第40話

「……早速ですが」

 法子は、あのDNA鑑定書をテーブルに置いた。

「これをご覧になったことはありますか?」

 彼女が宝田の子供を産んだと偽り、それを社長が鑑定書で否定したのなら、何らかの反応があるだろう。

「……これは?」

 首を傾げる彼女の様子に違和感はなかった。

「いえ。ご覧になったことがないのなら結構です。篠田さんは、どちらで社長と知り合われたのですか?」

「前の職場で、誠治君の保育をしていました」

「葬儀に、どうして来られなかったのです?」

 声を潜めて尋ねた。

「すべて終わらせると決めましたので」

 まるで彼女が宝田を殺したというような言い方だった。

「すべて、とはどういうことですか? 宝田社長が邪魔になったということですか?」

「とんでもない……」

 自分が疑われていると察したのだろう。声が大きくなった。

「……私は、事件とは関係ありません。宝田さんが亡くなったので、やり直すことにしたのです」

 トーンを落とした。表情からその意思は明確だった。

 彼女は噓をついていない。そう判断して席を立った。

「もう来ないでください」

 彼女が言った。

「はい。二度とうかがいません」

 そう応じると、彼女の顔が柔和な保育士のそれに戻った。

 法子はその足で葛岡沙良の転居先である彼女の実家に向かった。立花には知らせなかった。彼の指示に背くことに後ろめたい思いはあったけれど、迷惑ばかりかけているので自力で挽回してみせたかった。

 沙良の実家は二駅先にある。電車内で一人の男性に目が行った。美緒を訪ねる際に同じ駅で降りた精彩のない男性だ。彼は慌ててスマホに視線を移した。

 刑事に尾行されている? 私はやってない!……胸中叫んだ。

 最寄駅で降りる。あの男がいないか、振り返る。彼はいなかった。ホッとして、スマホの地図を見ながら歩き始めた。

 たどり着いたのは大きな松の木が塀の上からのぞく、門構えの立派な邸宅だった。【斎藤】表札にあるのは、ありふれた名字。

 ここかぁ。会ってはもらえないかな?……古めかしい門構えは客を拒絶しているように見えた。松の木と表札を交互に確認してから、エイッ! と気合を入れてインターフォンのボタンをおした。

 何度かボタンを押したけれど返事はなかった。洗濯物が干してあるので、居留守かもしれない。あの落書きだらけの家を思えば、他人を恐れても不思議ではない。

「仕方がない。帰るか……」

 あきらめた時、背後から「あのう」と声がした。振り返るとランドセルを背負った少女がいた。高学年だろう。凛々しい眼もとに知性を感じた。

「あ、こんにちは。こちらの方ですか?」

「はい、そうです」

「インターフォンを押したのだけど、お出かけみたいで?」

 門の奥に見える玄関ドアに目を向けた。

「すみません。それ、壊れているんです。それで?」

 少女はインターフォンを指して言ってから、法子に目を向けた。それが何者? と訊いている。

 この少女が葛岡夫婦の子供かな?……気づくと、緊張した。今更ながらだ。

「剣法子と言います。お母さんにお会いしたくて伺ったのですが、いらっしゃいますか?」

「いると思います」

 少女は疑うことなく門扉をあけて中に入った。タタタと小走りで玄関まで走るとポケットから鍵を取り出して自分で開けた。法子は彼女の後ろで待った。

「ママ、お客さんよ」

 少女は奥に向かって叫ぶと、靴を脱いで奥へ消えた。

「ハイ、ハイ、ハイ……」

 沙良は少女に押されてやってきた。微笑んでいたその顔が、法子の前に立つと氷のように固まった。

「斎藤ですが、私に何か?」

「システム・ヤマツミの剣法子と申します」

 名乗ると、彼女の膝が崩れた。後ろで、少女がポカンとしている。

「申し訳ありません」

 それが何を意味するのかは明らかだ。

「事件のことで伺ったのではありません。差し支えなかったら、お線香を上げさせていただけますか?」

 彼女を安心させるためにそう告げた。

「それが、ここには何もないのです。父が怒っていまして……」

 葛岡の遺骨は、あの家に置き去りにされているということだった。自業自得とはいえ、それも哀れだと感じた。

 法子の要件が罪を犯した父親のことだと知った少女の顔から感情が消えていた。トン、と床を一つ蹴ったかと思うと、走るようにして奥に消えた。

「では……」

 法子はDNAの鑑定書を出して沙良に見せた。

「……これを見たことはありませんか?」

 彼女は書類に目を落とした後、首を横に振った。

「訊きにくいのですが、奥様は、宝田社長と面識があったのでしょうか?」

「いいえ、まったくありません……」彼女は明瞭に答えた。「……どうして私がその方と知り合いだと?」

 逆に問われて困惑した。事件の話はしないと告げてあったが、少し考えて話すことにした。

「ご主人、いえ、葛岡さんが宝田社長を刺した理由が、この書類に関係するものかと思ったものですから。……私の早とちりでした」

 法子は詫びて、斎藤家を後にした。

 沙良とその娘に嫌なことを思い出させてしまった。……苦い薬を飲んだような嫌な気持ちを抱えながら駅に向かった。


 次に足を運んだのは、逆井亜里子の住まいだった。彼女は、寂れた商店街のスナック〝月下美人〟の二階に住んでいた。スナックが勤め先だ。

 壁に張り付いたような鉄製の階段をのぼる。チャイムを鳴らすと玄関ドアが開いた。現れた亜里子はスッピンだったけれど色気があった。ただ、葬儀場で見た時より、とてもやつれているように見えた。化粧をしていないからではない。きっと彼女は宝田を失って本当に悲しみ続けたのだ。

 狭い三和土には小さなピンク色のスニーカー、奥の部屋には人の気配がある。スニーカーは中の子供のものだろう。アイドルグループの音楽が漏れていた。

「どなた?」

 亜里子が不愛想に訊いた。



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