第14話
「宝田社長の奥様の友人です。名前は……」
彼女の名前より先に、有名な物語のタイトルが浮かんだ。鏡の国のアリス。
「……アリス。そう名前はアジアの亜に、一里二里の里、子供の子で亜里子。苗字は……、えっと……」
あいうえお、かきくけこ、と五十音を頭の中で言っていく。そうして〝さ〟でピンときた。
「……さかいです。逆さの逆、に井戸の井で逆井」
「逆井亜里子、ですね」
言葉にしながらメモを取る立花。
「はい。その方に子供がいるはずです」
「それは調べて見ないと」
「アッ、そうですよね」
彼は今、亜里子を知ったばかりなのだと気づいた。きっと写真を撮っていた九条なら、調べ終えていただろう。
「九条刑事は、犯人の葛岡さんに公衆電話から指示をしていた人物がいると考えているようでした。その人は分かったのでしょうか?」
「九条さん、そんなことまで話したのですか……」
不満げに首を傾げる彼の姿に、閃くものがあった。
「もしかしたら九条刑事は、捜査本部の方針と異なる主張をしていたのではないですか?……それで単独行動をしていた」
「あぁ、言われてみれば……」彼は機密事項を口走りそうになったのか、あるいは何かに気づいたのか、言いかけて口をつぐんだ。
「警察は保守的な組織なのですよね?」
「ええ、それが何か?」
彼が目を細めた。
「組織の方針に逆らったら出世できない。だから九条刑事は、立花さんに話さなかったのではないですか?」
立花を頼りない刑事だと思いながら、思いつくままに話していた。
「そうか、そうですよね」
彼は九条の愛情に気づき、感動したようだった。それまでこらえていたのだろう。涙が目尻を濡らしていた。
「いや、なんだか、すみません」
彼は手の甲で涙をふくと、照れ笑いを浮かべた。
「立花さんは捜査を続けるのですか?」
尋ねると彼の表情がこわばった。
「九条刑事の無念を晴らしてあげてください」
そう言ったものの、若い彼は、九条のように組織に逆らってまで捜査することはできないだろうと思った。
「そのつもりです」
法子の言葉をどう解釈したのか分からないけれど、彼はそう応じると口元を引き締め、一礼して去った。
ドアチェーンをかけてドアにもたれた。全身が虚脱していた。身近な者でなくても、人の死に接しただけで魂が削られたように感じるのはなぜだろう?
「逆井亜里子……」
名前を口にすると葬式の時の様子がまざまざと思い出される。……彼女が宝田社長を愛していたのは間違いない。彼女の子供は社長のものだろうか? それに対して社長は、DNA鑑定を行って、彼女とその子供を拒絶したのかもしれない。
「それなら……」彼女が宝田社長を殺す理由になるだろう。……愛は一転、憎しみに変わるものだ。愛しているから自分だけのものにしたい。そんな理由で人を殺す物語をたくさん知っていた。
愛は理屈では語れないものなのに違いない。……恋愛経験の少ない法子は、経験より書物で得た知識を信じた。
亜里子の顔が宝田の妻、鈴菜の冷めた表情に変わる。葬儀の後、参列者を見送る彼女に亜里子が抱き着いた時のものだ。
「だからかぁ……」夫と亜里子の不倫関係を、妻の鈴菜は知っていたのだ。……無責任な妄想が暴走し、確信に至ると背筋が震えた。妻の鈴菜にも、宝田社長を殺害する動機がある、と思った。
でも!……推理の欠点に気づいた。財務官僚の葛岡のことだ。
亜里子や鈴菜に彼を動かす力があるのだろうか?
「ない」
そう声にして玄関ドアの前を離れた。
「思い過ごしなのよ」
彼女たちには、葛岡を動かすどころか彼との接点さえないだろう。……自分に言い聞かせてシャワーを浴びる。生ぬるい水に打たれると溺死したという九条を思い出した。
「アー……」
降り注ぐ水滴に向かって声をあげた。
どうして人の命をたやすく奪うのだろう?……法子には人を殺す者の気持ちが理解できなかった。
翌日の夕方のこと、立花がシステム・ヤマツミにやってきて、幹部社員や女子社員を呼び出して話を聞いていた。
「何を訊かれたのですか?」
戻ってきた都留に尋ねた。
「前にやって来た刑事に何を訊かれたか、何を話したか、といったところだな。ああ、それと宝田さん、……前の社長夫人のことだ」
立花は九条刑事の死の原因と同時に、宝田社長の事件を探りなおしているらしい。そう察し、彼を少しだけ見直した。
「剣さん、刑事さんが話を聞きたいって」
呼びに来たのは綾子だった。
「五十嵐さんも聴取されたのですか?」
「ええ、奥さんのことをあれこれ訊かれたわ。それと逆井さんと本庄さんのことを」
彼女はそう応じて歩き始めた。その後を慌てて追った。
「今日は、応接室です」
「ですよね」
社長室には新しい社長が座っている。
綾子とは応接室の前で別れた。中に入ると立花がはにかむように笑った。
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