえてきたのは、才色兼備で有名な第二王女の噂話だった。リーゼは、遠目に見た美しく品のある佇まいを思い出し、非の打ち所のない彼女でも失恋することがあるのかとのんきに同情した。だから、続いて登場した身近な人の名前に息を呑むほど驚いた。


「アルベルト様も罪なことをなさいますわね。いくら運命の番が現れたからって恋人をこうも冷たく捨てるだなんて」


 その恋人がくだんの王女を指していることは、いくら察しが悪いと言われるリーゼでも分かった。


 つまりクラウディア様は、私のせいで捨てられた?


 二人が並ぶ姿を想像する。美しい王女と美しい公爵令息。怖いくらいにお似合いだった。彼らは仲睦まじく、将来を誓い合っていたという。

 先ほど聞こえてきた横取りという言葉がふっと頭に浮かぶ。


 ――それでも、今愛し合っているのは私のはず。


 自分は間違ってなんかいない。そう強く思い込もうとする。なにかが食い違っているような違和感が胸に広がったけれど、リーゼは気付かないふりをした。

 これは運命の恋なのだ。だから、間違いなどあるはずがない。

 懸命に自分に言い聞かせ、もと来た道を戻った。


 広間の真ん中では、リーゼと対になる衣装をまとったアルベルトが人に囲まれて談笑していた。そばに近づくと、彼はすぐにリーゼに気がついた。


「気分はよくなった? ……まだ少し顔色が悪いみたいだね。もう少し休んできたら?」


 真っ直ぐこちらを見つめる瞳は、後ろ暗いことなどなにひとつないかのように澄んでいる。胸の違和感が、また強くなった気がした。


「……大丈夫。あなたにばかり、お客様の相手を任せるのは申し訳ないもの」

「いいんだよ。リーゼはデビューして間もないんだし、僕を頼って、ゆっくり慣れてくれれば」

「でも……」


 リーゼがなおも遠慮しようとすると、アルベルトは苦笑し、さっと広間の様子を見回した。


「でも確かに、そろそろ僕らは退場してもいい頃合いかもね」

「え?」

「結婚の宴で主役が途中で抜けることは知っているだろう?」

「ええ、もちろん」


 宴に最後まで付き合っていたら日付けが変わってしまう。結婚した二人には、それより優先すべきものがある。

 昨日までのリーゼは、その先に待つものを想像しては真っ赤になっていた。けれど、今は別のことが引っかかる。

 なにも言えずにいるリーゼを恥じらっているとでも思ったのか、アルベルトは安心させるように微笑みかけると、客人たちに暇を告げ、リーゼを広間から連れ出した。


 手を引かれて廊下を進めば、にぎやかな空気は遠ざかっていく。やがて前方には開けたホールとそこから続く大階段が見えてくる。それを上った先にはもう、家族の私室や寝室しかない。

 身体を固くし、リーゼの足が止まりそうになったとき、視界の脇から白い影が飛び出した。


「アルベルト……!」


 声の主を視界に捉えてリーゼは目をみはった。二人を阻むように立ったのは、ドレス姿のクラウディアだった。どうやら夜会に紛れて公爵邸にやってきていたらしい。常に凛としている大きな瞳が、今は涙を浮かべてアルベルトを映す。


「本当にその子と結婚するつもりなの?」


 高貴に整った顔が悲痛さをたたえて切なげに歪む。今しがた聞いたばかりの噂話が胸によみがえり、リーゼは息苦しさを覚えた。けれど、応じるアルベルトの声はさえざえとしていた。


「おかしなことを言うね。結婚するつもり、じゃなくて、したんだよ」

「分かっているくせに。白い結婚は取り消せるわ。お願いもう一度考え直して!」

「何度考えたって変わらない。僕はリーゼを選ぶ」


 握られていた手が解かれたと思ったら、腰を引き寄せられて口づけされた。初めてのキスだった。離れていく金の前髪をリーゼは呆然と眺めた。

 クラウディアは衝撃を受けたように口元に手をあてる。華奢な肩ががたがたと震えていた。呼応するように、リーゼの手も小刻みに震えだした。

 胸にわだかまる違和感はもはや無視できないくらいに大きくなっていた。


「どうして……」


 王女の声は戸惑いに揺れている。なのにアルベルトは顔色ひとつ変えない。


「当たり前だろう? 僕らは運命の番なんだ」

「私への愛は、もうないというの……? 愛してるって、あんなに言ったじゃない。忘れたの?」


 答えるまでもないということなのか、アルベルトはわずかに首を傾けただけだった。

 クラウディアの表情が王女にあるまじきほど歪む。深い失望と悲しみの色は次の瞬間、激しい怒りへととってかわる。その矛先はリーゼに向けられた。


「どうしてよ」


 呪詛のような呟きにリーゼは身体をすくませる。


「どうしてあなたが選ばれるの? あなたが、アルベルトのなにを知ってるっていうの? 私は生まれたときから一緒だったのよ。恋人になってからも三年。それだけの時間を積み重ねてきたの! それを運命の番ってだけでなかったことにするのが許されるの!?」


 痛ましさすら覚える悲痛な叫び。

 リーゼは黙って身体を震わせていることしかできない。背中を支えるアルベルトの腕も、もはやリーゼの心を慰めるものではなくなっていた。

 どうしてなんて、聞かれても分からない。


「私は、アルベルトの良いところもダメなところも全部知っているわ。そのうえで誰よりもアルベルトを愛しているの! 将来だって約束してた! なのにどうして……っ、突然現れた女に、奪われなくちゃならないの! 理不尽じゃない、こんなの……っ!」


 うっ、うっ、と嗚咽の混じり始めた声は長い廊下に吸い込まれていく。金のまつ毛が縁取る目からぼろぼろと透明なものがこぼれ落ちるのを目にして、リーゼの奥歯がかたかたと音をたてた。


 ――奪ったんだ。私が、なんの落ち度もないこの人から。


 そのことをまざまざと自覚させられる。

 二人が積み重ねてきた年月を思って、リーゼの頬にも涙が伝った。その十数年は、運命という一言で容易く塗りつぶされたのだ。

 美しかった運命という響きが、ひどく呪わしいものへと変わっていく。

 リーゼは今まで善良に生きてきた。おっとりしていて多少不器用なところはあっても、誰かをこれほどまでに傷つけたことはない。傷つけたいと思ったことも。


 運命の人。運命の恋。女の子なら一度は憧れるものではないの?


 なのにどうして、運命なんて関係ない、偶然の中で育まれた彼女の恋のほうが尊いように思えてくるのだろう。

 崩れ落ちそうになったリーゼをアルベルトの腕が支える。頭の上で警備の兵を呼ぶ声が響いた。


「クラウディア殿下だ。取り乱しておられる。客間でお休みいただいてから王城にお届けしろ」


 冷徹に飛ばされる指示をリーゼは信じられない思いで聞いていた。

 依然として動揺した様子のクラウディアと兵たちの気配が遠ざかっていく。やがて廊下は静けさを取り戻し、穏やかな声が耳元で囁く。


「僕のせいで嫌な思いをさせてごめんね。もう大丈夫だよ。行こう」


 優しい声音はなにも変わらないはずなのに、薄ら寒いものがリーゼの背中をはい上がった。




 侍女たちが花嫁の身体を清め、夜着を着せる。リーゼは抵抗もできず寝室に通された。寝台に腰かけていたアルベルトは新妻を部屋に迎え、ふわりと表情を綻ばせる。

 もしリーゼが初夜に緊張する花嫁だったなら、その笑顔に安堵しただろう。現実はただ不安が増しただけだった。なのに、引き寄せようとする手を拒むこともできない。

 ぎしりと音をたてて身体がシーツに沈んだ。見上げたアルベルトは穏やかな笑顔を浮かべている。リーゼは気味の悪い恐怖を覚えた。

 このまま進んでしまって本当にいいのか。拭い去れない疑念は警鐘だ。白い結婚は無効にできる。契ったらもう戻れない。

 クラウディアの糾弾が耳について離れない。


 運命だったら、許されるの?


 そんなわけはない。けれどこの国ではそれが正しい。王女でさえ逆らえない。でも彼女は泣いていた。気丈な女性が恥も外聞もなく泣き叫ぶくらいに、自分たちは人の心を踏みにじった。


「リーゼ……?」


 胸を押し返されたアルベルトが、怪訝に眉をひそめた。心を揺らがせたくなくて、リーゼは目を背けた。


「ごめんなさい……私、あなたと夫婦になれない」

「なぜ。僕のことを、愛してるんだろう?」

「愛してるわ」


 一緒にいると楽しいし、幸せだと思う。笑顔を見れば嬉しくなって、もっと喜ばせたいと思う。初心なリーゼでも、これが愛することだと分かる。でも。


「これは、運命に仕組まれた感情なんでしょう。それって本当に愛していると言えるのかしら……?」


 きっとリーゼは、アルベルトがどんな人間でも無条件に愛してしまう。たとえ倫理観の欠けた犯罪者であっても、運命に決められているから。彼の中身などどうでもいいのだ。大切なのはその器だけ。

 アルベルトのリーゼに対する愛情だって同じだ。それが彼の中にあったクラウディアへの思いを塗りつぶし、冷酷な態度をとらせた。

 自分たちのいびつさをはっきりと自覚して涙が出そうになる。けれど耳に届いたのは、くすりと喉の奥で笑う気配だ。


「言えるよ。当然だろう、リーゼ」


 この上なく優しく、子供を諭すような声だった。アルベルトはにっこりと美しい笑みを浮かべる。


「その感情がどこから来たものかなんて、些末なことだ。大事なのは、僕らが今愛しあっている事実だよ。仕組まれたものだろうと、愛は愛だ。違いなんてない」

「そ、んなの……おかしいわ。だってきっと、あなたがどんな人でも、私は恋に落ちてた」


 クラウディアは、長い時間をアルベルトと過ごして、長所も短所も全て知っていると言った。そのうえで彼を愛していた。きっとそれこそが本物の愛なのだ。

 なのに、アルベルトはおかしそうにくすくすと笑う。


「それがなんだっていうの?」

「……っ」

「だから、この愛は偽物だって? なら離縁する? それで本当の愛を探すの?」


 彼の口から出た離縁という言葉にリーゼは怖気づきそうになる。けれど、こんな愛の形は間違っている。

 リーゼが頷くと、そこで初めてアルベルトは笑みを消して、ふうんと平坦な声を漏らした。無感情な瞳に得体の知れない恐ろしさを覚える。けれど、リーゼは目を逸らさなかった。


「……まあ、いいよ。クラウディアのこともあって、リーゼも動揺しているんだろう」


 やけにあっさりと引いたアルベルトが、寝台から降りていく。その背中が扉に向かうのを目にして、リーゼは上体を起き上がらせた。


「離縁してくれるの?」

「それはリーゼ次第。時間をあげるよ。僕はしばらく別邸で過ごす。君には会わない」


 部屋を出る直前でアルベルトは振り返った。


「その間に僕以上に愛せる人を君が見つけられたら、離縁を考えてもいい」




 翌朝目を覚ましたら、アルベルトは本当に姿を消していた。公爵夫妻もすでに領地へ発っていて、王都の公爵邸にはリーゼだけが残された。あとは屋敷を管理する使用人たちしかいない。


 離縁を考えるって本気なのかしら……。


 昨夜のアルベルトを思い出すと、いまだに身震いする。運命の力は容易く人の心を塗り替えてしまう。その事実を見せつけられたようだった。積み重ねた思いも時間も、まるで最初からなかったかのように消し去られる。それは恐怖という言葉では足りないくらいおぞましいことに思えた。

 逃げたい――運命などという得体の知れない力が及ばないところまで、一刻も早く。アルベルトのことを忘れて、運命に出会う前の自分に戻りたかった。

 どうにかして離縁を認めてもらわなければならない。運命の番として公爵家に嫁いだリーゼが別の恋人を見つけるなんて簡単なことではないけれど、リーゼはもうそれしか考えられなかった。


 じりじりとした焦燥感とともに数日を過ごした。


 屋敷を一人の男が訪ねてきたのは、空に暗い雲がたれこめる午後のことだった。リーゼは応接間で幼なじみのニコラスと顔を合わせた。


「リーゼはどうしてるかなって気になってさ」


 どこか煮え切らない様子で頬をかきつつ、彼は訪問の理由をそう説明した。

 リーゼはふと、幼い頃胸に秘めていた恋心を思い出した。温和な年上の少年は小さなリーゼにとって憧れの対象だった。


 これが最初で最後のチャンスかもしれない。


 リーゼは卓上の大きな手に己のそれを重ねた。びくりと強ばる感触が伝わってきたが、逃げようとする素振りはない。大丈夫、と自分を励まして、リーゼはすがるようにヘーゼルの瞳を見つめた。


「来てくれてよかった、ニコ。一人では心細かったの……」


 弱々しい声で漏らすと、ニコラスの顔色がさっと深刻なものに変わる。


「リーゼ。正直に教えてほしいのだけど、アルベルト様とは上手くいっていないの?」

「実は、結婚した翌日から帰ってきてくださらないの。初夜だってまだだし……もしかして、運命の番というのは勘違いだったのかもしれない」


 ああやっぱり、とニコラスは天井を仰いだ。


「社交界で噂が流れているんだよ。君たちは白い結婚で、アルベルト様は君をないがしろにしているって。しかも噂の出どころはアルベルト様自身だ。君はつまらない女性だと人前でけなしていたらしい」


 ずきん、という胸の痛みに気をとられていると、重ねた手の上下がいつの間にか入れ替わっていた。ニコラスが真剣な顔をしてリーゼを見つめる。


「僕と結婚しよう、リーゼ。ずっと言えなかったけど、君が好きなんだ。一度は諦めようと思ったけど、大切にされていないと聞いて見過ごすことはできない」


 願ってもない申し出のはずなのに、リーゼは頷くことができなかった。


 なに、これ……?


 お腹の中に氷を詰め込まれたようなおぞけが全身に広がる。先ほどまでなんともなかったニコラスの手が、急に気持ちの悪いものに変わった。鳥肌すら立ちそうな嫌悪感に、リーゼは思わず手を振り払っていた。


「触らないで」


 ぴしゃりと言い放ち、長椅子から立ち上がる。ニコラスは困惑の色を浮かべ、追いすがるようにリーゼに手を伸ばした。


「どうして? 君だってここから連れ出してほしいんだろう? だから僕の手に触れたんだよね。大丈夫、僕が守ってあげるから。怖がらなくていい」

「いや! あなたとは行けない!」


 掴まれた手に吐き気すら覚えて、リーゼは渾身の力で男を突き飛ばした。だがニコラスは少しよろめいただけで、反動でリーゼのほうが長椅子に倒れ込む。すぐに体勢を立て直した彼の瞳に危険な色がともった。


「なんだよ、その態度。意味がわからない。君は明らかに僕を誘っていただろう!?」


 男の手がドレスにかかり、またたく間に胸元を引き裂いた。


「やぁっ! なにをするの!?」

「僕と行きたくないなら、今だけ我慢すればいい。傷物にしてあげるよ。そうすれば初夜すら済ませていない結婚なんか白紙に戻る」


 とんでもないことを言って、ニコラスはあらわになった肌にべたべたと触る。卒倒しそうなほどリーゼの血の気が引いた。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。

 しかし、ニコラスの手が柔らかな双丘にかかったところで、突如彼の身体が真横に吹っ飛ぶ。

 彼の背後にいつの間にか長身の男が立っていた。蹴り飛ばした長い脚を下ろしつつ、ごみを見るような目でニコラスを見下ろすのは、ここにいないはずのアルベルトだった。


「人の妻に手を出すなら、それなりの覚悟は出来ているんだろうね?」


 よろよろと立ち上がったニコラスは、アルベルトの放つ殺気に気づくや、ひいっと悲鳴を上げて部屋から飛び出していった。その後ろ姿をアルベルトは興味なさげに一瞥して、長椅子に横たわるリーゼに視線を移した。


「アルベルト、どうして。別邸にいたのではないの?」

「君は気づいていなかったようだけれど、僕はこの屋敷にずっといたよ。隠れて夜会に出て噂を流してみたんだ。ニコラス君はまんまと引っかかってくれたようだね」


 美しく口角を引き上げ、彼は笑う。瞳の奥に暗い炎が見えるようだった。リーゼはその場に凍りつく。


「ニコラス君と束の間の夢を見れて楽しかったかい? リーゼ」


 穏やかで抑揚のない声に、ぞくぞくと背筋が寒気を覚えた。固く強ばった喉を叱咤して、リーゼはようやく声を出す。


「ごめんなさい。私、分かったわ。あなた以外の人に恋はできない」


 ニコラスに求婚されたときに悟った。彼のことは嫌いではないはずなのに、あの瞬間、全身が拒んだ。吐き気を催すほどの嫌悪感など尋常ではない。

 そして今は、幼なじみとしての親愛の情さえリーゼの中から失われてしまっている。差し伸べられた手をあのように拒んで、罪悪感すら微塵もない。自分の心の変わりようが恐ろしかった。

 蒼白になるリーゼを見つめ、アルベルトはうっとりと目を細めた。


「そうだよ、リーゼ。僕たちはね、もうお互い以外の相手を選べないんだ」


 アルベルトが長椅子に片膝をつき、長い指がリーゼの鎖骨に触れた。そして徐々に下へと降りていく。暴かれたままの胸元をいたわるような手つきだった。リーゼは動けなかった。


「僕も最初は信じられなかったよ。自分の気持ちがこんな簡単に変わってしまうなんてね。クラウディアを愛していたんだ、確かに。なのに今は君を愛している」


 胸の谷間に指を擦り付けると、アルベルトはリーゼの背中と膝裏に腕を入れて抱き上げた。そのまま応接間を出てどこかの部屋へと向かう。


「君も自分に失望したかな? 自分の心が信じられなくなるだろう? ねえ、君は本当の愛を探すと言ったけど、僕らの運命の前では、本当の愛なんて容易く塗りつぶされてしまう幻みたいなものなんだよ」


 アルベルトは穏やかに笑っているのに、その表情はどこか陶然として狂気的だった。

 リーゼはぎくりと身体を強ばらせる。どうしてアルベルトがわざわざ離縁の機会など与えたのか理解できたからだ。


 自分と同じ思いを、リーゼにも味わわせるために。


 親しみを抱いていたはずの相手が大切ではなくなる。酷い仕打ちをしているはずなのに心が動かなくなる。自分の心が自分のものではないような、恐ろしい感覚だった。彼のクラウディアに対する愛情も、こんなふうに消えていったのだろうか。


「だからね、リーゼ」


 小柄な妻を寝室の寝台に下ろしながらアルベルトは歌うように言う。


「僕らは運命を受け入れるしかないんじゃないかな」

「でも」


 リーゼは震える声を懸命に吐き出した。


「私は、きっと、あなたを愛してはいないわ。あなたの虚像を愛しているだけ。あなた自身を見ているわけじゃない」


 あらわになった胸を腕でかばいながら、逃げるように身をよじる。覆いかぶさったアルベルトは薄く笑った。


「そう。君はよほど本当の愛にこだわりたいんだね」

「だって! こんな愛は、自然じゃない……怖いの」


 熱くなった目元から涙が一筋滑り落ちた。


「あなたのそばにいると、どんどん心が惹き付けられる。どんな姿を見ても、なにをされても、好きだと思う。愛情が大きくなっていくのが分かるの。ねえ、これは本当に私の心なの? 見えない力に侵食されていく気がする」

「可哀想に。疑心暗鬼に囚われているんだね」


 アルベルトの優しい声が、耳にどろりと流し込まれた。張り詰めた心の糸が、ぷつりと切れる音がした。


「……怖いわ。苦しい。どうして。私はただ幸せな恋がしたかっただけなのに」

「大丈夫だよ。君の心は、君のものだ。運命に抗いさえしなければ」


 番以外に愛情を抱かなければ、表面的には穏やかに過ごせる。彼はそう言いたいのだ。


「でも、そんなの、現実から目を逸らしているだけじゃないかしら」

「いいんだよ。不都合な現実なんて気づかなければ、存在しないのと変わらない」

「でも……」


 ひたと見据えられ、リーゼは口を閉ざした。真っ直ぐに向けられる青の瞳は凪いでいて底が知れない。


「僕への愛は君自身の心だ。信じさせてあげるよ」


 胸を守る腕をよけられてリーゼは弱々しく抵抗した。


「無理よ……嘘だって分かりきってる」

「嘘じゃないよ。僕の愛が本物なように、君の愛も本物なんだ。証明してあげる」


 アルベルトの手が白い肌の上を滑り、柔らかな胸を包み込む。


 ――そんなわけ、あるはずないのに……。


 言葉を返すことはかなわなかった。唇を塞がれたからだ。

 リーゼはシーツの波間に溺れ、アルベルトの与えるものをただ甘受する。彼の触れ方は繊細な慈しみに満ちていて、本当に愛されているみたいだった。


 ……愛されているのかもしれない。


 少なくとも彼は、自分の愛が本物だと信じているようだった。


 ……そう見せかけているだけかもしれない。


 どちらなのか、判断の境目がリーゼにはもう分からない。区別できない本物と偽物の差に、意味はあるのだろうか。


 眠りに落ちる直前、左の薬指になにかがはめられた。

 リーゼを囚える枷だ。もう逃げられない。


 誰かを傷つけても、

 まがいものでも、

 受け入れられなくても、


 ただ彼と、墜ちていくしか。

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