第57話

 その声は間近でした。「ヤダッ……」屑籠の中身をビニール袋に集めていた作業員が顔を歪めた。

 彼女がビニール袋に入れそこなったゴミが床に散らばっていた。くしゃくしゃにされたダイレクトメール、スナック菓子の袋、使用済みのティッシュ、使用済みの避妊具……。

 ウワッ!……法子は、ラテックス製のそれから慌てて視線をそらした。仮面夫婦の宝田夫妻は異性関係が乱れていた。実質の夫婦ではなかったけれど、亜里子が言った以外でも性的行為を続けていたらしい。世の中には愛情のない〝セフレ〟というものがあるから、その類だろう。

 いけない、いけない。……すでに鬼籍に入った二人の乱れた性生活を想像したことに自己嫌悪を覚える。

 考えるな。……自分に命じ、逃げるようにリビングに移動した。

「これはどうします?」

 作業員に声を掛けられる。彼はフォトフレームに入った家族写真を持っていた。ひとつは社長室にあったものと同じだ。四人がレンズに笑顔を向けている。もうひとつは瑞希が生まれた病室で、彼女を抱いた宝田が満面の笑みを作っているものだった。隣には薄く笑った鈴菜の顔がある。その写真には宝田の娘に対する素直な愛情が写っているように見えた。その笑顔が偽物とは思えない。殺しあうような家族だったけれど、一時は家族だったことがあるのだろう。そう信じたかった。

「それは宝田家に送りましょう」

「了解です」

 作業員はフォトフレームを箱に入れた。

 家財の整理は、かろうじて五時直前に済んだ。休憩時間の一時間をのぞけば、法定労働時間の中で収まったことになる。


 その夜、法子の部屋を立花が訪ねてきていた。

 エアコンの効いた室内、二人はベッドの上だ。

「ねえ、捜査はどうなっているの? いつ、宝田社長殺しの真犯人は嶽宮だって発表されるの? 机から物証も出たのでしょ?」

 警察の仕事の遅さが不満だった。

「あぁ、九条さんの手帳が出てきた。でも、捜査権が本庁に持っていかれたからね。いつ発表するか、それは向こうが決める。捜査本部に犯人がいて、捜査結果が捻じ曲げられていた、なんて発表しにくいんだろう。そりゃ嶽宮は、事件性はないという方向に持っていくわなぁ」

 彼の手が、法子の内腿をなでた。

「それはそうでしょうけど、間違っていたと分かったのだから正すのが当然でしょ。葛原沙良さんと娘さんは、殺人犯の家族として世間の冷たい視線にさらされているのよ。一刻も早く汚名を晴らしてあげるべきじゃない? 九条刑事だって、捜査中に殺害されたのだから、本来、二階級特進でしょ? それなのに事故死扱いじゃ可哀そうすぎるわよ」

「そうなんだけどなぁ……」

 彼がキスをしようとする。法子は避けた。

「私に対する殺人未遂事件だって、未発表のままじゃない。私、事情聴取のために半休を取ったのが、ズル休みみたいに思われているのよ」

「ごめん……」

「立花さんに謝ってほしいわけじゃないです。正しいことをして欲しいの。……どうしてもできないというのなら、マスコミにリークしちゃおうかな」

 冗談だった。ただ、彼には危機感は持ってほしい。正しい警察官であってほしかった。

「リークなんて止めてくれよ。いずれ裁判になれば分かることだから」

 彼はポリポリ頭を掻いた。

「裁判なんて、何か月も先でしょ。……瑞希さん、これからどうなるのかしら? 彼女の未来にとっても大切なことなのよ」

「宝田家で健やかに育つさ」

「そうかなぁ……」

 ベッドを抜け出し、バッグから〝契約書〟と〝DNA鑑定書〟を取り出した。〝契約書〟を立花に差し出す。

「これ、読んでみて。不倫契約」

「不倫契約?」

「私が名付けたんだけどね」

「フーン……」

 彼が〝契約書〟に目を走らせる。

「……こういう書類は苦手だなぁ……。見たところ契約結婚の契約書みたいだけど……」

「ちゃんと読んでよ……」彼の手を引っ張って契約書を読む。「――三者は自由恋愛を重んじ、他者の恋愛に干渉してはならない――これって、結婚後も綾小路社長と鈴菜さんはつきあう。それに対して宝田社長は抗議できないということよ。まぁ、宝田社長が誰かと不倫しても、鈴菜さんから文句を言われることもないわけだけど。鈴菜さん、やましいものを覚えていたのだと思う。だから、宝田社長に友達を紹介して、子供まで産ませたのよ」

 鈴菜の罪滅ぼしで生まれたミズキ。その顔を思い出そうとしたけれど、思い出せなかった。

「なるほど。言われてみれば不倫契約だ」

「最後なんて、ひどいと思わない?……こんな馬鹿な契約が解除できないのよ。……公序良俗に反する契約だから、常識的な法解釈では、契約そのものが無効になると思うけど」

「ふーん、僕にはちんぷんかんぷんだ」

「鈴菜さんは、宝田社長との結婚生活を解消するために、嶽宮をそそのかして宝田社長を殺させたのだと思う。嶽宮は、その犯人役に警察のデータベースから犯人役になりそうなDV男の葛岡さんを見つけて犯人役に仕立てた……」

「そもそも、どうして宝田鈴奈は夫を殺そうとしたんだい? 不倫も自由にできたのに」

「宝田社長は、すでに誠治君を妊娠していた鈴菜さんと結婚した。誠治君が綾小路社長の子供なのは、この契約書からも間違いない。そうした経緯があったとはいえ、一つ屋根の下で暮らす男女の人生が交わらないと言えるかしら? もしかしたら、二人の間に愛情が芽生えた時期もあったのかもしれない……」頭の中に宝田家の寝室で見た写真や避妊具が浮かぶ。「……でも、鈴奈さんが綾小路社長と切れることはなかった。彼女は心底、綾小路社長を愛していたのだと思う」




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