第29話

「今晩は」と兄。「どうぞ」と妹。

 二人を迎えてくれたのは、誠治と瑞希の兄妹だった。

「お母様は?」

「出かけています」

「先週から、ずーっと?」

 ネグレクトではないか?……法子は疑った。

「いいえ。出かけたのは午後一時ごろです」

 誠治はそう言ながら、法子と立花のために茶を淹れた。

「今日は、どこに行ったんだい?」

 立花が訊いた。初対面なのに、まるで友達のように気さくな態度だった。それでも誠治の無表情を変えることはできなかった。

「分かりません」

 彼は先週と同じように即答した。

「会社に行っているの?」

 クニノミヤ物産の業績は低迷していると都留や亀田が話していた。それで思い浮かんだのはサービス残業だ。

「会社は月曜から金曜です」

 誠治がきっぱり否定する。

「なるほど、そこはなんだ」

 立花が感心してみせると、少年は微妙な表情を見せた。

「何か悩みがあるのかい? 僕で良かったら、相談に乗るよ」

 彼が声を潜めた。

 誠治の相手は立花に任せ、法子は祭壇の前に座っている瑞希と話すことにした。彼女は父親を亡くした悲しみの中にいる。

「お父様が亡くなって辛いわね」

 少女が小さくうなずいた。

「瑞希さんは、何年生なの?」

「四年生です」

「学校は楽しい?」

「まあまあかな」

 彼女は大人のような口を利いた。

「お母さんは優しい?」

「はい。私はママが好き」

「瑞希さんを置いて出かけてしまうのに?」

「それは仕方がないの」

「どうして?」

 彼女は戸惑った目をして、誠治に視線を向けた。兄の許可がなければ話せないとでも言うように。

「話してもいいのよ。お兄さんには内緒にするから」

 彼女が考える仕草をした。ほんの一瞬のことだった。

「やっぱり言えません。大切な約束だから。約束を守るのは大切でしょ? 約束は契約。絶対守らないといけないものなんだって」

 クリクリした瞳が法子に向けられた。

「そうね。でも……」時と場合によっては、約束を反故にしなければならない時がある。そう教えようとして言葉がつまった。その判断は小学生には難しいだろう。大人だって、その判断を誤って大きなトラブルに発展することがあるのだから。

 言葉を捜していると、瑞樹が先に口を利いた。

「お姉さんは、あの男の人の恋人なの?」

 彼女は兄とヒソヒソと話す立花を目で指した。

「エッ……」

 胸がズキンと鳴り、あの夜のことが打ち上げ花火のように全身に広がって身体をしびれさせた。

 少女が法子をじっと見ていた。だと思った。

 立花に目をやり、彼がこちらに意識を向けていないことを確認した。

「彼は恋人じゃないの。バディよ」

「バディってなぁに?」

 彼女が瞳をパチクリさせた。

「相棒よ。分かる、相棒?」

「それなら分かります。ママにも相棒がいるから」

「へぇ、ママも刑事みたいね」

 鈴菜はクニノミヤ物産を乗っ取るために社内で仲間を作っているのかもしれない。今日もそのために活動しているのかも。……妄想が廻った。

「ママは秘書よ。社長秘書なんだって」

「へぇ、社長秘書なんだ。すごいのね」

 綾子の顔が脳裏をよぎる。

「素敵でしょ。だから、おしゃれして行くのよ」

「おしゃれ……」もやもやしたものを覚えた。

「私も大人になったら秘書になるの。お兄さんが社長で私が秘書」

「あら、素敵ね」

 子供から事件に関わることを訊きだすのは無理か。……少しだけ気落ちした。

「私とお兄さんもバディ?」

「そうね。立派なバディよ」

「ねえ、ねえ、私とお兄さんもバディだって……」

 瑞希が兄のもとに駆けていく。

 彼女の背中を目で追うと立花と目が合った。

 帰ろう。……立花の目が語っていた。

 二人は宝田家を辞去した。十数分ほどのわずかな滞在だった。

「何か分かりました?」

 エレベーターに乗ってから訊いた。

「いや、母親が自分たちを放置するのが面白くないという程度だよ。そっちは?」

「瑞希さんは、お母さんもお兄さんも大好きみたい。彼女もお母さんが何をしているのか知っているみたいだけど、それは秘密だって」

「兄貴の方も妹が大好きなようだよ。何があっても妹は自分が守るという気概のようなものを感じたな」

「守るって、誰から守るんですか?」

「そりゃ、世間とか、ちょっかいを出す悪い男とか、じゃないのかな?」

「まるで父親みたいですね。そういえば、瑞希さん。お母さんには相棒がいるって言っていました」

「相棒?」

「はい」

「そんなことを言うのは警察か犯罪集団ぐらいだよ」

 彼が苦笑した。

「お母さんは社長秘書だって」

「ああ、それは知っている。相棒は社長かな?」

「そうかも……」

 電子音が鳴ってエレベーターの扉が開いた。

 外は薄暗く、街灯に灯が入っている。二人はコインパーキングに向かった。

「このまま帰るんですか?」

「エッ?」

 彼が足を止めた。顔に期待が浮かんでいる。

「せっかく来たんだもの。張り込み、……しませんか?」

「あ、そういうこと……」

 彼は肩を落とし、アハハと笑って「そうしよう」と応じた。



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