第42話

 外階段を下りた法子は二階を見上げた。窓ガラスの向こうで見下ろすミズキと目があった。彼女は、逃げるようにカーテンの向こう側に消えた。

 葬儀の時の亜里子と鈴菜の様子を思い出す。亜里子は鈴奈に抱き着いたけれど、鈴菜の方は背中に手を回さなかった。無視、いや、どちらかと言えば突き放したそうだった。亜里子が宝田の愛人だということを鈴菜は承知している。だからといって納得しているわけではないということだ。

 周囲に目をやる。通行人はいるが、電車で目が合った精彩のない男性の姿はなかった。ひき逃げ事件は解決したものの、宝田社長殺害事件、鈴菜に対する傷害事件、〝故郷応援団フルフル〟売買の謎は解けない。そして尾行だ。

 一体どうなってるの?……もやもやしたものを胸に駅に向かった。

 ――ファオン、ファオン……――

 大通りを緊急車両が走り抜ける。それを見送りながら立花に電話を掛けた。今、顔を合わせたら彼の立場が悪くなるかもしれない。けれど、声を聞くぐらいなら良いだろうと思った。

『もしもし』

 その声は沈んでいた。

「都合が悪そうね?」

『うん』

 ――ファオン、ファオン……――

 彼の声の後ろで微かにサイレンの音がした。

「立花さん、近くにいるのね? サイレンの音がする」

 緊急車両が走り去った方角に目を向けた。夕暮れの街、街灯や家々の窓に明かりが灯っている。走る車のヘッドライトに明かりはないけれど、テールランプは鮮やかだった。

「立花さん!」

『……』沈黙が続く。

「近くにいるのでしょ? 立花さん、答えて」

『まいったな……』

 二つほど先の角に彼の影が現れた。

「やっぱり」

『嶽宮警部補に、法子さんの暴走を止めるように命じられてきたんだ』

 彼が話ながら近づいてくる。

「どうして? 私、その警部補に見張られているの?」

『いいや。通報があったらしい』

「だれから?」

「さあ、それは分からない。ただ、逆井亜里子の家に向かっているらしい、ということだった」

 葛岡沙良の顔が頭を過った。彼女は、私がここに来ることをどうして知ったのだろう? いや、違う。彼女はなにも分からないはずだ。やはり誰かに見張られている。……周囲に目を走らせた。

 立花が目の前にいた。

「どうしてすぐに声を掛けてくれなかったの?」

「難しい顔をしていたから、声を掛け難くてね」

「本当? 立花さんが、ずっと尾行していたんじゃないの?」

 彼は精彩の上がらないあの男性から尾行を引き継いだのではないか?……彼に対する信頼が揺らいでいた。

「違うよ。……正直に言うと、タイミングを見計らって脅かしてやろうと思ってつけていたんだ」

「本当? 意外と意地悪なのね」

 疑惑を抱えたまま、かわい子ぶって答えた。自分が〝女〟を演じていることには何の疑念も持たなかった。駅に向かって歩きながら彼の反応を窺った。

「ごめん、ごめん。もうしないよ」

 背中で聞く彼の謝罪も嘘くさい。

「分かりました。もういいです」

 大人の対応、我ながら立派だと思う。でも歩は緩めなかった。

「こんどは何処に行くの?」

「マンションに帰ります」

「送るよ」

「私が立花さんに嘘を言って、どこかに行くとでも?」

 意地悪で言ったわけではない。彼が自分の行動を最後まで確認しようとしていると感じていた。

「また、車にはねられたら大変だから」

「事故の件は、九王子署から連絡をもらいました。狙われたのは自治会の役員さんでした。だから大丈夫です」

 送る、無用だ、と押し問答のようなことを繰り広げているあいだに駅に着いた。

「送らなくていいので、宝田鈴菜さんを襲った人を捕まえてください」

 無理だと知っていて要求した。

「無茶を言わないでくれよ。管轄が違うんだ」

「知っています」

「それならどうして……」

「私が容疑者だから、ついて歩いているんじゃないですか?」

「僕は、法子さんが切りつけたなんて思っていないよ」

「でも、警察はそうではないですよね。……駅の防犯カメラ、まだチェックが終わってないのかな? それが終われば私のアリバイは証明されるのよね?」

「そうだね。きっと後回しにされているんだ。小さな傷害事件だから」

「ヒドイです。小さいだなんて。……私は誰かの罠にはまって苦しんでいるのに……」

 胸を抑えた。実際、もやもやしているのは頭の方だ。

「焦ることはないよ。それより、本庁に目をつけられないことだ」

 なんだかんだ言いながら、彼は電車に乗り込んできた。帰宅を急ぐ会社員や学生で混みあう電車だ。法子は乗客に押されて彼の身体に張り付き、電車に揺られた。

 長い沈黙がわだかまりを溶かしていく。そもそも彼のことが嫌いじゃない。むしろ大好きだ。……ぴったり寄り添っていると胸の鼓動が早まった。まるで自分が線路を走っているようだ。

 電車を降りると彼も降りた。マンションまでの道、二人の靴音がそろった。彼を信じようと思った。監視しているのは、彼以外の誰かに違いない。そうであってほしい。

「上がっていきませんか?」

 マンションの前、胸で渦巻く欲望を押し包んで誘った。監視するだけなら同じ部屋にいた方が楽なうえに間違いがないはずだ。別な意味の間違いがあるとしても。

「いや、今日は止めておくよ」

 残念だった。何を止めておくのかはともかく、それで、自分を監視しているのは立花以外の何者かだ、という推理に確信が持てた。立花は、別の誰かから警視庁に報告が上がるのを避けようとしているのに違いない。彼は私を、同時にふたりの未来を守っている。そう信じた。

「そう……」

「それじゃ、また」

 彼が去っていく。その背中は寂しげだ。

 いや、寂しい私がそう見ているだけなのかもしれない。……彼が振り返りもしないのが憎らしかった。


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