第31話

 やはり、何かある。……鈴菜の反応に、法子は確信した。

「当時、私は人事課におりましたので、そうしたことは全く存じません」

 彼女はピシャっと応じて踵を返し、小走りで道路を渡った。

 追うべきか?……躊躇があった。目の前を、ヘッドライトをつけた車が走り抜けていく。あっという間に鈴菜の姿は遠くなっていた。法子はあきらめてスマホを手に取った。立花にメッセージを送る。

〖収穫はありませんでした。帰宅します。ドライバーが分かったら、教えてください〗

 返信があったのは電車の中でのことだった。

【運転手が分かった。君の家で話そう。きっと驚くよ】

 思わせぶりな返事に困惑した。驚くというからには、自分が知っている人物に違いないのだから。

 誰、と文字を打ってから取り消した。彼は自分の口で言って驚かせたいのだ。

〖早く来てください。私はあと二十分ぐらいで到着します〗

 メッセージを送ると目を閉じ、関係者の顔を思い浮かべた。クニノミヤ物産で記憶にある男性は綾小路社長だけだ。しかし彼は初老といっても過言ではない。夫婦仲もよさそうだ。では、小早川部長? 綾小路課長? それともシステム・ヤマツミの誰か? まさか、女性? いやいや、あの影は絶対男性だ。……高級車の車内でハンドルを握っていた人物の黒い影を思い浮かべた。

 法子の帰宅後、三十分ほどで立花が現れた。

「お帰りなさい。……あ、お帰りはおかしいですね。いらっしゃい」

「いや、お帰りでいいよ」

 彼は無邪気な笑みを浮かべて靴を脱いだ。法子を抱きしめキスをした。

「それで、誰なんです。鈴菜さんの不倫相手?」

「不倫と決まったわけじゃないだろう。用事があって同行しただけかもしれない」

 彼は法子をじらして喜んだ。

「あんなにおしゃれをして、親しげで、毎週会っているなんて、不倫以外にありませんよ」

「それはどうかな?」

「どうして、ですか?」

「車を運転していたのは綾小路社長だった。あれから、真直ぐ自宅に帰った。綾小路社長なら、何らかの仕事をしていると言えるんじゃないかな。販路の新規開拓とか接待とか?」

「接待……」

 社長と社長秘書が政治家や役人、大企業の担当者を接待して仕事をもらう。ありうることだと思った。何分、クニノミヤ物産は業績が低迷している。どんな手を使ってでも仕事が欲しいだろう。

「でも違うか。昼間の接待ならゴルフ。夜なら料亭だものな。販路開拓に秘書同伴もおかしい。やっぱり不倫だな」

 彼は自説を自ら否定して苦笑した。

 ピンとくるものがあった。

「宝田社長、二人の不倫を知っていたんじゃないでしょうか?」

「どうしてそう思うんだい?」

 彼の瞳に真剣なものが戻った。

「宝田社長がクニノミヤ物産の経営権を手に入れようとしたのは、報復かもしれません。妻を寝取られた報復」

「寝取った、だなんて古臭いな」

 彼が再び笑う。

「そ、そうですか」

 顔が熱くなった。

「今は、NTRって言うんだよ」

「そうなんだ。あ、私ったら、お茶も出さないで」

 赤い顔を見られるのが恥ずかしくて席を立った。

「お構いなく。お菓子ならたっぷりあるんで」

 彼がコンビニのレジ袋を持ち上げて見せた。

「アッ、それ、さっきの……」

 湯を沸かしてコーヒーを淹れる準備をした。

 彼はスイーツをテーブルに並べた。

「たくさん買ったなぁ」

「徹夜になるかと思って……」

「冗談だろう?」

「はい、冗談です」

「やっぱり……」

 彼が微笑み、ケトルが悲鳴にも似た音を鳴らした。

「報復かぁ……」

 そう言う立花は、何かを懐かしむようだった。

 法子はコーヒーを淹れる。その匂いが鼻をくすぐる。好きな香りだ。

「企業買収は犯罪じゃないですよね?」

「まあ、そうだね」

「宝田社長は合法的に報復を行おうとしていた。それが合法的であっても、綾小路社長には受け入れ難いことのはずです」

「綾小路が、宝田社長を殺したと思うのかい?」

「動機はあると思います。……それなのに鈴菜さんったら……」

 夫殺害の真犯人と不倫を続けているなんて。……誠治と瑞希の顔を思い出すと目じりが濡れた。

「……子供たちが可哀そう」

 彼の前にコーヒーカップを置いた。

「二人の不倫は、宝田社長の死後に始まったとは考えられないかい? 夫を失って心細くなった妻が身近な男性にすがって……。いや、夫を失った秘書の心細さにつけ込んで、綾小路社長が……」

「鈴菜さんに限って、それはないと思います。葬儀の時も新社長を決めるために会社に来た時も、彼女はビジネスライクでした。とても芯の強い人です。それに今日の態度……」

 運転席の男性に向かって少女のように手を振る鈴菜の姿、それは今見たばかりのように思い描けた。

「……鈴菜さんと綾小路社長の関係はひと月やふた月の付き合いで出来るものとは思えません」

「なるほど。……でも、心証だけではなぁ」

「二人がホテルに出入りしている場面の写真を撮ればいいですか?」

 それは不倫調査をする探偵がすることだ。

「剣さん」

「はい」

「僕らが証明しなければならないのは二人の不倫じゃない。綾小路社長が何者かに殺害を依頼した証拠だ。その殺害動機が会社を守るためか、鈴菜さんを独占するためか、それは逮捕してからだって聞きだせるよ」

「そうかぁ。そうですよね」

 鈴菜が不倫していることに気づいて興奮状態にあった脳が、一気に鉛のように重く鈍くなった。

「とにかく、その線で捜査を進めてみよう。綾小路社長の周囲の人間が葛岡とつながっていないか、もう少し調べてみるよ」

「それと九条刑事です」

「ああ、忘れちゃいないよ。……葬儀に参列したんだ。奥さんと子供たちが可哀そうだった」

 彼の表情が引き締まった。当然だ。九条は彼の相棒だったのだから。

「葛岡と九条刑事の通信記録に共通の番号はありませんでしたか?」

「うん。なかったね」

 即答だった。法子は、自分が素人探偵だと思い知らされた。



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