第46話

 バスタオルで身体を拭きながら〝公務員〟がバスルームから出てくる。野良犬のようにあばら骨が浮いて見える肉体だ。胴体の貧弱さに比べると、腕だけは筋肉がついている。

 彼は野良犬で、奥さんは臭いをかぎ分ける警察犬だ。……考えると可笑しくて笑ってしまう。

「なんだ?」

 鋭い視線に笑みも凍る。

「世間を信じないあなたが、どうして警察を信じろと言うのかと思って」

「何もかも信じられなくなったら、生きるのが辛いだろう」

 彼はバスタオルをソファーに投げると、床に脱ぎ散らした衣類を身に着け始める。

「それはそうね……」

 鈴菜は上体を起こし、ワイシャツのボタンを留める彼の背中を見ていた。

「……ねえ、剣法子のこと、お願いね。お互いのためよ」

 一蓮托生、あるいは運命共同体……。過去の事件で二人は共犯者だ、と匂わせると彼が振り返る。表情が曇っていた。強気で征服欲の強い彼だからこそ、弱点を突かれるとその身に応えるのに違いない。

「ああ、何とかしよう」

 彼は靴下をはき、マスクと伊達メガネをかけて出て行った。

 鈴菜はのろのろとベッドを抜け出し、テレビの陰に置いたボイスレコーダーを回収した。

 バスルームに入る。彼と違い、ボディーソープをたっぷり使って身体を洗った。

 身支度を整えてからスマホをチェックする。一台目のそれには宣伝メールしかなかった。二台目には〝自由人〟からのメッセージがいくつかあった。それによれば、法子は刑事と合流した後、電車で自宅に帰っていた。一緒にいた刑事は彼女の家にあがらず帰ったらしい。

〖ご苦労様、今日は帰っていいわ 〗

【明日も尾行するかい?】

 もう彼女を観察する理由はなくなった。すべて〝公務員〟に委ねよう。〝自由人〟も用済みだ。

〖しばらく待機で〗

 メッセージを送ってからラブ・ホテルを後にした。繁華街は、誰もが目指す場所に向かうのに忙しく、ホテルから単身で出てくる女性にも無関心だった。


 自宅に着いたのは午後九時を少し回ったところだった。寝るには早い時刻なのにリビングが暗い。

「ただいま、どうしたの? 誠治、勉強しているの?」

 瑞希が寝たのなら都合がいい。……満たされないものを埋める誘惑に心を躍らせながら照明をつけた。

 ソファーに兄妹の姿があった。誠治の胸に瑞希はすがりつき背中を見せていた。スカートに包まれたヒップは丸々していて大人の女性とかわらない。そこから伸びた白い足も生々しい。

 誠治が眩しそうに手をかざして光を遮った。それが鈴菜の目を避けているように見え、鈴菜の猜疑心を刺激した。

 誠治はともかく、瑞希は小学生だ。まだ子供だと油断していたけれど、性的なものに目覚めてしまったのだろうか?……足が動かない。

「誠治、なんてことを!」

 唇が動いた時には、声を荒げていた。頭に血が上っていた。

「ママ、僕は何もやってないよ」

 彼の弁明は耳に入らなかった。たとえ息子とはいえ男は信じ難い。彼らは性欲に屈し獣と化すものだ。

「瑞希……」

 声をかけても彼女は微動だにしない。

「どうしたの? 瑞希。誠治に何かされた? 寝ているの?」

 動揺を隠し、恐る恐る近づいた。

「僕は何もしてないよ」

 鈴菜以上に誠治が動揺していた。いや、鈴菜の怒りを恐れていた。

「ママ……」

 瑞希の声がした。

「瑞希、大丈夫? 具合、悪いの?」

 肩を抱いて顔をのぞき込む。

 瑞希は目をあけていた。その表情は床の間の日本人形のように感情がなかった。瞳だけが動いて鈴菜を射た。いつもの瑞希の瞳ではなかった。

「エッ……」

 身体が強張った。

「ママ、パパを殺したの?」

「エッ、な、何を言うのよ」

 誠治に目を向けた。妹に、何を吹きこんだの?

「瑞希が聞いたんだって。ママが電話しているの」

 再び瑞希に視線を戻す。彼女の瞳は感情のないガラス玉のようだった。宙を見るように、鈴菜を見ていた。それから逃げるように立ち上がっていた。

「電話……」

 いつ、どこで、誰との会話? 殺して欲しいなんて、一度も言ったことがないはずなのに? それだけは注意していたはずなのに……。もしかしたらあの時? 宝田が死んだと〝公務員〟から報告を受けた時?……過去の会話の記憶が、あれもこれも一斉に暴走し、目の前が暗くなった。

「私、パパが大好きだったのに……」

 瑞希、パパはいらないって言ったじゃない。……反論がのどをふさいだ。自分を落ち着かせよう、子供たちを説得しようと、嘘を考えれば考えるほど、瑞希を直視することができなくなった。

「エッ……」

 視界の隅から瑞希の姿が消えた。

 彼女の身体はねじれるように動き、誠治の足元にずり落ちていく。

「今よ」

 落ちながら唇からこぼれる言葉は鋭く、子供のもののようではなかった。

「何を言っているの?」

 視線が声の主を追った。

 鈴菜の足元で、瑞希の背中が床に着く。

「お兄さん……」

 その言葉に導かれるように誠治に目を向けた。今まで瑞希の陰になって気づかなかった。彼の手はシェフナイフを握っていた。

「そんなもの……」それはキッチンにあるべきものよ。のどが呻く。

「ママ……」

 誠治が立ち上がる。背丈は鈴菜を超えていた。鈴菜の全身を恐怖が走った。

「誠治、やめて。ママを愛しているのよね?」

 シェフナイフから距離を取ろうとしたけれど、足元の瑞希が足首を押さえていて動けない。誠治も動かなかった。シェフナイフを鈴菜の胸元に向け、肩で息をしている。

「誠治、ママはあなたを愛してる。分かっているわよね?」

「お兄さんはママのものじゃないの!」

「僕は……」

「早く!……お兄さんがやらないなら、私がやる」

 瑞希が応接テーブル上のペティナイフに片手を伸ばした。

「瑞希、止めろ!」

 誠治が動いた。



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