第49話
インターフォンが鳴る。
「救急隊だと思う。瑞希さん、ロックを解除して」
「はい」
彼女はインターフォンの前に立って背伸びし、モニターを見てから解除ボタンを押した。
ほどなく、どやどやと救急隊員がやって来た。彼らはシェフナイフを手にして嗚咽する誠治を目にし、その場で足を止めた。
法子は誠治に近づいた。今なら、彼に襲われても救急隊員が助けてくれる。
「誠治君、包丁を床に置いてちょうだい」
耳元でささやくと、彼はハッとした様子でシェフナイフを床に置いた。握っていたことにさえ気づいていなかったようだ。
法子はタオルを使ってシェフナイフを掴んで包んだ。
安堵した救急隊員たちが鈴菜の止血を始める。彼らが彼女をタンカに乗せて運び出すのと入れ違いに、刑事が四人やってきた。
「どうして君が……」
法子を認めて驚いたのは星城署の藤堂警部補だった。
「瑞希さんから電話をもらって駆けつけたのです……」
法子は、駆けつけると誠治がシェフナイフを握っていたこと、抵抗する様子はなかったことなどを説明し、タオルに包んだ凶器を彼に渡した。
「未成年者か……」
彼は厄介ごとに巻き込まれたことを悔やむようにつぶやくと、部下が話を訊いている誠治のもとに向かった。
誠治は、刺した事実を素直に認めていた。ただ、その動機については首を振るだけで語らなかった。現場には藤堂だけが残り、他の刑事は誠治を星城署に連行した。
藤堂は瑞希を呼んで、誠治が母親を刺した理由を尋ねた。
「分かりません」
彼女は、はっきり答えた。血まみれの母親が病院に運ばれ、犯人の兄が警察に連行されたというのにとても落ち着いていた。藤堂はもちろん法子も、彼女の態度に同情した。小学生が無理をして冷静を装っているのか、あるいは、彼女が強烈な刺激のために感情を失ってしまったのだろう、と。
「剣さん、あなたは何か知っているのかな?」
またも藤堂に尋ねられて少し考えた。
「二人はネグレクトされていたかもしれません。母親は不在がちでしたから」
「虐待ということかな?」
改めて問われると自信が揺らぐ。
「私はここに何度か来ましたが、いつも兄妹だけでした」
事実だけを話した。何よりも自分の傷害事件の疑いは晴れたのかを確認したかったけれどできなかった。自分の事件は誠治が起こしたそれより軽微だ。第一それを口にしたら、自分と誠治が共犯で、今回の事件を起こしたと疑われるのではないか、と恐れた。
「明日、改めて事情聴取させてもらいますよ」
彼は法子の都合など無視し、現場保存のために1304号室を封鎖すると言った。制服姿の警察官が出入口に立ち入り禁止を示す黄色のテープを張った。
「瑞希さんはどうなります?」
藤堂に尋ねると、瑞希が法子の袖を握った。
「お姉さんと一緒がいい」
エッ?……彼女に頼られる理由が分からない。
「近くに親戚はいないの? お祖父さんとかお祖母さんとか、お父さんの兄弟とか」
「いない」
彼女が泣きそうになる。事件のことを聴取された時の冷静な態度はどこかへ消えていた。
「どうです。保護してやったら? 真っ先に呼ばれるほど親しいのでしょう? でなければ児童施設ということになる」
藤堂が言うと、瑞希はますます強く法子にすがりついた。
余計なことを言わないでほしいわ。……胸の内ではそう言ったが、「分かりました」と口が応じていた。
「しばらくここへは戻れないから、お泊りの用意をして」
「はい、ありがとう」
曇った顔がパッと晴れた。彼女は着替えなどの身の回りの品と教科書やノートを用意した。それは大きなキャリーバッグとランドセルをパンパンにするほどあった。
「女の子は大変だ」
大量の荷物を見た藤堂が軽口をたたいた。彼は、こと瑞希に対しては無責任な態度を取り続けていたが、ひとつだけ良いことをしてくれた。彼女と法子を車で送ってくれるという。
二人が後部座席に乗ると瑞希はすぐに眠ってしまった。法子の膝に頭を乗せて気持ちのよさそうな寝息を立てた。
「疲れたようだな。やっぱり子供だ」
ハンドルを握った藤堂がバックミラーに向かって言った。対向車のライトが、彼の厳つい顔を点滅させて見せた。
「そのようですね」
そう応じたものの、釈然としないものを覚えていた。兄が母親を殺そうとし、その凄惨な現場を見たのだ。簡単に眠れるものだろうか?
「その子は、ずいぶん剣さんを慕っているようだが、兄の誠治はどうなんだい?」
藤堂が法子の関与を疑っているのは明らかだった。マンションまで送るというのも、道中、気の緩んだ法子から情報を聞き出すためなのかもしれない。
「分かりません。二人と会ったのはたった三度で、電話で話したのも一度だけです。どうして私なんかに……」
膝の上の寝顔に目を向けた。その顔は誠治とよく似ていた。
「……もしかしたら、誰でも良かったのかもしれません」
「どういうことだ?」
「家にばかりいる兄妹には、大人の知りあいが少ないと思います。私を除けば、学校の教師ぐらいかもしれません」
「隣人は……」
「おそらく付き合いはないでしょう」
それには自信があった。
「だな。一応、被害者の親には連絡を入れさせた。父親はいないようだが、母親が明日には上京してくるらしい」
「そうですか……」ホッとした。瑞希を預かるのは一晩だけですむ。「……この子、こうなることを見越していたのではないでしょうか?」
それが彼女が眠っている理由だ。
「未来予知とか?」
彼が唇の端を上げた。
「冗談は止めてください」
「あんたの方こそ。どうして小学生に兄の凶行が予見できると思うんだ?」
「子供は繊細です。肌感覚で分かるのかもしれません。だから事件があっても落ち着いていられた……」
「俺には分からんな」
彼が唇を結んだ。
「鈴菜さんはどこの病院に運ばれたのですか?」
彼女は亡くなるかもしれない。ならば、生きているうちに、瑞希に会わせてやりたい。
「南都大学病院だ。おそらく行っても話はできないぞ。意識はないし、集中治療室になるだろう。面会は無理だ」
「この子に会わせてあげることはできますよね? 親子なんですから」
「ガラス越しになるぞ」
「分かっています」
法子は膝の上で寝息を上げる瑞希の髪をなでた。さらさらした素直な髪だった。
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