第28話
自分の部屋に戻ると、玄関ドアのカギとドアチェーンをしっかりかけた。すぐにでも汚れた洋服を脱いでシャワーを浴びたかったけれど、誰かが殺しにやって来そうな気がしてできなかった。
湯を沸かしてコーヒーを淹れる。その香りをかぐと気持ちが落ち着く。ゆっくりコーヒーを飲んだ。飲み干すまで、誰かが襲ってくるようなことはなかった。
思い過ごしだ。そもそも事故は偶然だったのかもしれない。……着衣を全部脱いで洗濯機を回し、シャワーを浴びた。
「思い過ごしなのよ」
濡れた髪を乾かしながら鏡の中の自分に言った。それでも心細さが消えることはなかった。
――ピンポーン――
インターフォンが鳴る。心臓がギュンと縮んだ。慌てて身繕いをした。走って逃げられるよう、TシャツとGパンを選んだ。
――ピンポーン、ピンポーン――
チャイムは鳴り続けていた。恐る恐るボタンを押す。モニターに映ったのは立花の顔だった。
「立花さん!」
声がひっくり返った。
『こんばんは』
「どうして……」
嬉し涙で頬が濡れていた。
『つい、来てしまいました。心配で……』
「ど、どうぞ」
喜んでロックを外し、涙をタオルでぬぐった。弱い女だと思われたくなかった。それではバディ失格だ。
彼がやって来る数分間で涙は止った。ところが、部屋にやって来た彼の姿を見るや否や涙がこぼれた。抱き着きたい衝動にも駆られたけれど、それは耐えた。
「あれから何もありませんでしたか?」
その声は、これまで聞いたどんな男性のものより優しかった。
「はい、なにも……」
彼に背を向けてキッチンに立った。
「宝田鈴菜さんと話したんだろう。何か分かったかい?」
エッ、そっち?……驚いて振り返った。
「葛岡沙良さんのことじゃないんですか?」
「どうして奥さんの名前を?」
「ネットで知りました。何かあると、すぐに
「ああ、そうだね。家族のことまで……」
彼が顔を曇らせた。
「立花さん、答えてください。どうして葛岡さんじゃなく、社長の奥さんとの話を訊いたのですか?」
「あの家を見たんだろう?」
「はい。ひどい落書きでした」
「落書きだけじゃない。隣近所の冷たい目もあって、葛岡さんと娘さんはあそこに住めなくなって実家に戻ったんだよ」
「世間は冷たいですね」
額に傷を負った老人の顔を思い出した。
「葛岡さんに会えないのは分かっていた。今回は擦り傷程度で済んだからよいようなものの、相手が本気なら死んでいたかもしれないんだよ。だから捜査は二人一組でやるんだ。刑事たるもの、単独捜査は禁止。誰かに会うなら、必ず僕に声をかけてくれ」
彼は真剣だった。九条刑事の冴えない姿を思い出した。どうして彼は単独で動き、殺されてしまったのだろう?
「あのう、葛岡沙良さんの実家ってどこですか?」
「行くのかい?」
「場合によっては」
「そうか……」
彼は手帳を開いて住所を見せてくれた。それは信頼してくれているということだ。
「行くときは、必ず僕に声をかけてくれ」
彼は念を押すのを忘れなかった。
それからも二人は少ない情報を交換し、様々な推理をめぐらし、いつの間にか唇を重ねていた。それまでの推理が法子の頭の中から飛んで消えた。
「いい?」
「うん」
彼をベッドに誘った。不安だから? 愛しているから? その両方?……どちらでも良かった。身体が求めていた。
「あれ……、あれ……」
裸の彼が覆いかぶさり、上手くできずに悪戦苦闘していた。彼のものがツルリ、ツルリと法子の肌のうえで踊った。
もう少し上、……早く、早く。……このまま何もできずに終わるのではないかと焦る気持ちを押し殺す。協力してあげたいけれど、初めてのことなのでどうしていいのか分からない。ただ、彼に任せてその時を待った。
立花が腰の位置を下げて、再挑戦……。それは成功した。法子は、彼の愛をむき出しで受け止めた。一人じゃない。そんな安堵に満たされた。
日曜日、法子は立花と共に鈴菜を訪ねることにした。
彼が私用車でマンションまで迎えに来たのは、彼の都合で午後も遅くなってからのことだった。
「こんにちは。今日は、せっかくの休日なのにありがとう」
助手席に掛ける。あの夜のたった一つのイベントで、二人の距離は縮まっていた。
「僕らはバディだからね。気にしないでくれ。……あれから変なことはなかったかい?」
「はい。誰かに見張られているようなことはないようです」
「ひき逃げの件、九王子署から連絡はあった?」
「いいえ。さっぱりです。すぐに見つかるということだったのだけど……」
「雨だったからな。映像がはっきりしないのかもしれない。あるいは偽造ナンバーの可能性もある」
「そうですか……」再び狙われなければ、犯人は捕まらなくても良かった。怪我はもう治っている。それに、立花が心配してくれている方が嬉しい。「……立花さんの方は、どうでした?」
「ああ、宝田社長の周辺人物のアリバイを確認した。確固たるアリバイがあるのは店で働いていた本庄華と出張していた綾小路社長、接待でクラブにいた小早川部長、例のK部長だけだ。逆井亜里子、篠田美緒、綾小路課長は自宅で休んでいたということでアリバイにはならない。深夜だから仕方がないことだけどね」
「あのう、綾小路課長というのは?」
「ああ、初めて話したね。綾小路
「それで宝田社長を排除する動機があるということですね?」
「うん。ただ綾小路弘明にも葛岡との接点は見つからなかった」
「奥さん、葛岡沙良さんとの接点もありませんか?」
「調べた限り、出身地、出身高校、SNS、……どこにも接点はないよ」
「そうですか……」
マンション近くのコインパーキングに着いたのは日が暮れかけたころだった。宝田社長がクニノミヤ物産の経営権を取得しようとしていたのが事実なのか、それが事実なら、その理由だけでも確認しようと打ち合わせて車を降りた。
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