第56話

「宝田さんは、で来たくなかったのでしょうね」

 綾子がそう言ったのは、1304号室のリビングに入った時だった。絨毯が大量の血で赤黒く染まっている。彼女は一瞥して顔をそむけ、二度とそれを見ることがなかった。

「親を殺すなんて、がいたものね」

 彼女の率直な意見に法子は答えられなかった。誠治がとは思えなかったからだ。だからといって良い息子でもないだろう。彼が母親を刺したのは事実だ。

 ほどなく引っ越し業者が六人と家具や貴金属の買取り業者二人が集まった。法子たちを含めて十人は家財を、宝田家に送る物と捨てる物、売却する物に仕分け始めた。

 買取り業者の行動には目覚ましいものがあった。ライバルに負けまいと、血塗られた絨毯以外は目を皿のようにして見て回り、鈴菜の宝石類や高級家具はもとより、夫婦のスーツやドレス、食器類に至るまで、買取る物に自社の印を押した付箋を貼っていった。二社が付箋を貼ったものは後に入札することになっている。彼らの後を綾子が付いて回り、売却品のリストを作った。

 法子は部屋を見て回り、宝田家に送る物、それはつまり、誠治と瑞希に残すべき物を選んだ。宝田家が誠治を引き取るかどうかは聞いていなかった。まだ事件の審判も終わっていないので、宝田家も決めかねているのかもしれない。

 とにかく、アルバムや書籍、パソコンや録画メディアといった、思い出が詰まっていると思われる物は送る荷物に分類した。

「これはどうします?」

 作業員が、寝室の壁から額を外した。中にあるのはアメリカ・ハワイ州の結婚証明書マリッジライセンスだった。日付は十三年ほど前。宝田夫婦は結婚式を挙げなかった、と大阪支店長から聞いた話を思い出した。

「二人はハワイで結婚式を挙げたのね」

 少なくとも二人だけは式を挙げたのだろう。法子の胸が熱くなった。

「これが結婚の証明書ですか……」

 作業員が英文に首を傾げた。

「そうね、送ってあげましょう。両親を思い出すのに役立つでしょう」

 瑞希だけでなく祖父母にとっても、亡き息子を懐かしむ品になるに違いない。

作業員が額を包もうとするのを見て、妙な直感が働いた。宝田夫妻は仮面夫婦のはずだ。寝室に結婚証明書を飾るだろうか? しかも十三年の長きにわたって……。可能性があるとすれば、自分たちが夫婦だと忘れないよう、自分たちに対する戒めとしたのか、あるいは子供たちに対するポーズか……。いずれにしてもしっくりこない。

「待って」

 作業を制し、額を受け取った。

 額の裏を開けて中の証明書を取り出す。すると、証明書と共に二通の書類が出てきた。〝契約書〟とタイトルのある書類は、綾小路寿明、宝田健治、速水鈴菜の自筆署名のある同一内容のものだった。一通は宝田のもので、もう一通は鈴菜のものに違いない。

「それは、なんです?」

「あなたは梱包作業を続けてください」

 作業員が覗き込もうとするのを追いやる。

「なによ。ケチ」

 彼女が独り言のように言うのを聞き流し、書類に目を通す。

【この契約をもって、宝田健治は速水鈴菜を法律上の妻とし、その胎児を実子とするものとする。速水鈴菜及びその胎児の養育の対価として、綾小路寿明は〝故郷応援団ふるふる〟の権利全てを宝田健治に譲渡する。なお、法人間の手続きは、別途譲渡契約をもって行う】

 そういうことだったのか!……真実を知って驚愕した。宝田は綾小路の紹介ですでに妊娠している鈴菜と結婚した。綾小路は彼女の持参金代わりに〝故郷応援団ふるふる〟をシステム・ヤマツミに安価で売却した。当時、クニノミヤ物産の営業担当だった宝田がその実績を持って出世の足掛かりにしたのだ。〝契約書〟はそれを証明する物的証拠だった。

 とはいえ、契約結婚や等価交換を謳ったような文言には違和感しかない。監査人になってから、売買契約書や賃貸契約書、雇用契約書など、様々な契約書を読み、様々な法律も学んできた。そうした中で、手にしている〝契約書〟のような書面は見たことがなかった。

〝契約書〟には続きがあった。

【三者は自由恋愛を重んじ、相互の恋愛に干渉してはならない。また、暴力や威圧、金銭によって肉体関係を強要してもならない。恋愛によって生ずる権利、債務は当事者のみが享受、負担するものであり、他の者は関知、要求、負担することはできない。尚、この契約は当事者が死亡するまで永遠に解除されない】

 これって、結婚してからも綾小路社長と鈴奈は関係を続けることができるということね。それに、鈴奈さんが宝田社長を拒む理由にもなる。自由恋愛契約? いや、不倫契約だ。

【死亡するまで永遠に解除されない】その一文から目が離せなかった。一見、永遠の愛を謳ったように見えるけれど、それは人身売買にも等しい行為ではないか?……その時、頭の中で瑞希の声がリフレインした。

 ――ママとお兄さんは自由になったのよ――

「そういうことか!」

 ひとつの答えが見えてきた。鈴奈が自由になるには、宝田がこの世から消えなければならなかったのだ。

「狂気だ……」こんな契約がなければ、鈴菜は宝田社長を殺そうと思うこともなかったし、嶽宮たちと関係を結ぶこともなかった。誠治が母親を刺すこともなかった。

 法子は、結婚証明書を額縁に戻して宝田家に送る荷物に分類した。〝契約書〟は手元に置いた。それはあのDNA鑑定書同様、今回の事件の真相を証明する証拠書類だから。


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