第54話
嶽宮は、それまで素手だった右手にも手袋をつけた。法子のバッグの中から鈴菜のスマホを見つけだして懐に入れる。それから倒れている法子の肩にカバンを戻して靴を脱がせた。ひょいと抱え上げ、建物の端に進んだ。
「日本の自殺者は二万人超。みんな悩んでいるんだよ。それで飛び降りる。鳥のように。そうして自由になるのだ」
彼は意識のない法子の手を金属製の手すりに乗せてしっかり握らせて指紋を付けた。自らの意志で乗り越えたと見せかけるために。葛原をビルから投げ落とした時と同じやり方だった。
「君が悪いのだ。我々警察の公式見解を無視するからな。弱者は弱者なりにストーリーの中に佇んでいればいいのだ。それが穏やかに生きるということだ」
法子の腰を抱え込んで手すりの向こう側に押し出していく。
「目がくらむだろう? 俺も同じだ」
彼ののどがクククと笑った。
その時だ。「止めろ!」声が轟いた。
鉄の扉をもどかしげに押し開け、立花が駆けてくる。彼を見る嶽宮の目が大きく見開かれた。
「どうして……?」
「その人から離れろ!」
嶽宮は、法子を乱暴におろして身構えた。
「立花巡査、被疑者の女と心中する。それも悪くないか……」
つぶやくと同時に殴りかかる。
立花は伸びてきた右こぶしをギリギリでかわすと、その腕を取って嶽宮を背中に担いだ。
「テーイ!」
――ブワッ!――
どこで休んでいたものか、数十羽の鳩が一斉に飛び立つ。
気合一投、渾身の一本背負いに嶽宮の身体も鳩のように宙を飛び、ドスンと床にたたきつけられた。
「ツゥ……」武宮が呻く。
「すみませんね。階級では負けますが、柔道では負けません。とりあえず、殺人未遂の現行犯だ」
立花は嶽宮の手に手錠をかけると、法子のもとに駆けよった。
「法子さん、法子さん、……ノリコォ!」
身体を揺すり、名前を呼んだ。
「ア……」
意識を取り戻した法子の唇が丸く開く。
「法子!」
「アッ、……ウルサイ」
法子が瞼を持ち上げると、そこに立花の顔があった。
「法子さん、大丈夫か?」
「あ、うん。どうしてここに……?」
彼が頼もしく見えた。
「五人の携帯電話を調べた。本人が特定できなかったのが〝公務員〟のものだった。だけど電源が入っていたから位置が特定できた。宝田夫人が入院した病院だったから会えると思って来てみた、……という次第さ」
「どうして屋上だと?」
「瑞希さんに聞いた」
「そっか、助けてくれて、ありがとう……」
瑞希さんが賢くてよかった。……感謝の思いで胸がいっぱいになった。
「……あ、逃げる」
嶽宮を指した。両手に手錠を掛けられた彼が、よろけながら出入口に向かっていた。
「往生際の悪い野郎だ。……こら、本庁、待ちやがれ!」
立花が嶽宮を追った。彼は出入口に達する前に確保し、応援を呼んだ。
法子はズキズキ痛む後頭部を押さえながら立ち上がり、靴を履いていないのに気づいた。それで自殺に見せて殺されかけたのだと分かった。
「その人の内ポケットに証拠のスマホがあります!」
「おう」
立花が嶽宮のポケットを探った。スマホが三台あった。
「仕事用と個人用、それと宝田鈴菜のものだな」
立花は、それらを自分のスーツのポケットに押し込んだ。
「その人が三人殺したって自分で言ったわ。宝田社長と葛岡さんを同時に呼び出し、社長殺しを葛岡さんの仕業に偽装したのよ」
「葛岡はDVの件で呼び出せるとして、宝田社長はどんな理由で呼び出したんだ?」
嶽宮は唇を結んで応じなかった。
「不倫の件を世間に公表するとでも言ったのだと思う。……私、瑞希さんのところに行く。心配していると思うから」
「ああ、そうしろ。後で事情聴取は受けてもらうよ。頭が痛むなら、ここで検査をうけるんだよ」
「うん、そうする」
応じて集中治療室に向かった。
そこに着くまで、ずっと胸が高鳴っていた。病院内の嫌な臭いも気にならなかった。それが殺されかけたためなのか、立花に救出されたためなのか、あるいは殺人犯の嶽宮を逮捕できたからなのか、鈴菜が一連の事件の共犯者だと判明したからなのか、自分でもよく分からない。すべてはゴチャゴチャひと塊だ。
瑞希は高齢の女性と話していた。
おそらく藤堂刑事が話していた鈴菜の母親だ。……法子は安堵の思いで二人の元に向かった。
近づくと、法子に気づいた瑞希が手を振った。
「速水です。娘と孫がお世話になりまして……」
祖母の速水は、今朝、知人に送ってもらって来たのだと言った。それから機械に繫がれた娘に目を向けた。
「……どうしてこんなことに……。立派な方と結婚して、幸せに過ごしていると思っていたのに……。父親が事故を起こして、それから娘はずっと苦労してきたのです。学校ではいじめられたし、私に気を使って大学もあきらめて……。どうして誠治が鈴菜を……」
彼女は鈴菜の身の上話をして泣き崩れた。
不倫、ネグレクト、殺害依頼……、鈴菜の黒い部分ばかりを見てきただけに彼女の過去は意外だった。横たわる彼女の姿に再び目をやって、少しだけ同情した。彼女も父親の事故や、綾小路や嶽宮のような人物との出会いがなかったら、平穏な人生を歩むことができただろう。しみじみとした気分でいる時、意外なことを耳にした。
「おばあさま、悲しまないで。ママもお兄さんも自由になったのよ」
泣き崩れた祖母の傍らで慰める瑞希の顔に感情はなかった。葬式の時の鈴菜の表情か重なった。
「自由だなんて、死んでは元も子もないじゃない」
泣きながら祖母が孫娘をたしなめた。
法子は、彼女が娘の死を覚悟していることに切ないものを覚えた。胸で灰色のもやもやしたものが渦巻いていた。
「私、パパにもママにも負けなかった。……おばあさまにだって」
瑞希が唇をきつく結んだ。
「負けなかったって、どういうことよ。瑞希ちゃん?」
立ち上がった祖母が表情を曇らせ、涙を拭いた。
「瑞希さん、昨日、私に連絡してくれたのです。怖かったでしょうけど、頑張ったんです」
法子は瑞希のために弁解した。それだけではない。彼女は母親のネグレクトと戦ってきたのだ。それを祖母に伝えることは躊躇った。法子の目にはネグレクトに見えても、瑞希がそう感じている気配がない。
「学校に休むことを連絡しないとね」
法子は自分のもやもやしたものを封じるように話題を変えた。瑞希は学校に電話をかけ、法子は会社に電話を入れて午後から出社すると伝えた。
病院全体にざわついた空気が走った。正面玄関にパトロールカーが横付けされ、嶽宮が連行されたのだ。
法子は瑞希とその祖母に別れを告げ、事情聴取を受けるために立花が務める神宿署に向かった。
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