第45話
それは十二回目の逢瀬だった。世間の目を気にする〝公務員〟との待ち合わせ場所はラブ・ホテルだ。鈴菜は約束の時刻、空いている407号室に入ってから電話をかけた。「407号室よ」と。
決まって五分後に〝公務員〟は現れる。その前に、ボイスレコーダーの録音ボタンを押すのは忘れない。自分を守るための盾であり、彼を攻めるための鉾だ。もちろん、録音の事実は秘密だ。
――トントントン――
きっかり五分後に控えめなノックがある。鈴菜はドアを開けて迎え入れた。
「やあ……」
伊達メガネとマスクで変装してきた彼は、愛想笑いさえも浮かべず押し入るように室内に進んだ。時にはお茶やコーヒーを飲む彼だが、時間がないのだろう。部屋をぐるりと見回しただけで洋服を脱ぎだした。鈴菜のために会話を楽しむとか、ロマンチックな雰囲気を作り出そうなんて手間はかけない。
彼に負けないように鈴菜も脱いだ。彼は待たせると機嫌が悪くなる。裸になるとシャワーは使わずにベッドに横になった。
「この傷はどうした?」
彼が目を細めた。脇腹に残った赤茶色の一直線。〝学生〟がカッターで切った傷は、すでに
「土曜日、切られたのよ」
「切られた? 誰に?」
「えっと……」
彼には〝学生〟や〝自由人〟とも関係を持っていることを話していない。答えにくかった。
「九条刑事とつるんでいた剣法子か?」
「エッ?……」彼は知っているのかもしれない。そんな直感があった。噓は信頼を損なうだろう。「……いいえ。若い男に」
「その罪を剣に……?」
「忘れて。あなたには関係ないことよ」
「そうか」
ひとことだけ発し、彼は傷に舌を這わせた。痛みと性的な刺激の入り混じった快感が傷から全身に広がった。
彼が積極的に触れたのは、その一瞬だけだった。広いベッドで仰向けになる。
「中途半端な策を弄するな。警察は甘くない」
「分かってる。だからこうして、あなたにお願いしているの」
今度は鈴菜が彼の肌に舌を這わせた。
彼はただ横たわっている。そうしたやり方が彼の好みだ。支配欲が強いのだろう。鈴奈に奉仕させたいのだ。
「剣が死んでもいいのか?」
彼は宙を見ながら言った。
鈴菜は、彼の核心から頭を持ち上げて唇を解放する。
「殺してなんて頼んでいないわよ。彼女が私の人生に介入しないように脅かして欲しいの」
全てを録音している。彼を責めるため記録は残しても、自分の罪を証明するような発言は避けた。
「わがままな女だな」
「あなたがどうしようと、それはあなたの勝手よ。任せる」
「ずるい女だな」
彼が枕元にあった避妊具を取って押し付けてくる。鈴菜はそれを彼に装着した。
ラテックスの皮を被った彼が押し入る。
ほどなく、いや、どちらかといえばあっけなく、彼は欲望を放った。鈴菜は満足していなかった。満ち足りない肉体を癒すのは家に帰ってからになる。彼と交わるときは、いつものことだ。
「終わったの?」
彼を笑ったわけではない。ただ彼は、そう受け取ったようだ。
「俺を甘く見るなよ。自由に操っているつもりだろうが、その気になれば……」
彼の手が首にかかり、締め付けてくる。声が出ない。
殺される。いや、彼は殺さない。……酸欠で思考力を失った脳が、ヤメテ、と繰り返した。ヤメテ、殺さないで……。
「……俺は誰でも殺せる」
彼が手を離した。
新鮮な空気を求め、のどがヒューヒュー鳴った。空気が肺を満たすと頸動脈を流れ出した血液が思考力を回復させる。彼が宝田を刺すイメージが頭をよぎった。
「分かってる。夫を殺したのもあなたでしょ?」
直感が言った。新たな気づきに背筋が震えた。
「宝田を殺したのは葛岡だよ」
「うそ……」
「警察発表だ。信じろ」
彼はベッドを抜け出して避妊具を外す。それをティッシュに包み、持ち歩いているビニール袋に入れて上着のポケットに入れた。
「いつも持ち帰っているけど、どうするの?」
「捨てるに決まっているだろう」
「捨てるならここで捨てればいいのに」
部屋の隅にあるくず籠に目を向けた。
「もう忘れたのか?」
彼の瞳に侮蔑の色が浮かんだ。
「体液を事件現場に置かれたら犯人にされるという、あれね」
それがヒントだった。〝学生〟に自分を切らせて剣法子を犯人にしようとした。そうやって彼女を遠ざけようとしたのだけれど、結果は逆になってしまった。だから今度は〝公務員〟に始末してもらうことに決めた。彼なら確実に仕留めてくれるだろう。
彼は返事をせずにバスルームに入った。彼が使うのはシャワーの湯だけでソープを使うことはない。そうして鈴菜の汗と香りだけを洗い流す。彼の妻の鼻はホテルのソープの香を嗅ぎ分けるのだろう。
壁の時計に目を向ける。彼と会ってからまだ四十分だった。いつものこととはいえ物足りない。奥さんとのセックスも、こんなものなのかしら?
「その避妊具はどこに捨てるの?」
シャワーの音がするバスルームに問いを投げ、身勝手な彼に復讐を果たしたような気分を覚えて冷笑した。
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