Ⅴ 愛のカタチ

第44話

 ――クニノミヤ物産本社事務所

 ――ブーン、ブーン――

 宝田鈴菜のスマホが震えた。通常使っているスマホはデスクの上でシンとしている。震えたのは引き出しの中の二台目だ。その日は頻繁にメッセージが届いていた。そのたびに社長の目を盗み、あるいは席を離れ、メッセージを読んで指示を出していた。

【剣は東上線に乗った】

〝自由人〟からのメッセージだった。剣法子は、篠田美緒、葛岡沙良と、宝田の関係者に会っている。その足が、亜里子に向かっているのは明らかだった。

 鈴菜はバッグとスマホを手にして席を立ち、トイレに入った。

〖尾行を継続して 〗

 メッセージに返信する。

 事態は悪化している。……少し考え、〝公務員〟にもメッセージを書いた。

〖剣法子を抑え込んでちょうだい。彼女は今、スナック〝月下美人〟に向かっている 〗

 彼はどうするだろう? また殺すのだろうか?……考えながらトイレを使った。自分の意志を汲んだ彼が邪魔者を排除する。それには、排泄にも似た生理的な快感を覚えていた。

 ほどなく返信があった。

【いいだろう。今夜、いつものところで待っていろ 】

 彼はいつものように強引だった。

 またやりたいのね。……侮蔑にも似た感情が頭をもたげる。〝公務員〟のセックスはシンプルだった。こちらの感情に配慮することなく、自分が満足したらおしまい。まるで精子を体外に排出する作業だ。愛人としては最低の男だった。

 それでも彼は、セックス以外では有能だった。夫が邪魔だと示唆しただけで、彼は殺した。実際に殺したのは葛岡という官僚だけれど、そうさせたのは彼だ。それで彼も財務官僚かもしれないと考えていた。そんな有能な人材は繋ぎ止めておかなければならなかった。

 でも今日はまずい。子供たちが家で待っている。

〖急すぎる。いつものように休日にして 〗

【今日だ 】

 短いメッセージに強い意志を感じた。彼にも都合があるのだろう。

〖了解 〗

 メッセージを返してから、もう一台のスマホで電話を掛ける。相手は息子の誠治。

『なに、ママ?』

「残業で遅くなるから、また、コンビニでお願いね」

『また。瑞希がむくれるよ』

 不服そうな声がした。

「ママの料理より美味しいでしょ。お願いね」

『……うん、分かった』

 息子より先に通話を切った。

 事務所に戻ると、ちょうど終業時刻のチャイムが鳴った。席を立つ社員はわずかで、多くの社員は机に向かったままだ。

「速水君、もう帰っていいよ」

 鈴菜の姿を認めた綾小路が言った。速水は鈴菜の旧姓だ。社長秘書の鈴菜は、綾小路が仕事をしている限り帰らない。使命感だけでなく、彼と同じ時間を過ごしたいという感情があった。それは安っぽい〝愛〟以上の感情だ。

 鈴菜の父親は酒気帯び運転で事故を起こして他界した。歩行者を三人はね殺したうえ、電信柱に激突して死んだのだ。鈴菜が中学に入学する直前だった。事故は、地元では大きなニュースになり、鈴菜の人生に多大な影響を及ぼした。中学、高校と、同級生の冷たい視線を浴びながら過ごすことになった。大学進学をあきらめたのも、人殺しの娘が大学進学など図々しいという声を聞いたからだった。母親の経済的な負担にもなりたくなかった。

 父親の事件のこともあって地元での就職は難しく、母親のもとを離れてクニノミヤ物産に入社した。配属先は綾小路が部長を務めていた総務部人事課だ。彼と関係を濃くしたのは二十歳の時、成人祝いという名目で誘われた。ベタな展開だけれどそれに乗ったのは、若さという無知と好奇心、そして父親的なものに対する憧れからだった。

 父親――写真などは事故の後に全部燃やしてしまったから、実の父親の面影は年を経るほどに薄れた。

 入社して五年が経った時、綾小路が社長に就任、鈴菜は社長秘書に抜擢された。それが彼の愛欲を満たすためだと分かっていても幸せだった。男女のことは、すべて彼に教わった。

 社長秘書になる直前、営業社員として足しげくクニノミヤ物産に足を運んでいた宝田と結婚した。綾小路の紹介だった。結婚して名字は変わったけれど、速水の姓を捨て去る気持ちにはなれなかった。結婚当時も今も、宝田より綾小路に深い愛情を感じている。

「もう、よろしいので?」

 予定がないのは分かっていたけれど、念のために確認した。

「私も帰るから……」

 駅まで送ろう、と綾小路が続けたらデートの合図だ。

 彼は引き出しを開けて何かを探し始めた。

「分かりました」

 鈴菜は応じてホッとした。誘われたら〝公務員〟の約束とぶつかってしまう。どちらを断るにしても難しかっただろう。

 会社を出ると徒歩で駅に向かう。誰かに尾行されていないか、何度か振り返った。他人を尾行させているからか、自分まで見張られているような気がしてならない。

 電車に乗ってから〝公務員〟に会うのに不安を覚えた。普段、と会うのは休日と決めていて、接触がばれないように変装していた。万が一にも会社の誰かに気づかれないように……。

 ――ブーン、ブーン――

 二台目のスマホが唸る。〝自由人〟からだ。

【剣がスナック〝月下美人〟のママに接触】

 予想どおりだった。

〖了解、彼女が帰宅するまで確認して 〗

 途中、〝公務員〟が彼女を始末するかもしれない。それなら安心だけど。……一度はそう考えた。けれど、ナイ、と思った。彼は用意周到な男だ。突発的な行為には及ばないだろう。

【報酬は?】

〖次の日曜日。いつもの場所で 〗

【ホテル、変えないか? もっと面白いところがいい】

 面白いって、なによ、こいつ。……腹が立った。

〖検討する。見失うわよ 〗

【問題ない】

『まもなくぅ……』

 駅に到着するアナウンスがあり、スマホをバッグに戻した。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る