第53話
鈴菜は集中治療室で機械に繫がれていた。法子たちは廊下側のガラス窓から彼女を見た。その姿に法子は、祖父を看取った時と似たものを感じた。生あるものが物質に移行する冷徹な時の流れだ。医療には素人だけれど、彼女が意識を取り戻すことはないだろうと感じた。
「ママ……」
ガラスに貼りつくようにして瑞希がつぶやいた。
背の低い彼女に、母親の姿が見えているのだろうか?……法子は、彼女の背後に回って身体を持ち上げてやった。
「ママ……」
彼女が再びつぶやいた。その声にはあきらめに似た冷めたものが宿っていた。
その時、背後に人の気配がした。
「剣法子さんですね?」
瑞希を下ろして振り返ると、頬のこけた中年男性が立っていた。記憶にある顔だけれど思い出せない。
「警視庁の嶽宮です」
彼が左手をズボンのポケットに入れたまま、右手で警察手帳を提示した。
九条刑事に聴取されていた時に割り込んできた人だ。……記憶が呼び覚まされた。立花の口から名前が出たことも思い出した。彼の経歴に傷がつかないよう、直接注意してくれたという優しい人だ。
「容態はすぐれないようですな」
彼がガラス窓の向こう側に視線を向ける。その視線を追った。鈴菜の様子に変化はなく、繋がれた機械の一部のようだ。
「はい」
彼女を見つめながらうなずいた。
――ブーン、ブーン――
バッグの中であのスマホが鳴った。
何だろう?……気になったけれど、近くに嶽宮と瑞希がいるので無視した。
「スマホ、鳴っていますよ」
そう言ったのは嶽宮だった。
「大丈夫です」
小声で答えた。
「そうですか。……事件のことで話があるのです。少しいいですか?」
「はい。何でしょう?」
「ここではあれなので……」彼が目で瑞希を指した。「……屋上で、どうでしょう?」
宝田の事件に関わることだろう。……血生臭い話を瑞希に聞かせたくないのは法子も同じだった。
「そうですね」
法子は、動かずに待っているように瑞希に話し、嶽宮に従って屋上に向かった。
通りかかったナースステーションでは夜勤と日勤の看護師たちが引き継ぎを行っていて、清掃会社の作業員が病室や廊下の清掃作業に忙しくしていた。
屋上に出ると病院の嫌な雰囲気から解放されて気持ちが軽くなった。薄雲の空を白い旅客機が飛んでいく。
「良い空気ですな」
嶽宮が右手を広げて大きく息を吸いながら、建物の端の手すりに向かって歩いた。
「この病院は古い」
彼は手すりに寄りかかり、周囲に目をやった。七階建ての病院を取り囲んでいるのは新しいビルばかりだ。
「あのう、お話は、どういったことでしょう?」
瑞希を一人にしている。無駄話は避けて早く戻りたい。
「宝田鈴菜さんのスマホを持っているね。出してもらえるかな」
彼は左手をポケットに入れたまま、右手を差し出した。
どうして彼がスマホのことを?……怪しんでとぼけることにした。何かあったら瑞希が持っていると答えればいい。
「それならマンションにあるはずですが」
「もう一つの方だよ」
「エッ!……」
もう、宝田家の家宅捜索が済んだのだろうか?……不思議だった。
「……私が持っているはずないじゃないですか」
「しらを切っても、良いことはないぞ」
威圧的だった。
――ブーン、ブーン――
カバンの中でスマホが震えた。
「ほら、そこにある」
彼は手すりを離れて法子に近づいた。怖い顔をしていた。それで悟った。彼は左手でポケットの中のスマホを操作しているのに違いない。彼が二台目のスマホのことを知っている理由も理解した。
「あなたが〝公務員〟なのね!」
私には手を出さないと返信して来たのに、どうして?
「そうだよ。やっと気づいたか」
逃げなければならない。……考えたけれど、足はその場から動こうとしなかった。
「私が送ったメッセージが偽物だと、どうして分かったの?」
謎を解きたい。命も惜しい。……質問をして、答えと逃げ出すチャンスを欲した。
「フン……」彼が鼻を鳴らした。「……鈴菜はメッセージの最後に、一文字分の空白を入れる。もともとは俺が本物と偽物を区別するためにやっていたことだ。今朝のメッセージには、それがなかった。それで俺も空白をいれずに返した。鈴奈なら、何らかのリアクションがあっただろう」
空白があったのか。気づかなかった。……後悔は一瞬だった。〝相棒〟の文字が脳裏をよぎった。宝田社長殺害事件の捜査で、彼と九条刑事が相棒だった。そう立花が言ったのを思い出した。相棒だった嶽宮なら、九条刑事の行動を把握できたに違いない。
「あなたが九条刑事と葛岡さん、二人を殺したのね?」
「いいや、違うよ」
感情のない声だった。
「うそ!」
「俺が殺したのは三人だ」
彼がうっすら笑った。
「宝田社長も?」
「そういうことだ。鈴菜の頼みだったからな。宝田も葛原も脛に傷を持つ身。俺が事情を聴きたいと言えば拒めない。呼び出すのは簡単だった。……九条もあんたも、おとなしくしていれば良かったものを、事件をほじくり返すから面倒なことになるのだ」
「宝田社長を殺した凶器を葛岡さんに握らせ、財布を懐に入れたのね。でも、強盗の証拠と自殺は矛盾している。どうして?」
「念には念をと思ったが、やりすぎたようだ」
素直に答えたかと思うと、今までポケットに入っていた左手がのびて法子のカバンを握った。それはシリコン製の薄い手袋に包まれていた。
「止めてください」
重要な証拠を奪われてたまるものか!……両手でバッグを抱え込んだ。
「面倒くさい奴だな」
一言もらすと、彼が右手を振り上げた。
殴られる!……反射的に身をすくめた。直後、後頭部に彼の手刀が打ち込まれた。
痛みは一瞬だった。星を見た気がした。そして意識が薄らいだ。必死で守っていたバッグが両手から滑り落ちた。
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