血族

猫又毬

第一章 依頼

春の終わり、ぬるく湿った空気が都内の路地を満たす午後。

桜の花はとっくに散り、舞落ちた花びらの残骸がまだ茶色くはりついている歩道を、小柄な女性が一人歩いていた。

二十歳を少し過ぎたぐらいであろうか、肩までの豊かな黒髪が風になびき、甘い香りを漂わせている。

百合ヶ谷沙月はオフィスビルの群れの中、埋もれるようにひっそりと建つ雑居ビルの前で足を止めると「鷲見探偵事務所」の小さな看板を見上げ、鮮やかに紅の引かれた唇をキュッと結び暗い階段を上り始めた。

薄暗い階段を上り切ったほぼ正面に、彼女の目指す場所はあった。

「鷲見探偵事務所」

古い木製の扉の半分から上が摺りガラスになっており、そのガラス部分に掲げられたプレートがやけに無機質なものに感じ、彼女はドアノブに手を掛けるのを躊躇っていた。

と、その時、摺りガラスに人影が映ったと同時に内側からドアが静かに開いた。

「どうぞ。」

背の高い、二十代半ばと思しき男性が内開きのドアを開け、彼女を迎え入れるように左腕を室内に向けて大きく開いている。

日焼けした肌に短く整えられた髪、品の良い白いシャツに紺色のスーツを合わせた姿はどこか遠征に向かうサッカー選手の様で、沙月が想像していた探偵とは大きくかけ離れていた。

彼女が驚いて目を丸くしていると、男性は

「驚かせてしまってすみません。ガラスに人影が見えたのでご依頼かと・・・」

と、照れたように左手で頭を搔きながら苦笑いして見せた。

おどけた様な彼の様子に、彼女も微笑みながら彼を見上げた。

「予約はしていませんが、ご相談したい事がありまして・・・。

お時間よろしいでしょうか?」

彼女の声音に、不安と戸惑いが混じるのを感じ、鷲見遼一は再び笑顔を作り彼女を招き入れた。

「ええ、構いませんよ。どうぞ」

小さく頷き、おずおずと事務所内に歩を進める彼女に先立って、遼一は来客用のソファのある場所へと促した。

彼女がソファに浅く腰を下ろしたタイミングで、事務所の奥からもう一人、男性が出てきた。

驚いた彼女がそちらを見やると、その男性は綺麗な漆塗りの盆に美濃焼のティーカップとソーサーを乗せ、ゆっくりとした足取りで運んでくる。

「紅茶はお好きですか?」

彼女の前にお盆を置くと穏やかな口調で問いかけた。

「はい。ありがとうございます。」

湯気とともに紅茶の甘い香りが立ち昇る。彼女の好きなアッサムの香りだった。

少し落ち着いた様子を見て、遼一が彼女の正面のソファに腰を下ろした。

「改めまして、わたくし当探偵事務所の探偵をしております、鷲見遼一と申します。」

と言いながら名刺を彼女に差し出した。

「今のは私の弟で、純也といいます。

私が主に外に出て調査をし、弟はここで情報収集したり、調べごとをしたりと、調査の後方支援や舵取りを主にしています。」

と、既に奥のデスクに戻っていた純也の紹介をすると、再び彼女に向き直った。

彼女は受け取った名刺を静かに机に置くと、遼一の目を見据えた。

「百合ヶ谷沙月と申します。

実は…私の祖父、百合ヶ谷要三の遺品を調べていただきたいと思いまして、お伺いしました。」

そう言うと、彼女は持参したカバンから古びた冊子を取り出した。

和紙と木綿の糸で製本されたその表紙は黄ばんでおり、ところどころにシミが浮かんでいる。

「これは祖父の遺品の中で見つけたものです。」

遼一は軽く顎を引いて、続きを促した。

「半年前に祖父が亡くなって…しばらくは落ち込んでいたんですが、一ヶ月ほど前からやっと遺品の整理をはじめました。

私は幼い頃に両親を亡くしていまして…一人残った私を祖父が引き取り、育ててくれました。

祖父の家は都内から少し離れた場所にあり、私が大学進学で家を出てからは、そこに祖父一人で住んでいました。」

沙月はそう前置きし、少し寂しそうに日記の表紙を撫でた。

「遺品の整理中に、この日記と、それから……ちょっと奇妙な骨董品を見つけたんです。」

「奇妙な骨董品?」

「ええ。木箱に収められていたんですが、中には古い銅鏡のようなものが入っていました。

ただの古い銅鏡に見えるんですが…何というか…とても気味の悪い感じがするんです。」

言葉を選びながら銅鏡の話をする沙月の様子に遼一は興味を引かれた。

「それで?」

「最初は、趣味の良くないただの古いものだと思っていたんです。

でも、祖父の日記を読み進めていくうちに、それが…何かの儀式に関係するものらしいことが分かって……」

沙月はページをめくり、遼一の前に開いた。

そこには、崩れた筆致の文字が並んでいる。

「祖父は生前、『家の地下には絶対に入るな』と、いつも言っていました。

私が興味本位で地下への入口を探そうとすると、ものすごく怒って…でも、最後までその理由は教えてくれませんでしたが…その儀式と何か関係があるのではないかという気がして…」

遼一は無言で日記の記述を目で追ってみた。

うねる様な筆の運びが動いているように見え、良からぬ意志を持った何者かが日記の中を這いずり回っているのを感じた。

日記に釘付けになっている遼一の様子には気付かず、沙月は続ける。

「それから、日記には百合ヶ谷家の系譜についても書かれていました。

けれど、それを読んでいて気づいたんです——ある世代の、家族の記録が抜けていることに」

沙月はそう言うと、もう一つの資料を取り出した。

それは手書きの家系図だった

「見てください。この部分です」

彼女が指し示したのは、およそ百年前の記録だった。

恐らくは彼女の曾祖父かその前の代の頃だろう。そこまではきちんと系譜がつながっている。

しかし、その後の数十年間、不自然に名前が抜けているのだ。

「昔から続いているはずの家系なのに、この時期だけ記録がないんです。

まるで、意図的に消されたみたいに見えて…気味が悪くて…」

遼一はしばらくその系図を眺め、静かに息をついた。

「それが日記に書かれて?」

「いいえ…記録が消えている理由は書かれていなかったと思います…というか…祖父の日記は達筆すぎて…私には読めないところが沢山あって。

でも、何かの儀式について書き残していた事は分かりました。

記録が消えている事と、執り行われていた儀式に関係があるかどうかは分かりません。

でも…百合ヶ谷家には…私の家系には何か秘密がある…そんな気がして…自分で色々調べてはみたのですが、私一人ではそれ以上詳しいことは分かりませんでした。」

沙月の手が、僅かに震えているのが分かった。

今まで知ることの無かった一族の情報が次々と姿を現し、得体の知れない黒い点となって自分を取り囲んでいる――点と点を結び、繋がったその先にあるものは一体何なのか…。

その問いの答えは、既に彼女の中に予感めいたものがあるのかも知れない。それは彼女の本能が察知しているものだろう。

しかし、それをたった一人で正面から暴くのは荷が重すぎる…遼一は彼女から漂い出るそんな混乱した空気を敏感に感じ取っていた。

「それに——」

彼女は小さな声で続ける――

「こんな事言うとおかしいと思われるかも知れませんが…これを調べ始めてから、妙なことが起こるようになったんです…。」

「妙なこと?」

話すのを躊躇っている様な素振りを見せた沙月だったが、遼一の落ち着いた声に促され、再び口を開いた。

「夜中にふと目を覚ますと、部屋の隅に誰かが立っているような気がしたり、祖父の家にいると…まるで誰かが一緒にいるみたいで…」

遼一は、その言葉を受けて軽く顎を撫でた。

――得体の知れない儀式に家系図の謎…そしてこの気味の悪い気配……。

浮気調査や人探しより、こういう話が舞い込んでこそ鷲見探偵事務所だ――

「わかりました。」

遼一は静かに答えた。

「まずはその銅鏡を実際に見せてもらってもいいですか?

それと、日記の記述も詳しく調べたいので、少しの間、こちらであずからせてください。」

「はい…よろしくお願いします。」

遼一の言葉に、少しだけ沙月の表情が和らいだ。

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