第21話
まもなく名古屋に到着するというアナウンスがあり、新幹線が減速する。乗客が数人、席を立って出入口へ向かう。
「男性は良いわね」
「え?」
突然、何を言いだすのだろう?……法子は真子の次の言葉を待った。
彼女は前の席を指さす。窓際の席には都留が、通路側には亀田が座っている。通路側に座っている法子からは、座席の隙間から都留の肩と駅弁と缶ビールがのったテーブルが見えた。彼らは早々に食事を終え、ビールも飲みほしていた。ほとんど動かないから眠っているのに違いない。
「……新幹線に乗った途端にビールを飲んで寝ちゃうのだもの。まだ昼よ。これってコンプラ上、どうなのかな?」
そういうことか。……真子の気持ちを察した。記憶の中からコンプライアンスにかかわる情報を引っ張り出す。
「就業規則には、酒気を帯びて事務所に入ってはいけない、とありますが、ここは事務所じゃないですから」
「剣さんも男性に媚びるのね。葬式の手伝いだの社長室の整理だの、部長に頼まれたら断らないし」
「そ、そんなことありません」
媚びるだなんて!……侮辱されたと感じ、口調が強くなった。
「就業規則ではそうでも、社会一般の道徳ではどう? 男性は酒をのんで寝るのが当たり前かもしれないけれど、私たちが同じことをしたら……」
彼女は、スーツケースをコロコロ引いて乗降口へ向かう乗客を一瞥し、ペットボトルのお茶を憤りとともにのどに流し込んだ。
新幹線が名古屋駅のホームに停まる。法子は目を閉じ、都留たちのように眠ろうと思った。監査の疲労が全身に滲みわたっている。
乗客が降り、新たな乗客が乗り込んでくる。身体のそばを彼らが動くので、音だけでなく、不快な空気が肌をなでて神経を削る。彼らがのしかかってくるようなことはないと分かっている。けれど、彼らの視線が自分の顔を白い目で、あるいは好奇の目で、舐めるように見るイメージが浮かんで眠れそうにない。
目を開けた。通路を歩く乗客は自分の座席を捜している。彼らは法子の顔を覗き込んでなどいなかった。
自意識過剰よ。……自分に言った。そう理解しても、それから目を閉じることはできなかった。
新幹線が動き出す。すべての乗客が自分の座席を見つけて腰を下ろしていた。
法子は目を閉じることができた。乗客たちの気配はどこかに消えたけれど、真子のトゲトゲした感情から逃れることはできなかった。
目を開けると彼女と視線が合った。
「監査、緊張するわよね。普段の仕事と違うから」
「はい」
眠れないのは、その緊張によるものだと思った。
「ビールを飲んだら眠れるのかしら?」
「そうですね」
曖昧に相槌をうつ。
「社長は永眠しちゃったのよね」
彼女は首を回し、景色に目を移した。
楯石さんは社長を慕っていたのかしら? それで眠れない?……彼女の行動が恋人を失った女性のそれに感じた。
宝田社長、何人と付き合っていたのかな?……本庄華、逆井亜里子、篠田美緒。そこまでは文字で考えた。その後に秘書の綾子と隣の真子の顔が脳裏をよぎった。
誰が葛岡をそそのかして宝田社長を殺したのだろう?……つい彼女たちを容疑者に設定してしまう。
いけない、いけない。……そう思ったのは、自分が事情聴取を受けた時の不快感を思い出したからだった。
財務官僚の葛岡に女性の影はない。……立花の話を思い出した。
彼はDV亭主だった。それは妻に執着していた証拠だろう。他に女性がいないこともうなずける。立花刑事はDV亭主の葛岡が妻の指示で人を殺すことはないと言い切ったけれど、妻を支配下に置くために、彼が妻の望みを叶える可能性はないだろうか? 一方的に暴力をふるっているだけなら、妻が逃げ出してしまう可能性がある。そうさせないために、経済的に、あるいは精神的に、自分に依存させる必要があるはずだ。そうするために妻の望む人間を殺す。……そこまで考えてあきらめた。葛岡の支配下にある妻が、交換殺人を行うほど誰かと交流を深めることはできないだろう。妻は、孤独、孤立ゆえに夫の支配を受けていたのに違いない。
彼女に会ってみようか? 会ってみよう。……葛岡龍斗の情報をインターネットで検索した。妻の名は
法子は匿名の者たちの悪意を感じずにいられなかった。夫が起こした事件だ。妻や子供にどんな責任があるというのだろう。
アッ!……心の中で叫んでいた。自分は沙良が殺害を促した、と推理していたではないか。その根拠は、彼女が妻だったということにすぎない。その一事をもって、彼女を加害者の側に入れていた。考えるだけなら自由だ。だけど、その飛躍を行動に移してしまったら、ネットに書きこむのと同じ愚ではないか……。
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