第38話
カップ麺のふたを開ける。立ち上った湯気が魔法のように消えた時、閃いた。
「アッ……」
綾小路は、システム・ヤマツミの社長になれなかったことで鈴菜さんを恨んでいるだろう。それで、別れようとしているのかもしれない。
張り込みをした夜、運転席の綾小路に手を振る少女のような鈴奈の姿が思い浮かぶ。
鈴奈さんは綾小路に執着したのだろう。それで彼は、鈴奈さんを殺そうとしたのではないか? 鈴菜さんはそれを警察に告げず、綾小路と何らかの取引をしようとしているのではないか? たとえば、クニノミヤ物産の買収とか……。
そうだ。そうに違いない!……推理に胸が躍る。
カップ麺に箸をさした。
「アッ……。油断した」
麺が伸びていた。一人捜査会議をしている間にすっかり時がたっていた。ぶつぶつと切れる麺をのどに流し込んだ。
貧しい食事を済ませた後はシャワーを浴び、ベッドに入って再び推理を始めた。綾小路と鈴奈の不倫関係を中心に、様々な容疑者、数々のストーリーが脳内を走り廻る。
睡眠不足も祟り、暴走する妄想に限界はなかった。まんじりともせず立花からの連絡を待っていたけれど、とうとう寝落ちした。
――ルルルルル、ルルルルル……――
着信音で目覚めたのは日曜日、太陽が高くなってからのことだった。
「誰だろう?」
見慣れない番号だった。
警察かな?……電話に出た。
『もしもし、剣さんですか?』
おずおずした声は誠治のものだった。
「誠治君、どうしたの?」
『瑞希が煩くって……』そこで声が変わった。『……もしもし、お姉さん?』瑞希だった。
「瑞希さん、どうしたの?」
『お姉さんがママを刺したの?』
少女のストレートな詰問に、法子は言葉を失った。
『それって、私のため?』
「エッ?……いいえ。違うのよ。……私は瑞希さんのお母さんを刺したりしていないから。一度も会えていないのよ。お母さんは誤解しているのよ……」
夢中で言い訳を言った。自分のためでなく、彼女を傷つけたくなかったからだ。それに対し、意外と少女は落ち着いていた。
『フーン……。そうよね。お姉さん、良い人だもの。ママを襲ったりしないわよね』
「そうよ。分かってくれた?」
『うん、分かった。じゃあね』
プツンと電話が切れてあっけにとられた。
何だったのだろう。……切れたスマホをぼんやり見つめた。
ふと思い出し、着信履歴とSNSのメッセージを確認した。立花からの連絡はなかった。
刑事も日曜日は休みなのだろうか?……事件のことが気になって食欲がわかない。スナック菓子をつまんでエネルギーに換えた。
事件以外のことで思い浮かぶのは立花のことばかりだった。彼の趣味、彼の温もり、彼とのデート。……ワクワクしたけれど、それで彼からの連絡があるわけではなかった。そうしてたどり着くのは、彼まで九条のように殺されてしまったのではないかという不安だった。
いつまでたっても立花からの連絡はなかった。ネットニュースをあさり、彼が被害者になっているような事件がないか探した。それがないと分かると、彼も本来の仕事で忙しいのに違いない、と自分を慰めた。
不安は食欲を損なわせるけれど、なぜか、胃袋はグーグー鳴って仕方がなかった。普段通りに食事をとりスマホを握りながら鬱々と一日を過ごした。
翌日、外に出るのは不安だったけれど、仕事があるのでマンションを出た。周囲に目を配る。誰かが監視しているかもしれなかった。駅に向かう人並みはあるけれど、物陰からうかがうような人影はなかった。
ホッとすると同時に残念な気持ちもあった。自分が物語の中心にいないという空虚感だ。所詮、私なんて世の中のモブキャラなんだ。……足を駅に向けた。
電車に乗ると、あの日の救急車のサイレンの音を思い出した。鈴菜はどの程度の傷を負ったのだろう? 身体のどこを傷つけられたのだろう? 誰が彼女を傷つけたのだろう?
サイレンの音は、もう一つの記憶を呼び起こした。葛岡の家の前ではねられた記憶だ。その中心にいるのは頭から血を流した高齢者だった。狙われたのは、あの老人かもしれない。……そう前提を変えると、事件が違って見えた。近隣住民に白い目を向けられた葛岡沙良。彼女が復讐のために、自治会の役員である老人を狙ったのではないか?
電車が減速して身体が前方に持って行かれる。そうして妄想の世界から現実に戻り、DV被害者の沙良が高齢者を襲うことなどないだろう、と思い直した。きっと彼女は、物陰で震えることぐらいしかできないだろう。
――思い込みは排除しろ――それは都留部長の教えだった。パソコンで作られた資料だから正確だ。何人ものチェックが入った書類だから適正な検証を受けている。丁寧に説明しているから内容も正しい。……監査では、そんな思い込みに注意しろということだ。優しい人が事件を起こさないとは限らない。DV被害者の沙良が、自治会の役員を恨まないとは限らない。か弱い女性だって、誰かに頼んで復讐することは可能だ。
結局、妄想が膨らむばかりで何一つ答えを出せないまま電車を降りた。
――書類は嘘をつかない。が、正しい書類もあれば粉飾された書類もある。その二つの書類の違いこそが証拠だ――それもまた都留部長の教えだった。
「書類かぁ……」
電車を降りて職場へ向かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます